令和という時代に通用する主人公10選。
浅井ラボがツイッターで宮口幸治著「ケーキの切れない非行少年たち」の感想を書いていた。
まず、「ケーキの切れない非行少年たち」は
児童精神科医である筆者は、多くの非行少年たちと出会う中で、「反省以前の子ども」が沢山いるという事実に気づく。少年院には、認知力が弱く、「ケーキを等分に切る」ことすら出来ない非行少年が大勢いたが、問題の根深さは普通の学校でも同じなのだ。人口の十数%いるとされる「境界知能」の人々に焦点を当て、困っている彼らを学校・社会生活で困らないように導く超実践的なメソッドを公開する。
という本。
つまるところ、反省にも知性が必要だという話で、聞く力や想像力が弱ければ、「これをしたらどうなるかを想像できない」と本書では指摘している。
そんな本書の感想として浅井ラボは以下のように言っている。
いろいろ問題はあるが、非行少年の95%がいじめの被害者で、そこから加害者となる。障害ゆえに勉強ができない、運動ができない、人と関わるのが苦手ということで全方位から馬鹿にされいじめられる。そこで悪事やすぐキレる怖さを褒められて、それを続けてしまう。
つまり、いじめられていた人間がやり返す、というとても簡単な方法に味をしめてしまった場合、「文章読解力も計算能力も想像力もない」状態で社会に出てしまうので、「ケーキの切れない非行少年」になってしまう。
なんとなく今が昭和、あるいは平成の最初くらいだったら、「悪事やすぐキレる怖さを褒められて、それを続けてしまう」少年たちの受け皿として、土方系や車などの整備士、電気工というのがあったんだと思う。
あっただろうって思えるのも、佐伯一麦の小説とかを読んだりするからで、結局、何に置いても知性とか想像力って大事だ。
知性や想像力がなければ、幾ら強くなってもケーキは切れないままで、幸せにはなれない。
結論、今求められている条件は「かしこい」主人公だと僕は考えます。
その「かしこい」とは、どういうことか?
今から挙げていく主人公たちを例に、それを伝えられたらと思うけれど、一つ的確なフレーズがあったので紹介したい。
人間は考える葦である
「考える葦」は人と出会い、学び、発見することで「行動する葦」へと成長していく。
こちらは岡田准一のラジオのキャッチフレーズで、内容は「岡田准一がある1つのテーマの専門家をお呼びして徹底的に質問。番組の終わりには、考える葦として、リスナーの皆さんと一緒に成長していきます。」とある。
ちなみに、葦とは「いね科の多年生植物」で水辺に生えているんだとか。
令和の主人公の条件は、まず考え、人と出会い、学び、発見し行動することではないか?
それを検証する意味でも、あらゆる主人公を紹介していきたい。
①緑谷出久「僕のヒーローアカデミア」
ヒロアカは、世界総人口の約8割が超常能力“個性”を持つに至った超人社会を舞台にした少年漫画で、主人公の緑谷出久はその超常能力“個性”を持たずに生まれた少年。
出久は“個性”を悪用するヴィランを“個性”を発揮して取り締まるヒーローに憧れているが、“個性”を持たず生まれた為に世界で活動するヒーローを事細かに計算してノートにまとめている、いわゆるヒーローオタクな一面を持つ(考える葦)。
そんな出久がひょんなことから、ナンバーワンヒーローのオールマイトから“個性”を受け継ぐ(出会い)。
“個性”を持った出久は雄英高校ヒーロー科へと入学し、クラスメイトと切磋琢磨していくことで(学び)、受け継いだ“個性”やヒーローとしての喜びや苦しみを経験していく(発見)。
ということで、僕が最も令和に通用しそうな主人公としてあげるのは、緑谷出久になる。
また、ヒロアカ内のヒーローという存在が「資本主義的精神に則り経済活動や競争を行う主体」として描かれている為、これから男女関わらず経済活動と競争を余儀なくされる若者にとって身につまされる作品となっている点も面白い。
②花垣武道「東京卍リベンジャーズ」
次は東リベを。
僕は前回、MCU作品を引用して「過去作に対しての自己批判から生まれている」と指摘した。
東リベは和久井健なりの少年漫画という歴史に対する挑戦とも受け取れる作品だった。
内容は26歳のフリーターの花垣武道が中学時代の彼女と弟が暴走族の抗争に巻き込まれて死亡したことを知り、ひょんなことから12年前にタイムリープする、というもの。
東リベの編集者のインタビューで、流行のタイムリープと和久井健の得意な不良を掛け合わせた、と言う発言が読めたりする。
その中で和久井健は少年漫画を研究されていた、というエピソードも語られている。
この流行に乗っかったシンプルなタイムリープ構造によって、一つあぶりだされた事実がある。
それは"無敵のマイキー"と称される佐野万次郎の存在だ。
東リベのタイムリープ前の現代における全ての不幸は"無敵のマイキー"こと佐野万次郎が根底にいることで物語が進んでいくと分かる。
冒頭に「ケーキの切れない非行少年たち」を引用したように、知性と想像力がない存在は救われない。
佐野万次郎は喧嘩は強く、暴走族をまとめ上げるだけのカリスマもある。決して知性がない訳ではない。
が、少年時代に抱えた理想だけで行動する為、「行動する葦」へと成長していかない。その為、周囲の悪に利用され、そこから抜け出せなくなる。
友情、努力、勝利とは、つまるところ、みんなで頑張って勝てば良いんだ、と解釈できてしまうけど、大前提の友情を育む相手が悪かそうでないか、という判断が佐野万次郎にはできない。
ひと昔前なら佐野万次郎は主人公になれるはずの存在だけれど、令和で語られる物語では、暴力を前提とした彼は「考える葦(言い換えるなら、動かない状態)」になれない為に、ケーキはいつまでも切れないままだ。
そして、そんな佐野万次郎とは対照的に26歳フリーターをしていた花垣武道は、あらゆる場面で足を止める。少しくどいくらい彼は「考える葦」でい続ける。
③「ザ・ハント」
こちらは映画。
見ている人も少ないだろうし、主人公が誰かということも含めてのエンタメなので、主人公名は記載しない。
内容は、セレブが娯楽目的で一般市民を狩る人間狩りゲームのターゲットにされた12人の男女の話。
映画内で、ウサギとカメの話がされる。
ウサギとカメが競争をし、足が速いが故に途中で昼寝してしまったウサギを地道に走ったカメが勝つ、というもの。
作中では、その続きとして、負けたウサギは手にハンマーを持ってカメの家に行き、カメに家族が死ぬところを見せる為に奥さんと子供をまず殺した後にカメを叩き殺した。
友情、努力、勝利をあざ笑うようなエピソードだけど、今の世の中はそうなっている(というより、昔から世界はそうだった)。
一度勝って、脚光を浴びれば、別のルールの世界に引きずり込まれて逆襲される。
だから、ただ勝つだけでは意味がないし、勝つことそれ自体が危険な場合もある。
冒頭からずっと繰り返しているが、必要なのは知性と想像力だ。それがあって初めて勝利に意味が出てくる。
なんとなく勝って、その後の人生もなんとなくハッピーは宝くじを当てるよりも幸運だ。世界は悪意で満ち溢れている。当たり前みたいに。
④千春「サキの忘れ物」
津村記久子の短編。
令和に通用しそうな主人公、という点で津村記久子の小説は注目されるべきだろう。平成では社会に馴染めず、居場所のない主人公の切実な日常という感じで読まれていたけれど、令和やコロナウィルスの蔓延によって、津村記久子が描くような社会の馴染めなさや居場所のなさみたいなものが際立ったような気がする。
そんな馴染めない居場所がないことを津村記久子は肯定する。「サキの忘れ物」は単行本で言うと36ページほどの作品だ。
「サキの忘れ物」の主人公、千春は高校を中退して病院に併設したカフェで働いている。物語としては、そのカフェで本を読んでいる女性が、その本を忘れていってしまう。
それがイギリスの小説家の「サキ」だった。
女性は友達のお見舞いのついでにカフェへ通っていたので、千春は見覚えがあった。
千春は社交的な人間ではなく、カフェで働きながらお客さんに話かけたことはなかったが、本を返す際に少し女性と喋って、忘れていった「サキ」の本が気になり同じものを本屋さんで探し求める。
サキがビルマ(という国)で生まれたと知って、どこにある国か調べたり、『社会主義者』とか『資本主義』という言葉を調べたりする。
そして、その感想を女性に話す。
そんなささやかな体験が、千春の人生に大きな影響を与える。
「サキの忘れ物」から学べることは、人はどんな小さなきっかけでも変われる、ということ。逆に何も考えていない、なんとなく生きている人間は変わるきっかけを見逃し続けてしまう。
⑤、⑥小野寺剛士「Aくん(17)の戦争」&黒江徹「デビル17」
今回、話のきっかけは『異世界転生者殺し -チートスレイヤー-』だったので、それに関して小野寺剛士と黒江徹をぶつけたいと思う。
その前にチートスレイヤーの原作者、河本ほむらの失敗は何だったのか、ということについて書きたい。
僕は『異世界転生者殺し -チートスレイヤー-』は完全なる失敗作だと思う。議論の余地はない。
その上で、何が失敗の要因だったのか、というと、なんとなく作品を作っているのが透けて見える部分だろう。
こうやったら話題になるし面白いだろう、と言うのは素人が妄想で語るのは良いが、プロがそのテンションで作ってはいけない。
『異世界転生者殺し -チートスレイヤー-』は作者のこだわりが一切感じられない。もし本当にこだわりを持って作っているなら、一話で連載中止なんて最悪な形での幕切れは避けるだろう。
こだわりがないから、炎上したから「はい、やめます~」というテンションで対応できてしまう。そういう人がプロでやれる世界ってことには絶望的な気持ちを抱く他ない。
『異世界転生者殺し -チートスレイヤー-』つながりで、まず紹介したいのは豪屋大介の「Aくん(17)の戦争」の小野寺剛士だ。
今は異世界転生するけど、一昔前は「異世界に召喚される」ことがポピュラーで、「Aくん(17)の戦争」は「魔王」として召喚される、と一回りして今風になっている。
小野寺剛士は自分の身を守る為なら、おそろしく知恵がまわり、どんな努力も惜しまない。冒頭のイジメっ子に対する復讐のねちっこさは最高。
令和的かどうかは置いて、異世界転生ものを書いている人は一読して良い作品だろう。初版が2001年なので売っているのか、という点は心配だけれど。
何にしても『異世界転生者殺し -チートスレイヤー-』の十倍、キャラが立っている。
さて、ではキャラを立てるとは、どういう状況を言うのか。
ここで「デビル17」だ。
黒江徹は修学旅行先で遭遇したテロリストを自分でも驚くほど鮮やかに殺してしまう。それをきっかけに肉体が作り替わったように身体能力が上昇する。
いわゆるスーパーヒーローみたいになった黒江徹の日々は暴力とセックスの日々に陥っていく。
身体能力も上がったら、そりゃあ性欲も上がるじゃん? 当たり前でしょ? みたいなテンションで進んでいく。そして、それを自然と読者に受け入れさせてしまうのが、黒江徹の魅力だ。
ちなみに、「Aくん(17)の戦争」も「デビル17」も富士見ファンタジア文庫で、いわゆるライトノベルに分類される。中学生くらいの頃に手に取った「デビル17」で、ガンガンやっている(色んな意味で)シーンがあったのは衝撃だったなぁ。
話が逸れたけれど、「デビル17」は小説で、完全なる一人称小説として成り立っている。
舞城王太郎とか「涼宮ハルヒ」シリーズの谷川流並みに黒江徹は地の文でむちゃくちゃ喋るし、問いかけてさえ来る。
なぁ、君もそう思うだろ? と、そして、そう思うって頷かされる文体と状況が作られている。つまり、著者の豪屋大介は小説が上手いのだ。
上手いと、セックスと暴力ばっかりでも面白く読まされてしまう、と分かるのが「デビル17」だ。
豪屋大介が2006年くらいの「このライトノベルがすごい」でインタビューに答えていて、銃の説明が三ページくらい続くことについて「銃について説明している訳じゃなくて、黒江徹というキャラクターを説明している」と語っていた。
一人称小説だからこそできる技術だし、なんとなく書いていたら到達できない域でもある。
⑦草薙桂「おねがい☆ティーチャー」
⑤、⑥をまとめると、一人称の語りの重要性ということになる。
語りを言い換えると、ヴォイス(声)で、その重要性は小説に限らず、アニメーションでも同様だ。
エヴァンゲリオンに関するネットの記事で以下のような紹介を読んだ。
碇シンジは日本アニメ史においてあまりにも特殊な主人公である。『エヴァ』を特別なものにしたのは、一にも二にも14歳の主人公の鮮烈な人物造形だったと言っていい。だが1995年に放送されたTVシリーズを見返して驚くのは、碇シンジに対する過去の説明や情報が驚くほど少ないことである。
中略
ほとんど過去の説明がなく、天才的能力を見せるわけでもない14歳の謎の少年に、「碇シンジは私だ、これは私の物語だ」と吸い込まれていく観客の数は1話ごとに膨れ上がった。
中略
緒方恵美の演技は、碇シンジの内面を台詞で説明するのではなく、声の色彩で表現することができたのだ。
この過去の説明なく、内面を声の色彩で表現するキャラクターとして、僕は「おねがい☆ティーチャー」の草薙桂も挙げたい。
彼は高校1年生として学校に通っているが、停滞という意識不明になり成長も止まってしまうという病気によって、3年間入院していたので、外見は15歳だが、実年齢は18歳だった。
この病気によって、新任の風見みずほと結婚する、という展開が可能になっている。
注目したいのは、草薙桂がクラスメイトと会話で、停滞という病を知った後で見ると草薙桂の喋り方は他のクラスメイトより落ち着いているが、特別に大人っぽい訳でもない。
この微妙なラインは、結婚する風見みずほとのやりとりの中でも見つけることができる。18歳とは子供と言うのは、少々落ち着いていて、しかし大人と言うほど達観している訳でもない。
そんなどっちにもコミットできない草薙桂の感情の揺れを声優を担当した保志総一朗は非常に上手く表現している。
令和という時代の主人公はあらゆるものにコミットしながら、そのどれにも自分の本心を預けられない、それでも行動する他ない、という選択を迫られている印象が強くある(「オッドタクシー」の小戸川宏はとくにそれを象徴していた)。
草薙桂はそのような中途半端な場所で、もがいていたところに自分と同じように数年もの間、停滞していた女の子の存在を知ってしまう。
この同じ境遇で強い共鳴できる存在を草薙桂は否定できず、ずるずるとその女の子側に連れて行かれようとするも、最終的にはその子を否定する。
同じ境遇の女の子の存在なんて、運命そのものでしかないのに、それを否定する、という点に「おねがい☆ティーチャー」の優れた点はある。
と同時に令和で似たテーマの作品が作られた時、その運命を否定できるほどの意味づけを物語の中で語れるのか、と言うのは一つの課題だと思う。
⑧須賀水帆「Piece」
男性主人公が続いてしまったので、女性主人公を。
芦原妃名子の「Piece」から須賀水帆なのだが、彼女は思考型で「他人に気を許してなく、一緒にいて疲れるタイプ」「二股とかかけられるタイプ」と作中で言われてる。
実際、本人も「人を本当に好きになる」ということが分からない自覚がある。
そんな須賀水帆が19歳の時に高校の頃のクラスメイト、折口はるかの死を知らされて行った葬式で、折口はるかの母親から一つのお願いをされる。お願いとは高校時代に折口はるかが付き合っていた男性を探してほしい、というもの。
折口はるかの謎を探っていく形式を取っているので、ミステリー的な側面もあるが、作者いわく「考えるな、感じろ!」とのことで、明かされていく事実は読者に予想できるものではない。
あらゆる衝撃的な事実を知って行く中で、「エゴだとしても知りたい」という欲求を須賀水帆は知っていく。同時に周囲の登場人物に間違ったバスに乗って、それに気付いたなら下りる勇気を持つように説得される。
須賀水帆は間違ったバスに乗ったことを良かったと言えるような選択をしていく。それが最良であるかどうかは分からない。ただ、須賀水帆にとっては間違ったバスに乗ることは必要なことだったんだ、と物語を最後まで読むと分かる。
比較するのは少し違うかも知れないが、白石一文の「この胸に深々と突き刺さる矢を抜け」で夫に暴力を振るわれている女性が登場する。彼女は「こうして彼と暮らしているのは自分の宿命のような気が」していて、「私がどうしても一度は通らなくてはならない道」だと語っている。
「みんなそうやって自分の道を歩くしかない」んだとも。
「考える葦」は人と出会い、学び、発見することで「行動する葦」へと成長していく。
に照らし合わせるなら、「人と出会い」の時点で躓いたり、良い人と出会っていても自分の考えが熟していない為に、上手く学びや発見に繋がらない場合もあったりする。
それでも、成長を諦めず「自分の道を歩くしかない」のだろう。
って書いて気づくけど、それは平成も令和も変わりないところはありそうですね。ただ、個人的な気持ちとして須賀水帆のような主人公は令和でも有効であり続けてほしい、とは思っています。
⑨万城目ふみ「青い花」
昔、山田詠美の「蝶々の纏足」を読んで、百合に目覚めたんです!って言ってる女の子と出会ったことがあって、へぇそういうこともあるんだって思ったことがある。
同性同士の恋愛って難しいけど、考えてみるとヤマシタトモコの「くうのむところにたべるとこ」でも、「肉を焼く瞬間、興奮するの!! 性的に」とか言って、焼肉食べてた二人が付き合い出す話もあったので、物語の蓄積を紐解くと結構ある印象だ。
ということで、志村貴子の「青い花」の万城目ふみだ。
彼女の恋愛対象が同性に傾いたきっかけは、いとこのお姉さんで、読む限り完全に向こうから手を出されている。きっかけは、いとこのお姉さんだが、それ以後も万城目ふみの恋愛対象は同性であり続ける。
二人目に付き合った杉本泰子という先輩は、初恋の相手を姉に取られたショックから、同性を恋愛対象として振る舞い、初恋の相手の気を引こうとしていた女の子だった。ある種、周囲へのパフォーマンスとして万城目ふみは利用された形になる。
それでも万城目ふみの恋愛の対象は女の子で、その理由となるのが初恋の相手、悪平あきらの存在だ。
奥平あきらと万城目ふみは小学生の頃、仲が良くて万城目ふみは常に奥平あきらに守られるような関係性だった。
そして、「青い花」はその奥平あきらとの再会から始まり、彼女へ万城目ふみが告白し、二人は付き合いだす。その付き合うということが奥平あきらの万城目ふみを傷つけたくないパフォーマンスなのではないか? という問いが終盤で浮上する。
男女間であっても、自分の気持ちを伝えるとか、恋人関係を迫ることって暴力になり得るし、なんとかハラスメントって話もいろいろ出ている今ですが、それでも一歩を踏み込まないと得られないものって確実にあるんですよね。
その一歩のおかげで「青い春」のラストは何度も繰り返し読んでしまうくらい美しいものになっています。
⑩天野志絵「デクリネゾン」
金原ひとみが現在WEB連載している「デクリネゾン」(11月に完結したが、これを書いたのはそれ以前の為、そのまま)を最後に紹介したいと思います。先日、金原ひとみの『アンソーシャル ディスタンス』が第57回谷崎潤一郎賞を受賞しました。
ちなみに谷崎潤一郎賞が選ばれる選考基準は以下になります。
明治・大正・昭和を通じて、幅広いジャンルで活躍した谷崎の業績にちなみ、時代を代表する優れた小説・戯曲を顕彰します。
ということで、2021年の「時代を代表する優れた小説」を書いた作家として金原ひとみはいる訳ですが、その時代ってコロナが蔓延したパンデミックな時代な訳です。
そんな混乱な世界で金原ひとみの最新小説がWEBで読めるなんて破格な状況です。
コロナの時代をどうやって生きれば良いのか?
なんて、答えのない結論を金原ひとみが書いてくれる訳ではありませんが、どんな状況であっても人は食事をするし、子育ての大変さもあるし、恋愛のあれこれから仕事のあれこれに追われて生活して行く訳です。
星野源が「そして生活はつづく」というエッセイの中で以下のように書いています。
たとえ戦争が起きたとしても、たとえ宝くじで二億円当たったとしても、たとえいきなり失業してホームレスになってしまったとしても、非常な現実を目の当たりにしながら、人は淡々と生活を続けなければならない。
生活という点で「デクリネゾン」の天野志絵はとても正直な生き方をしています。小説家で、バツ二で娘がいて、若い彼氏がいる為に編集者から「バツ二で若い彼氏がいるなんて、人生余すところなく楽しんでて最高じゃないですか」なんて言われます。
そんな編集者に対し、内心で天野志絵は「私は人生を楽しむために生きたことなどない気がするのだ」と言います。
では、天野志絵はなんの為に生きているのか。
答えはまだ連載中の為、書かれていないし、そういう何かを見つける小説なのか、と問われると難しいところでもあります。
けれど、繰り返すけれど、楽しむとか関係なく「人は淡々と生活を続けなければならない」のだから、着地点なんてなく糸が切れたように終わっても「デクリネゾン」に関しては何の不満もありません。
ちなみに、「デクリネゾン」にコロナの単語が出てくるのは三話からです。それからずっとコロナが肉薄した生活が描かれて行きます。
僕が最も共感したのは、お店でお酒を提供しなくなったことによって、天野志絵が理路整然とぶちギレるシーンで、僕はその通りだ! ってプラカードを持って応戦したい気持ちになりました。