【小説】西日の中でワルツを踊れ⑦ あたしたちは好きに生きてもいいの。魔法使いがいるから。
田宮由紀夫。
それがかの子の兄の名前だった。
そして、彼らの父親が属する組の名前は「田宮組」。
かの子の父は組長だった。
話を聞いてみると、かの子はぼくのことを何も知らないようだった。
「んー、一ヶ月くらい前にうちに来たのと、町中で見かけた時にいたのを見ただけだからね。詳しくは分からないわね」
「ならさ、そのお兄さんと会わせてもらえないかな?」
「お兄様と? 勝手に会えば良いじゃない……って、そっか。今、お兄様はあいさつ回り中だったわね」
「あいさつ回り?」
「いずれは田宮組を継ぐんだからって、お父様と一緒に直系の組に顔を見せをしているとかって、お母様が言ってわ」
「ん? ということは、ぼくもやくざの組員ってことになるの?」
いずれ田宮組を継ぐ田宮由紀夫のパシリがぼくなのだから。
普通に考えれば、そういうことになる。
とても残念なことに。
しかし、かの子はそれをあっさりと否定した。
「違うんじゃない? お兄様も組を継ぐ意思はあるようだけれど、まだ杯は交わしていないわ。だから、お兄様はやくざじゃないの」
「それでも将来、組を継ぐんだよね?」
「そーよ。ほら、やくざじゃない方ができることってあるじゃない?」
おおよそ小学生の女の子とは思えない物言いに、ぼくは薄ら寒いものを感じた。
が、それはあえて無視して話を戻す。
「じゃあ岩田屋町に、お兄さんはいないの?」
「うん」
かの子が頷いて、ぼくは絶望的な気持ちになった。
「なら、かの子ちゃん。お兄さんの連絡先を教えてくれない?」
「どうして? あんた、パシリだったんだから知ってるでしょ?」
「ちょっと色々あって、携帯が壊れちゃってさ」
「へぇ、奇遇ね。お兄様も携帯が壊れたとかで、今は連絡が取れないのよ。お父様いわく元気ってお話しだけれど」
奇遇? そんな訳ない。
ぼくの記憶喪失とかの子の兄、由紀夫は何かしらの関係がある。
「ちなみに、そのあいさつ回りはいつから、やっているの?」
「えーと、そうね。……二週間前くらいかしらね」
ぼくの記憶喪失、川島疾風の行方不明、田宮由紀夫のあいさつ回り、それが全て二週間前に集約される。
その日に何かがあった。
「かの子ちゃん。その二週間前に何かあったか、覚えていない?」
「さっきから、何なのよ。あんた」
いぶかしげな視線をかの子がぼくに投げかけるが、無視する。
ようやく掴んだ手掛かりだ。多少強引にでも踏みこむ。
「大事なことなんです」
「それは、あんたにとって?」
「かの子ちゃんのお兄さんにとっても。あいさつ回りをしているって言っても、かの子ちゃんはそれを確認できている訳じゃないでしょ?」
川島疾風が行方不明になっている以上、田宮由紀夫もまた同じ状況に陥っていないとは言い切れなかった。
そして、その場合、田宮組組長が家族に黙っておかなければならない類の事情が絡んでいると考えるべきだった。
それが何か、具体的には分からないけれど。
「なに? お兄様が危ない状態にいるかも、って? それは有り得ないわね。だって、チャンさんが大丈夫だって言ったんだから」
「チャン?」
かの子が何故か誇らしげな笑みを浮かべる。
「チャンさんは凄いのよ。何でも思い通りに動かすことができる、そーね。言わば、魔法使いってやつね」
「魔法使い?」
「チャンさんがあたしたちの味方にいるんだから、何があっても大丈夫なのよ」
断言する物言いに気味の悪さを覚えた。
「大丈夫って、どーいうこと?」
「あたしたちが好きに生きても大丈夫ってこと」
言った瞬間、かの子は確かに有を見た。
欲しいものは何でも手に入れようとする。
十歳の子供であれば、当たり前の振る舞いが家や環境によって確かな不気味さを帯びて見えた。
ぼくは意識的に前へ進み、有の前に立った。
かの子の視線がぼくに移った。
そこには明確な敵意が含まれていた。
「じゃあ、かの子ちゃんのお兄さんも好きに生きているんだね」
「当然じゃない」
「なら、あいさつ回りも好きに生きる為の一環なの?」
「その通りよ。お兄様は前から、あいさつ回りをしたいって言っていたわ。多分、四年前のことがあったからでしょうね」
「四年前?」
と問うぼくに対し、かの子は平然と答える。
「あたしは小さかったから、あんまり覚えてないけど四年前に戦争があったそうよ。その時、お兄様は活躍できなかったことが心残りなの」
「戦争?」
物騒な単語にぼくが繰り返すと、予想外の方から返答が返ってきた。
「やくざの組同士の抗争だよ。巖田屋会と外からきた無双組の、ね」
「山本さん、詳しいんですか?」
有が不思議そうに山本に尋ねた。
山本は写真のチェックを続けながら口を開いた。
「岩田屋町に住んでいる人なら大抵、知っているんじゃないかな? テレビや新聞でも報道があったしね」
「なるほど」と有が頷いた。
ぼくは話を元に戻すべく続ける。
「それで、かの子ちゃんのお父さんの組は巖田屋会と外からきた無双組、どちらに属しているの?」
かの子がまだ膨らんでいない胸を張った。
「無双組よ」
巖田屋会じゃないのか。
ということは、と浮かんだ疑問を口にした。
「かの子のお兄ちゃんのあいさつ回りは県外なの?」
「そうよ。無双組は全国規模の指定暴力団なんだから、知ってるでしょ?」
かの子の知っていて当然という顔を見て、ぼくは知らないはずの無双組の情報が頭に流れ込んできた。
記憶を失ったと言っても知識を失った訳ではない。
何かきっかけさえあれば、知識はぼくの手元に戻ってくる。
無双組はかの子の言う通り、全国規模の指定暴力団だ。
現在、岩田屋町付近に組を構えている無双組は田宮組以外にも加藤組、シャイニー組。
組織の内情に関しては不明。
まるで実感の沸かない情報だけが頭に浮かんできても、それが過去のぼくにとってどれほど価値があるものだったのか、計り知れる訳ではなかった。