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「号泣する準備」をし、「泳ぐのに、安全でも適切でも」ない生活を余儀なくされる「インヘルノ」。

 江國香織が直木賞を受賞した作品のタイトルが「号泣する準備はできていた」でした。12の短編で構成されている本作は2003年11月に出版されました。
 その前の年の2002年に「泳ぐのに、安全でも適切でもありません」という10の短編で構成された作品も江國香織は発表していて、こちらは山本周五郎賞を受賞しています。

 この二冊のタイトルは、どちらも将来的に不幸になると分かっているけれど、やめられない何かの渦中である人達が描かれています。
「号泣する準備はできてい」る恋愛、「泳ぐのに、安全でも適切でも」ない人生。

 僕は、この二冊から江國香織作品に触れた為、江國香織と言えば、短編集という印象を持っています。
 実際、江國香織のトークショーへ行って、一冊だけ本にサインしてもらえると言われて、川端康成文学賞を受賞した「犬とハモニカ」という短編集を持って行きました。
 個人的に表題作の犬とハモニカも大好きなのですが、「寝室」という二編目の短編が僕は、これぞ江國香織と言いたくなるくらい好きでした。

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  そんな僕ですが、江國香織に強く影響を受けている部分はエッセイです。江國香織みたいなエッセイが書ける人間になりたい、というのは僕の一つの指標でもあります。
 そんな江國香織のエッセイの中で、とくに好きなのが「泣かない子供」というエッセイ集の中の「ラルフへ」という一編でした。
 内容はラルフという男友達への手紙で、送り主の女性とラルフは二人とも家族を持つ恋人と恋愛関係に陥っていて、その頃のことを思い出すような形で手紙は始まります。

 女の子が独身の人しか好きにならないというのは、背が高く、学歴が高く、収入の高い男しか好きにならないと言った、条件つきで人を愛することと一緒なのではないか、と書きます。

 確かに人を好きになる、という部分において、背が高いから、学歴が高いから、収入が高いから好きになる訳ではありません。翻って、それは既婚者だから好きにならない訳ではありません。
 恋に落ちる、という表現がありますが、人を好きになることが「落ちる」ものであるなら、それは一種の事故です。

 その上で、如何のように手紙は続きます。

 私は今までずっと、自分の気持ちに素直に恋をしてきたし、たとえどんなに怖くても、その気持ちから目をそらさなかった。ちゃんとまっすぐ人を好きになってきたと思うの。だから私は私のしてきたいくつかの恋を(というよりそういう恋をしてきた自分を)誇らしく思っているし、それは「正しい」ことでしょう? その人と出会って恋をした、っていうことがすべてで、それはとても幸福で誇らしいことだから、たとえばその人に家庭があって、それを悲しむ必要なんかないでしょう? 少なくとも、私はずっとそう思ってきたのです。

 僕は不倫はよくないことだと素直に思うのですが、なぜ不倫という関係に陥ってしまうのか、ということを知らない上で「不倫は悪いことだ」と言う人の意見には興味が持てません。
 どうして、それが起こるのか分からないのに、ただ悪いことだから悪いんだ、では何の生産的な話も出来ないと思うからです。

 江國香織の「ラルフへ」は不倫関係にある人物の視点が描かれ、そして、不倫の中で起こる悲しみが描かれます。「ラルフへ」は不倫関係を肯定しているようで、決してそうではないエッセイとなっていることが、最後まで読むと分かります。

 さて、そんな江國香織の小説の中に「落下する夕方」という作品があります。こちらは後半を読むと分かるのですが、根底にあるのはある姉弟の報われなかった恋愛関係です。

 近親相姦は不倫よりも、より悪いものだとされています。
 その理由として、よく用いられるのが、生物学的に生まれてくる子供の血が濃くなって遺伝子の多様性を獲得できず、病弱な子どもができる可能性が高いからとされています。
 ただ、鳥類や哺乳類一般において、ある頻度での近親性交はあるそうで、障害がある子供が生まれるという話は、実際にデータが少なく、そのような子が生まれたとしても、公にされることがないため現実にはどうなのか分かっていないそうです。

 なので、近親相姦のダブーは社会的な問題と言っても良いのかも知れません。僕らが生きる社会は結婚により家族を増やすことで発展してきた側面がある為、姉弟などで結婚することが容認されてしまうと、困ってしまう人が多く存在するのでしょう。
 たとえば、その姉弟の両親とか。

 などと書いて、ようやくの本題です。
 マツモトトモの「インヘルノ」という少女漫画についてです。

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 こちらは先ほど書いた近親相姦もので、姉と弟の恋愛関係が描かれています。
 インヘルノのタイトルの意味はポルトガル語で「地獄」。
 あらすじは両親の復縁で四年ぶりに一歳下の弟の轟と再会し、一緒に暮らすこととなった、高校二年生の更。
 主人公は姉の更のように読めますが、途中から弟の轟の視点が混ざり込んできて、二人の物語となります。

 あえて江國香織の「ラルフへ」の一文を少し変えて、説明するのなら以下のようになるかと思います。

 その人と出会って恋をした、っていうことがすべてで、それはとても幸福で誇らしいことだから、たとえばその人が姉/弟であっても、それを悲しむ必要なんかないでしょう?

 悲しむ必要はないけれど、姉弟で一緒にいる為には「号泣する準備」をし、「泳ぐのに、安全でも適切でも」ない生活を余儀なくされてしまいます。
 その生活の大変さを如何に引き受けるのか、ということを「インヘルノ」の姉弟はある地点から考え、準備をし始めたように思います。
 恋は落ちるものであるとすれば、愛は育むものです。
 育む、をネットで調べると以下の意味が出てきました。

1 親鳥がひなを羽で包んで育てる。「ひなを―・む」
2 養い育てる。「大自然に―・まれる」
3 大事に守って発展させる。「二人の愛を―・む」

 すべて、自分の外にあるものへの意味があり、一個人が自分を育むということはできないようです。
 恋は落ちるだけの為に一人でもできますが、愛は育む為に一人ではできないようです。

 マツモトトモの「インヘルノ」は徹底的に日常を描いている物語でした。特別な、大きな出来事よりも、ただ一緒にいることの地獄(インヘルノ)を全5巻の間に繰り返されていました。
 その繰り返しの中で、姉弟が一緒に生きるにに必要なものを育む為には、どうすれば良いか。

 そして、それは姉弟という関係性を超えて、普通に生きて恋愛をする僕たちにしても、多かれ少なかれ誰かと一緒に生きて、共に何かを育もうとする場合、それは必要なのではないか、と問われているようでもありました。
 考えてみれば、今を生きる僕たちの世界が地獄(インヘルノ)でない保証なんて、どこにもないのです。

サポートいただけたら、夢かな?と思うくらい嬉しいです。