【小説】西日の中でワルツを踊れ③ 世界そのものに見限られないように、ぼくは外へ出た。
岩田屋町は山に囲まれた町だった。
住宅が密集しているところがあって、やや大き目な湖も確認できた。
人と自然が隣り合う場所。
町を見下ろし、ぼくは事細かに目で追っていった。
それは完成したパズルのピースの継ぎ目を辿るような作業だった。家と家が隣り合い、公園があって森林がある。
何処にも抜けた空白はなく、ぴったりと寄り添い合っている。
「ナツキさん」
振り返ると、紗雪が立っていた。
彼女の横には見慣れない女性の姿もあった。
黒のシャツにジーパンという出で立ちで、シンプル故に女性のスタイルの良さが伺えた。
「こんにちは」
目が合うと、女性は感じよく笑って言った。
ぼくは整って間もない呼吸状態で、上手く喋れる気がせず頭を下げるだけに留めた。
そんなぼくの仕草を見て、女性は「ふむ」と頷いた。
「良いじゃない、紗雪ちゃんの彼氏。ちょっと、髪色が明るくて、目つき悪いやんちゃ系っぽいけど、紗雪ちゃんが真面目だし。相性良いんじゃない?」
実際、ぼくは金髪で、生え際の髪はやや黒色が混じりだしている。
いわゆるプリン状態のぼくは、どう言いつくろっても真面目な風貌からは遠い外見だった。
目つきも悪く、病院の廊下で見知らぬお爺ちゃんに「何、睨んでいるんだ」と注意を受けたこともある。
「違いますよ!」
紗雪がやや必死に否定の言葉を並べた。
「ちょっと訳あってナツキさんとは一緒に行動しているだけで。彼氏じゃありませんよ。ナツキさんは今、大変な時ですし」
「へぇ」と頷く女性の笑みには隠す気のない余裕が含まれていた。
ぼくは居心地の悪いものを感じつつ、紗雪の横に立った。
「はじめまして。西野ナツキと申します。現在、記憶喪失で家無き子です。ぼくの顔に見覚えはありませんか?」
「ん? んー」
女性はぼくの顔を至近距離で覗き込んだ。
長い睫毛、大きな瞳、手入れの行き届いた艶のある髪の毛が視界に入ってきて、ぼくは少し焦った。
紗雪が慌てたように声をあげた。
「朱美さんっ! そんなに顔を近付ける必要、絶対にありませんよね!」
「あはは」
と笑って、女性はぼくから離れた。「紗雪ちゃんが慌てるのが見たくてね。ごめん、西野くん。見覚えはないや」
「そうですか」
落胆しなかったと言えば嘘だった。
病院を出て、町を歩けば記憶は戻る。それが甘い想定だったとしても、手掛かりの一つくらい掴めると思っていた。
現実は当たり前みたいに厳しい。
町を歩く程度で手掛かりは得られない。
「ナツキさん」
と紗雪が手で女性を示した。「彼女は久我朱美さん。こちらの神社の方です」
「どもー。是非、初詣などにはウチの神社をご贔屓にお願いします。お姉さんのちょっと色っぽい巫女服も見れますので」
「それは期待が大ですね。来年の初詣には必ず、こちらの神社に来ます」
「へぇ、ナツキさんって巫女服好きなんだ」
小さな声で紗雪が言ったが、それに答える前に朱美が口を開いた。
「あら、記憶喪失だって聞いていたから、もっと深刻に悩んでいるんだと思ったけど。そうでもないのね」
「そうですか?」
「そうよ。ほら、よくあるじゃない。ここはどこ? あたしは誰? ってやつ」
「その辺は、紗雪さんのおかげで、あまりしなかったですね」
紗雪が電話をしてきた時、ぼくは放心状態であっても混乱状態とは違っていた。
目覚めた当初から、ぼくはぼくという自覚を持っていた。
過去のないぼく。
混乱し、暴れれば過去のぼくが蘇ってくる訳ではないし、何より全身に広がる耐え難い痛みは過去のぼくがもたらしたものだった。
まことに憎たらしいことではあるけれど。
記憶がないだけで、ぼくが生きるこの身体は連続してここにある。そういう納得が呼吸によって、あるいは痛みから自然と成されていた。
「不思議な子だねぇ。不安になったりしないの?」
「しますよ。けど、考えても仕方がないこともあるかなって」
「淡泊ですなぁ」
朱美の言葉にぼくは心の中で否定する。
単純にぼくは臆病なのだ。
もしかすると、と過去の自分について一ダース分の可能性を考えたとして、その殆どが悪い想像にしか繋がらない。
不確定な悪い想像に取りつかれたままでいるとぼくは病院を一歩も出られないし、記憶を取り戻したいとも考えられなくなる。
そうなれば、ぼくは紗雪のお願いに応えられない。
紗雪がぼくを見限ってしまうことは、大げさでなく世界そのものに見限られることと同義だった。
今のぼくの生きる目的は紗雪のお願い、目的に応えることであり、それは過去のぼくに関する現状唯一の手がかりでもあるのだ。
それを失えば、目覚めた時の一人ぼっちの海の中に逆戻りだった。ゆっくりとその身が海の底へと沈み行くのを待つだけの時間。
そんな状態に戻るのは御免だった。
「朱美ちゃん。それで私にお願いってことは『見て』ほしいってこと?」
と紗雪が言った。
お願い? 『見て』ほしい?
と疑問に思ったが、以前から知り合いの二人なのだからぼくが知らないのは当然だろうと口は挟まなかった。
「うん、そう。少し話もしたいし、どう? これから家に来ない?」
やや神妙な表情で朱美が言った。
外で立ち話で済ませられるような話ではないのだろう。
紗雪がちらっとぼくを見たので、
「ぼくは構わないですよ」と柔らかい笑みを意識して浮かべた。
今のぼくは何であれ、全ては受け入れていく。それ以外にできることはない。