見出し画像

月に一度の往復書簡集2024【郷倉四季⇒倉木さとし】2回目 「ヤンキー漫画」はこの先どのように生き残っていくんでしょうか?

前回はこちら。

【人物紹介】

郷倉四季
 三〇代前半。姫路市在住。市内で引っ越しを予定。図書館が近く、古本屋が電車で一本の場所になる。スタバも近い。環境が変わったら作業速度が二倍から三倍になると信じている。車の免許も取る予定。今日、自動車学校からの資料が届いた。明石校のだった。僕は何かを間違えたらしい。

倉木さとし
 三〇代後半。育休あけて職場復帰したところ、惰性で働いていた頃には目をそらせていたマイナス要素に我慢できなくなり、転職を予定。いまよりも忙しくなるので、子供と遊ぶ時間が減るのは悲しい。執筆時間の確保どころか、読書の時間も減った。月刊誌の漫画を一月で読みきれなくなってから一年たつため、場所をとる月刊アフタヌーンを捨てるタイミングに迷っている。


【質問1 「ヤンキー漫画」はこの先どのように生き残っていくんでしょうか?】

 漫画家って一度は憧れる職業なのかも知れませんね。
 僕も漫画家になりたい時期がありました。
 ノートに絵を描いていて中学二年からデッサン教室に通った結果、高校二年の夏に僕には才能がないと諦めました。
 個人的にこの挫折は大事な経験でした。

 さて、今回の往復書簡の前半のテーマは漫画にして良いかも知れません。倉木さんに漫画を50作ほどピックアップしてもらったものを送っていただいていますし。
 この50作のリストは往復書簡を続けていく中で触れて行ければと思うのですが、今回は僕の前回の質問の中にあった「ジャンル」について触れていきます。

 以前、僕と倉木さんは漫画の実写映画に関する対談なども行っていましたので、今話題にするなら「幽遊白書」でしょうか(やりとりしている頃は話題になってました)。

「幽遊白書」をウィキペディアで調べるとジャンルは「少年漫画」「学園漫画」「ファンタジー漫画(オカルト)」「格闘漫画」「シュールコメディ漫画」と出てきます。
 ふむ。「シュールコメディ漫画」ってなんだろうと思いつつ、個人的に「幽遊白書」と言えば「ヤンキー漫画」だと思っていました。 ウィキペディアではそうではないようです。

 ヤンキー漫画って息の長いジャンルですよね。少し前ですが「東京卍リベンジャーズ」が話題になりましたし、実写化で「今日から俺は!!」も世間で再発見された印象もあります。
 今、もっともホットなジャンルとは言えませんが、なんだかんだ令和でも存在感を示しているので、今後も話題になる新作はありそうです。

 当然、少々古臭いジャンルというレッテルは張られている気はしますし、「今日から俺は!!」が若い子たちに受け入れられた背景には、ヤンキー文化が身近にないので、一種のコスプレ的なニュアンスで親しまれたと言う記事を読んだこともあります。
 勇者やディズニープリンスと同じファンタジックで記号的なファッションとして、ある種のヤンキーたちは受け入れられているのでしょう。

 氣志團とかそんな存在ですし。
 ちなみに、少し話をズラすと今回、ヤンキー文化を調べてみるとファッションの側面と共に音楽との繋がりも見ることができました。
 その時代の不良なファッションで若者の代弁者として歌を歌う。
 代表の一人に尾崎豊が出てきました。「15の夜」の歌詞に社会からはじき出されてしまった不良たちが何人が共感したのか、と考えると彼らのような存在は必要だったんだなと思います。

 同時に令和の不良たちが共感したり、憧れたりするアイコンとなる存在はいるのか、と考えてみました。
 浮かんだのは、ラップのフリースタイルの腕を競うMCバトルや日本のアマチュアキックボクシング及び総合格闘技大会のBREAKING DOWNの存在でした。
 彼らは社会に弾かれながら、しかし、ヤンキー文化を競技化することでエンタメとして社会に受け入れられています。少なくとも僕にはそのように見えます。

 あるいは、ユーチューバーもその一環に入るのかも知れませんが、僕はその辺に詳しくないので、今の時点で言及はいたしません。
 ただ、こうして考えてみるとヤンキー文化的なものは戦後日本のカルチャーの一つを担っていましたし、現在も生き残っていることが確認できます。
 倉木さんは、この令和の「ヤンキー漫画」ひいては「ヤンキー文化」について、どう見ていますか?
 また、倉木さん自身が過去に「ヤンキー漫画」ひいては「ヤンキー文化」をどう受け止めてらっしゃたのか、などを伺ってみたいです。

 ●

 質問自体は終わっているようなものなのですが、前回僕の小説に関する漠然とした相談に対して「さとくら君が読んできた小説で、オチが納得いかなかったものの続編を勝手に作って欲しいのだ」という回答をいただきました。
 なので、ここでは僕なりの今まで摂取したヤンキー作品の続編というか、それを土壌にして作品を作れないか? という試みをしてみたいと思います。

 まず、僕の目から見て「ヤンキー漫画」ひいては「ヤンキー文化」がどう映っているか書いてみます。
 僕がヤンキー文化的なものを最初に認知したのは「GTO」です。それもアニメで、夕飯時にテレビで放送していたのを家族と見ました。今でもOPのL’Arc~en~Cielの「Driver's High」がめちゃくちゃ格好良かったのを覚えています。

  • GTO」のアニメや漫画を僕が楽しめたのは、ひとえに教師ものだったからです。

  •  ここには世代の断絶があります。

  •  正当なヤンキー漫画は僕がカルチャーを楽しみはじめた頃には、もう出尽くしてしまって、それだけを描くのは古いものと言う空気があったように思います。

  •  具体的にはゼロ年代初頭辺りで、その代わりと言わんばかりに「池袋ウエストゲートパーク」などが席巻していました。

  • 池袋ウエストゲートパーク」をヤンキーものと見ることもできると思いますが、正当なヤンキー漫画とは違うと僕は考えます。

 僕自身の経験の中で、正当なヤンキーものが復権したのは映画「クローズZERO」の流行です。あくまで個人的にですが、イケメン俳優たちの演技や人気によって正当なヤンキーものは再発見されたように見えます。
 平成は昭和で泥臭く描かれていたものを、シャープでお洒落な雰囲気を被せて、再流行を図る動きが一部あったように思えます。
 ヤンキーものはその一つと言えるでしょう。

 さて、そのような土壌を踏まえた上で、僕が作品作りとして考えたい構造は【ヤンキー】+【何か】の組み合わせです。
GTO」で言えば、【ヤンキー】+【教師】です。
 今回の出発点となった「幽遊白書」は【ヤンキー】+【オカルト】で、「東京卍リベンジャーズ」は【ヤンキー】+【SF】です。
 そして、「今日から俺は!!」は作品を見ていないので、同じ作者の「お茶にごす。」で言えば【ヤンキー】+【お茶(文化系の部活)】になります。
 あくまで僕の分類ですが。

 ということで、僕なりに触れてきたヤンキー漫画で、倉木さんの言う「オチが納得いかなかったもの」で考えると、「R-16」がまず浮かびます。
 僕自身あまり正当なヤンキー漫画を読んできていないので、「R-16」はほとんど唯一と言って良いかも知れません。

 あらすじを調べると「神奈川県横浜市にある、不良だらけの地域に育った3人の少年。彼らがそれぞれの問題に苦悩しながらも成長していく姿を描いた青春ヤンキー漫画」と出てきました。
 ヤンキー漫画にとって「地域」は結構重要ですよね。
 そして、「3人の少年」。彼らは昔は仲が良かったけれど、今はほとんど敵同士になっています。
 あらすじにはありませんが、そんな過去の3人の関係を知っている先輩が死んでしまうことから彼らの関係を決定的なものになってしまい、お互いに別々のチームに入って敵対していってしまうのが「R-16」だったと記憶しています。

 ここから、ヤンキー漫画的作品の成立に必要な要素を抜き出してみましょう。
 まず、舞台である「地域」があります。ヤンキーは地元を背負いがちみたいな話もありましたが、彼らのアイデンティティには土地や地域性があるのでしょう。
 個人的にこの辺は祭りと不可分な関係性を結んでいると考えますが、今回は割愛いたします。

 地域の後に友達、先輩などの周囲との関係性があります。関係性の成り立っていないヤンキー漫画は今のところ読んだことがありませんし、起きる出来事や事件の多くがこの地域にいる友達や先輩関係による部分が大半を占めます。
 あとはチームと地域最強みたいな称号(「クローズZERO」で言う「鈴蘭制覇」)が絡んできて友情と喧嘩、あと男気な世界が成立します。

 構造上の【ヤンキー】では何が描かれるかは、だいたい分かったように思います。
 では、次に何を組み合わせるかですが、その前に想定される掲載誌を考えましょう。
 ヤンキー作品そのものを受け入れてくれるジャンル小説はありませんし、文化的には漫画の方が主流です。
 となると、コミカライズされやすい作品が前提でしょう。賞で言うと、カクヨムなどの投稿サイトなどで受け付けているコミカライズを前提とされている賞。
 暫定的ですが、カクヨム、小説家になろう、アルファポリス、エブリスタに掲載し、そこで開催される賞を取ることを前提の作品。
 コミカライズも視野に入れるなら、1話はツイッター漫画の1投稿4ページ+3投稿以内が個人的に読みやすいので、12ページ内で収まる内容。

 穴だらけな回路ですが、そのように想定すると【ヤンキー】+【食】かなと思います。
ダンジョン飯」とか流行っていますし、飯ものであれば終わり方もパターンが作れます。なにより、調べてみるとヤンキーとご飯の組み合わせってあんまりやられていない。
 狙い目なのか、成功しないって分かっているから、誰もやっていないのか。
 とりあえず、ヤンキーものの不満として飯のエピソードが貧しいんですよね。
東京卍リベンジャーズ」でもカップ焼きそばを分け合うエピソードくらいしか印象的なものはないですし。
 喧嘩すんのは良いけど、人を殴った後とかお腹すくんじゃないの?

 という訳で【ヤンキー】+【食】です。
 ここから、あらすじを〜と思うのですが、これは公開する内容でもありませんので、ここで割愛させていただきます。
 ただ、時間が経って考えてみると【ヤンキー】+【食】は一度挑戦してみたい所存ではいます。

【倉木さとし】回答1+質問2 作家VS AIとなった際に、何が勝てるのか、そしてどんな風に付き合っていくのが正解か?


  何から語ろうか迷ったけれど、さとくら君の前提からの補足からはじめようと思う。つまり『幽遊白書』がヤンキー漫画なのか問題。そこの疑問をとっぱらうところから話をスタートします。
 ちなみに、倉木にとってのヤンキー漫画といえば『スクライド』です。この時点で、今回の質問である、ヤンキー漫画やヤンキー文化をどう受け止めているのかという回答は終わった気でいる。
 そもそも『スクライド』はジャンルとしてはSFアクションらしいですが『幽遊白書』がヤンキー漫画ならば『スクライド』もヤンキー漫画でも許されるはずだ。最後まで下にスクロールした時に『スクライド』はヤンキー漫画と認めてもらえれば、同時に倉木の考えるヤンキー漫画・文化の受け止め方もわかってくれるはずです。

 まず『幽遊白書』とは、どういう話だったか思い出してみる。
 物語冒頭で死亡した主人公の幽助が蘇るまでの物語は、幽助がヤンキーだからこその導入だったり、問題解決方法だったりというのが目立っていた。でも、蘇ってからバトル物にシフトしていくと、どんどんヤンキー要素は希薄になっていく。幽助が中学卒業した後の魔界編に至っては、ほぼヤンキー要素がない。
 実際、ネットフリックスの実写版『幽遊白書』では、幽助はあっさりと蘇り、日本版のマーブル作品みたいな派手なアクションを展開する良作となっている。
 つまりですね、大量の予算が出せる『幽遊白書』というのは、ヤンキー要素を排除したバトル漫画なのだというのが、ネットフリックスの解答なわけだ。
 これは、令和だからという時代性は関係なさそう。だって、アニメ版も魔界統一トーナメント編が終わったら、すぐに最終回となっていた。原作漫画では、初期の頃に戻ったようなエピソードが描かれて、静かに最終回へと向かっていくにも関わらずだ。かつてヤンキーだった男が、うだうだする物語は平成のアニメでも求められていなかったのでしょう。だとしたら、生粋なヤンキー漫画としての需要がアニメの頃から『幽遊白書』にはなかったのではないか。

 うだうだ語ったことをまとめます。つまり、ここまで読み飛ばしてもいい。

幽遊白書』のヤンキー要素が色濃いのは、コミックスでいうところの二巻まで(あとは幽助が魔界から帰ってきてから最終回までに限ったあたりにも、ヤンキー要素はちょっとある)。そこらへんだけの作品ならば、ヤンキーとオカルトが混ざった漫画といえそうだ。
 だとしても、割合としてヤンキーが主だとは思えない。主血統はあくまでもオカルトであり、ヤンキーは副血統ではないかな。

 どうしてもそんな風に考えてしまうのは、倉木がさとくら君よりも年上で、90年代後半から00年代前半までは、家にサンデーとマガジンが転がっていた環境に起因しそうだ。
 質問で『GTO』の名前が出てきたので思い出したのだが『GTO』の前日譚にあたる『湘南純愛組』が掲載されていた頃のマガジンも読んでた。『湘南純愛組』や『カメレオン』などなどのマガジンのヤンキー漫画を語っていこうかと思ったが『幽遊白書』から話がはじまっているので、もうしばらくはジャンプ漫画を例にとって話しますね。

幽遊白書』が完結した当時、ジャンプに載っていたヤンキー要素があった漫画を倉木はいくつか好んでいた。『幽遊白書』『ろくでなしBLUES』『BOY』『ジョジョの奇妙な冒険第四部』『スラムダンク』ここら辺を読むために、当時はよく散髪に行っていた気がする。待ち時間にジャンプを読むのが楽しかった頃が懐かしい。
 先ほど語ったヤンキー血統理論(勝手に名付けた)で作品を仕分けてみると。
 主血統がヤンキーなのは『ろくでなしBLUES』と『BOY』。一方で『ジョジョ』と『(初期の)スラムダンク』は、ヤンキーはあくまで副血統。『幽遊白書』と同じく、別の主血統にヤンキーを混ぜた作品。能力バトル(スタンド)+ヤンキー。スポーツ(バスケ)+ヤンキー。みたいなイメージです。

BOY』の完結が99年なので、その頃がヤンキー主血統漫画の限界だったのかもしれないね。その後、ヤンキー漫画はマガジンやチャンピオンで細く長く連載が続くものはあるが、そこまで最強なジャンルではなくなった感はあります。
 それが、さとくら君の言葉を借りるならば、少々古臭いジャンルというレッテルにも繋がってるんだろうね。
 そうなると、令和の時代でヤンキー漫画を名乗る場合は、副血統がヤンキーだったとしても、許されなければやってられません。
 副血統がヤンキーだから『幽遊白書』もヤンキー漫画。だったら『スクライド』もヤンキー漫画というのは、いささか無理があるか。『スクライド』の場合は副血統よりも、もっと小さい遺伝子がヤンキー要素である。

 別のアプローチが必要になってきたので、別の作品を語ります。
 次に話題にするのは、最近というかすでに数年前ではあるが、日の目を見た『今日から俺は!!』です。作者である西森博之漫画を紐解くことで、ヤンキー文化の生き残り方と他ジャンルとの使い方のヒントが見えてくると思うのだ。
 さて。ヤンキー文化が身近にないがために、一種のコスプレ的なニュアンスで見えたという記事があったんやね。なるほどと思いつつ、連載中に本誌で読んでいた立場から思うところを語ると『今日から俺は!!』の良さは他のヤンキー漫画に比べて、恋愛が幼稚なところ。つまり、男女の生々しい関係が描かれなかったので、子供にも読みやすかった印象が強い。
 ヤンキー漫画なのにエロや下ネタが、少ない点が、令和でも『今日から俺は!!』が受け入れられた一因だと思う。ただ『今日から俺は!!』が如実だっただけで、これは『GTO』にも密かに使われている部分もあると思うのだ。パンチラシーンなどの中学生がドキドキするシーンがあるにも関わらず『GTO』の主人公は童貞である。

 そういや反町の実写版『GTO』って今年新作を放送しましたね。録画してるのでいつでもみえる状態ですが、まだ未視聴や。当時から、原作に比べて実写版のエロや下ネタは、ほどほどでした。令和ではどうなるのかという答えがわかるのだから、はやいところみないと。
 ちなみに反町隆史が歌うポイズンには、赤ん坊を泣き止ませる力があります。育休中何度かお世話になりました。

 話が逸れたけれど、ヤンキー漫画の主人公が童貞というのは、一種のベタな要素です。『スクライド』の場合、主人公と共に暮らすのが幼女のために、生々しい男女の関係はない。ヤンキー漫画の黄金パターンが、メインどころに実は使われていたのである(もっとも『スクライド』は映画『レオン』みたいな関係というのも、わかった上で語っているので、この理論に無理があるのも自覚している)。
 全人類に『スクライド』がヤンキー漫画だと認めてもらうのが、思った以上に難しい気がしてきたので、ちょっと家にある西森博之作品を読んできます。

 上まで書いて、ずい分と回答の執筆が止まってました。
 いやー、面白い。サンデーうぇぶりというアプリでも読めるから、売ろうかと思った日もあったけど、紙媒体で手元に置いといて悔いはないね!
 比較的新しい作品の『柊様は自分を探してる。』は、最終回だけ時代が飛ぶので、いつ打ち切りになっても面白くなるって形を作っていたのは、ベテラン作家の凄さをみました。たまに、最終回だけ読みたくなった時は、アプリを使うべ。

 さて。読み直してきたところ、西森作品はヤンキー漫画を見事にアップデートさせていたのがわかりました。
 ヤンキーの使い方が、時代によって変わっているので、そこに集中してみたらヤンキー漫画・文化のことで見えてくるものがありそうです。
今日から俺は!!』では、主人公と相棒がヤンキー。なんなら仲間も敵もヤンキー。前半部分に書いた血統を考えるならば、ツッパリ(主)+コメディ(副)で、ヤンキー漫画となっています。リスペクトをこめて、ここではツッパリと言わせてもらいます。

天使な小生意気』では、主人公は美少女。主人公に惚れた男たちが複数人いる中の、メインがヤンキー。他に惚れて取り巻きとなるメンバーもいるけれども、ヤンキーは一名だけである。先に名前を出した『BOY』が終わった年にはじまった漫画なので、この時代ではヤンキーのメインキャラは一人で十分となっていたのかもしれない。

道士郎でござる』では、主人公が誰なのかの議論が必要になりそうなので、二人とも主人公ということにして考える。ネイティブアメリカンの集落で武士として育った男と、その男に殿と慕われる男の二人が主人公。その武士が、最初に好敵手とみなす男が、ヤンキーだ。殿が惚れるヒロインもヤンキーといえるかもしれない。
 本作では中盤以降、主人公グループがヤンキー高校に転校するので、途中からヤンキーがいっぱい出てくる。この作品内では登場人物がこんなことを言って高校を中退する。
やっぱ学校にいるよーな奴はどっかマトモなんだよ
 その通りだと思った。どんなに悪ぶっても、遅刻しても学校に通ってるという背景を考えたら、なんだかヤンキーも可愛く思えてくる。だいたい、家で居場所がないとか、ヤンキー同士の友達で集まりたいから学校に来てるわけなんだよね。もっと言えば、大学に通っているヤンキーってなんなんだろう。受験するヤンキーなんて、もはや真面目な子が頑張って悪ぶっているように思えてきた。
 本作中でも、学校に通うヤンキーは雑魚扱いされている。学校に通ってない連中のギャングチームは凶悪だし、さらにその上で暗躍するヤクザは、もっとヤバかった。

お茶にごす』では、主人公が再びヤンキーに戻っている。だが、主人公は襲いかかる火の粉を払っていたらヤンキーになっていたので、高校入学と同時に普通になるべく、茶道部に入る。つまり、主人公がヤンキーを否定するというところまで来てしまったのだ。

鋼鉄の華っ柱』『柊様は自分を探している。』では、ヤンキーは出ているが、あんまり印象に残っていない。『カナカナ』は、元ヤンが社会人になっている。つまり、ヤンキーなんて過去の話となっているのが、現段階で最新の使い方なのだ。

 過去の話として使うといえば『東京卍リベンジャーズ』もタイムリープを使うことで、うまく落とし込めている。やはり、ヒットする作品にはヒントが隠れているのだなぁ。

 さて。西森作品の話作りの基礎は、生粋のヤンキー漫画だった『今日から俺は!!』から脈々と受け継がれているので、中身を知らなくてもどうせいつものノリで面白いだろうから、単行本を買おうという気にさせてくれる。
 ヤンキー漫画の話作りの王道を描きながら、ヤンキーの立ち位置が変わっていることも相まって、時代に合った漫画となっているのはすごい。
 じゃあ、ヤンキー漫画の王道とはなにかということになるのだが、そのパターンを使って話が転がっている作品こそが『スクライド』なのだ。近未来SFアクションをしながら、ヤンキー漫画の王道展開が散りばめられている。だから倉木は、ヤンキー漫画と言い続けてきた。
 例を挙げていけば、大人が作ったルールよりも自分のルールが大事で反逆する、仲間がやられたからやり返す、ヒロインが攫われたので真正面から乗り込んでいく、などなどあるが、もう実際に観てきてもらいたい。そして、すでに観たことある人には、ヤンキー漫画と思って再視聴してもらいたい。新たな発見があるはずだ。

 正当なヤンキー漫画は、あるにはあるけれど少なくなってきた昨今。『スクライド』がヤンキー漫画かもしれないと思えてもらえたならば、他の作品の中にもヤンキー漫画がこっそり隠れていると気づけるので面白いよ。

 回答は上で終わり。
 ヤンキー漫画や文化のこぼれ話から、質問へ。

 ヤンキー漫画の王道展開をもっと具体的に言語化しようと思っていたのですが、なんか最後やっつけな仕事になりましたね。ちなみに、回答を執筆していた日は、ネットフリックスのランキングが『Gメン』一位で『今日から俺は!!』二位となっていました。どちらもヤンキー漫画の実写化である。
 正直、ランキングを回答しはじめた初日に気づいていたら、遠回りせずに『Gメン』の原作漫画を描いた小沢としおを語っていたかもしれない。というのも『スクライド』の漫画が連載されていたのは週刊少年チャンピオンなんすよ。

スクライド』連載中には、小沢としおが描くヤンキー漫画『フジケン』も連載中だったと記憶している。小沢としおはヤンキー漫画をいくつも描いた漫画家であり『Gメン』以外にも実写作品はある。『ナンバMG5』と続編の『ナンバデッドエンド』を原作にしたテレビドラマが放映されていたはずだ。チャンピオンでいうところの、西森博之ポジションと言えるかもしれない。
 ヤンキー漫画の実写映像化が受け入れられる要因のひとつには、ヤンキー同士の殴り合いが映像として映えるからだと思う。まぁ『お茶にごす』の実写はそれ以前の問題があったりするのだが、過激な意見になりそうなので割愛。 
 それよりも、アクションシーンで思うところがある。タイマンや大勢での殴り合いだけでなく、最近ではワイヤーアクションやCGまで使っている。これらを昔から使っている作品があった気がする。
 そうです。スーパー戦隊やライダーシリーズなどの特撮である。

 昔から、倉木は特撮とヤクザ映画には共通するものがあると思っていたのだが、そこの中間部分に入るのがヤンキーだったのかもと考えた次第です。特撮、ヤンキー、ヤクザの順番ね。実際、特撮の敵ってヤクザよりもヤバいことしてたりするしね。あながち間違っていないのではないか。

 そんなことを考えたりする一方で、郷倉君がちょっとだけ語った不良の受け皿となった音楽の変遷に、もの申させてもらう。
 ごめんね。倉木は尾崎豊が大好きなんすよね。郷倉君は知ってると思うし、話題のフックになればと、彼の名前をわかりやすく使ってくれたのだと思うけど。むしろ、言えってことかなと勘繰って、面白がって書かせてもらいます。
 まず前提なんだけど、尾崎豊のファン層って、不良もいたというだけで、メインではないと思う。ライブDVDやライブCDとか持ってるけど、黄色い声援が多いのよ。なんてったって、尾崎ってイケメンだからね。
 ちなみに、倉木が言ってるのは見当違いな個人の感想レベルです。感性がずれているかもしれない男の戯言。だって倉木は、十代で反逆しながら歌った三枚のアルバムよりも、子供が生まれてから出た誕生というアルバムが好きだし。尾崎豊の卒業ソングといえば『卒業』を差し置いて『Scrap Alley』だと思っているぐらいなのでね。あと、長渕剛に共感したり憧れた不良が周りにいた影響もあり、不良の受け皿っていうのが認めにくいのかもしれん。

 現在、これを書きながらネットフリックス見るのやめて、ゲーム配信をみはじめました。なので、ゲームのスキルツリーを例にとって話させてもらいます。
 経験値を割り振って、スキルをどんどん伸ばしていき、より複雑な技を身につけるという流れが、スキルツリーだ。
 尾崎豊から派生した流れのスキルを極めようと経験値を割り振っても、ラップのフリースタイルに行くとは、どうしても想像できないのだ。
 先ほど、特撮、ヤンキー、ヤクザの順番での進化(?)みたいなものを語ったのだが、それと同じように尾崎豊を当てはめるのなら、こうなるのではないか。

 ビートルズ、尾崎豊、欅坂46。
 かつてビートルズが来日した時代、ビートルズのライブに行くものは不良だと言われて、学生が行ったら停学させられるなんてことがあったそうです。どうやら大人たちは、理解できないものを不良とカテゴライズする風潮があったみたい。そして、わからないものは認められないので、大人はくだらないと結論づける。くだらないものに熱狂するものは、不良だという理論も成り立ってしまう。
 だって、ビートルズが不良音楽だなんて、令和で言ってる人なんていないでしょう。でも、当時の大人たちからしたら理解できないものに若者が熱狂するのは、体制への反逆に近いものがあったのではないかな。
 そして、尾崎豊である。当時は不良(?)とカテゴライズされた十代のカリスマとして、ストレートに大人たちへの反逆を歌った。それが昭和から平成に変わる時代。
さらに、平成と令和を股にかける形で、同じように大人への反逆をアイドルに歌わせたのが欅坂46である。
 語っているうちに、欅坂46が、まるでZOC(ゾック)以上のヤンキーが集まったみたいになっている。反論が多そうなので、逃げねば。いや、話題を変えねば。

 最後に、誤解ないように言わせて貰えば、倉木はフリースタイルもブレイキングダウンもヤンキー文化を競技化してエンタメにしたという意見には賛成です。特に格闘技。昔は大晦日には格闘技を放送しているテレビ局があったのに、いまはないのが寂しいぐらいです。
 でも、ここにもヤンキー文化の衰退が関係しているのかもしれない。別にブレイキングダウンに出なくても大きな試合に出られるような強い格闘家の中には、一度も喧嘩をしたことがない人が増えているという話をききました。
 などと考えているうちに質問ができたぞ。

 かつては、喧嘩の強い奴が格闘家になっていた時代があった。でも時代が変わって、昔は一流になるために必須だった経験を、飛ばしてでも出来るようになったものもある。
 格闘技で言うならば、喧嘩自慢が格闘家に負けた悔しさから、努力して格闘技に打ち込むうちに、ヤンキーが格闘家になったという漫画みたいなストーリーがあったはずです。でも、いまでは喧嘩の経験ない人が、いきなりジムの練習から一流になっていく感じのもあるんですよね。でも、そういう人って格闘技のルール内で強いだけであって、なんでもありの喧嘩でも果たして強いのだろうか?
 同じようなことは、イラストの世界で如実に起きていると感じています。似たようなイラストしか描けないのに、イラストレーターになってる人がいます。そういう人の中には、手書きでイラストを描けないなんて、ザラみたいですね。お絵描きツールを使いこなしているだけで、手書きは全くダメ。しかも、ツールと同時に、フリーの画像を反転トレースして様々のトレス絵の一部を組み合わせることでキメラのようなイラストを生み出して形にし、ラノベの表紙を描いてる人もいます。いまいったような書き方をしているので、イラストを描くための技術じゃないものが進化しているので、ずっとうまくならないんですよね。格闘技で言うところの、ルールに守られた戦い方をして勝っている人ってイメージです。

 そもそも、格闘技しなくても武器を持てば人は簡単に強くなれます。本当は、それは個人の強さではなく武器の強さなのですが、持っている人は強くなったと勘違いします。
 創作の世界でも、簡単に強くなれるものが出来ましたよね。
 AIです。
 何十年も小説と向き合ってきた我々は、魂だけならばAIに負けるつもりはありません。負けるわけにはいきません。が、これからはAIのアイデアや、書かせた物語をちょっと修正しただけで、作家気取りになる奴が小説界隈にも出てくる気がします。逆に頑張って書いたものが、AIだろうがとか言われることがあるかもしれない。うーん。未来はどうなるのか。

 倉木がAIに勝てる部分は、魂や書かなければならない衝動みたいな原動力といった根性論に付随するものばかりです。郷倉君は、作家VS AIとなった際に、何が勝てるのか、そしてどんな風に付き合っていくのが正解かと思いますか?
 ちなみに、芥川賞受賞作みたいな使い方を、僕は批判するつもりはありませんよ。あれはAIの正しい使い方の一つで問題ないと思います。だって、登場人物一人のセリフを友達に考えてもらったようなものでしょ。それって、プロット段階や作品を見せ合う中で、倉木と郷倉君で意見を出し合うのの延長です。あんな風に使いこなしつつ、自分の作品をもっと魅力的に出来る方法がAIの可能性にあるならば、前向きに検討したいので、何か意見があったら教えてもらいたい。

サポートいただけたら、夢かな?と思うくらい嬉しいです。