【小説】西日の中でワルツを踊れ28(終) 川田元幸が、ぼくの名を口にして笑った。
――俺が現場にたどり着いた頃には、田宮が乗る車は崖の下。川島疾風は車を下りて、一人崖の下へ向かった後だった。俺はひとまず状況確認の為に、川島疾風の車を通り越して、状況を確認できる場所で事が起こるのを待った。
――川島疾風は車から中谷優子を救い出し、自分の車に乗せた。そんな疾風を追って、田宮がゴキブリのように彼の車のボンネットに張り付いた。疾風は容赦なく田宮を轢こうとしたが、その勢いで田宮は車の後頭部を転がり、後ろの地面に落ちた。
――何を思ったのか、疾風は車から下りて田宮と対峙した。おそらく事情を聞いて、再発を防ぐつもりだったのだろう。確かにゴキブリは見つけた時に叩かなければ、後に面倒になる。
――彼らの会話の声は聞こえなかったが、発砲音が響いたのは分かった。その後の田宮の汚い絶叫も。疾風は拳銃を所持しているらしかった。
――地面に田宮由紀夫が倒れて叫び、川島疾風がそれを静かに眺める。その光景には目を奪われる何かがあった。
――当時は言葉にならなかったが、今考えると俺は感動していたんだ。自分の恋人が拉致られ、脅しの連絡がある前に気づき、実行犯の連中を突き止めて追い回したあげくに、主犯を容赦なく撃ったんだから。
――川島疾風は何か美しい獣のようだった。
――しかし、その美しさは無粋な現実によって穢される。田宮を撃った川島疾風の前にヤガ・チャンが現れた。
――俺の位置からは、彼らの会話は聞こえなかった。ただ、血を流したのは川島疾風だった。疾風は腹から血を流し、一人ふらふらと歩きだし車に乗り込んだ。
――まるで、死に場所を求めるみたいだった。
――そうして、残されたのはヤガ・チャンと遠くから様子を窺う俺だけになった。逃げるなら今だった。チャンはゆっくりと俺のいる方に近付いてきた。
――まるで、全て分かっていたかのように、チャンが俺の名前を呼んだ。「川田元幸」と。
――決して逃げられない距離じゃなかった。でも、川島疾風の姿を見た後だからか、俺は自然とヤガ・チャンと対峙する形を取った。
――チャンは歓迎すると言わんばかりに手を広げた。
――「貴方のおかげで、私は実に動きやすかった。お礼を言いますよ。この状況を作ってくれたことを、ね」
――何を言っているのか理解する気もなく、俺は西野ナツキについて尋ねた。チャンは隠す素振りなく、それを認めた。
――俺はチンコを撃たれて気を失っている田宮の下へと走り、奴の首筋にナイフを突きつけた。チャンは駄々っ子を見るような視線で俺を見るだけだった。
――それでも、俺は言う他なかった。自分の望みを。
――「なぁ、チャンさん。田宮を殺されたくなかったら、西野ナツキの事件を握り潰してくれないか?」
――「ここに来て、もはや田宮くんに利用価値はありませんよ。それ以前に、川田くん。君は甘い。本当に西野ナツキの為に人を殺す覚悟があるのなら、君が藤田京子を殺したと自首すべきだったのではないかですか?」
――片岡潤之助の言葉が浮かんだ。
――甘く、弱く、愚かだ、と。結局、俺は自分の手を汚さず、可能な限り自分を変えず、世界を変えようとした。他人を傷つけることに躊躇しないが、自分が傷つく瞬間になると逃げだす。自分勝手で、中途半端。
――それが川田元幸という男だった。
――分かっていた。それでも。
――「俺が自首しても、お前等は西野ナツキを脅しただろうが」と俺は言った。
――チャンは哀れなものを見るような目で俺を見た。
――「西野ナツキが脅されない為に田宮由紀夫、その取り巻き、そして自分を殺そうとは思わなかったのですね」
――残念ですよ、とチャンが言った瞬間、破裂音が続いた。
――俺が敗北した瞬間だった。
川田元幸が煙草の吸い殻を地面に放ると、また神社に戻っていた。そして、彼は新しい一本を咥えライターで火を点けた。
――聞きたい話はあったか?
「あったよ。ありがとう」
と、ぼくは言った。
――そうか。なぁ? 俺を殺す、お前。
「なに?」
――周囲にいる個人的に思う人、思い入れのある物を守るって、お前言ったよな?
「言ったよ」
――それは西野ナツキと俺が出来なかったことで、川島疾風がしようとしたことだ。お前は、あんな美しい獣のような人間になんのか?
強い風がぼくらの間を通り過ぎていった。川田元幸の言葉によって、浮かんだのは中谷勇次だった。
彼が中華料理屋に入り、やくざの会談をしている二階へと進んだ、あの瞬間。誰にも目をくれず、ただ真っ直ぐ進む少年。
「なるよ」
言うと、右手に重みが現れ、目を落とすと銃が握られていた。
川田元幸を見ると、彼は人差し指で額をトントンと叩いた。
撃て、とそう言っているようだ。死者の世界は何でもありだな、と思った。
ぼくは銃口を彼に向けた。
中谷勇次ほど圧倒的ではないだろうし、川島疾風のように美しくもないだろう。けれど、ぼくは自分の夢を諦めない。
川田元幸が、ぼくの名を口にして笑った。
ぼくは引き金を引いて、それに応えた。
■■■
「ナツキさん?」
紗雪の声で現実に戻ってきたことが分かった。
目を開けると、ぼくは地面に大の字になって倒れていた。
「ねぇ、聞いてもいい?」
「なに」
「ここに来た時から、ずっと気になってたんだけど。手に持っているものは、なに?」
紗雪にそう言われて右手を上げると、ぼくは思わず笑ってしまった。川田元幸のいた世界では銃を握った手には遥から貰ったお菓子が握られていた。
食べれば、遥の幼馴染がなんでもできる、と言うお菓子。
がんばれー。
遥の幼い声が耳の奥で蘇った。倒れたまま右手を空に向けた。
西日が終わりつつある。
完全な夜の訪れがもうすぐそこに迫っていた。
了