【小説】西日の中でワルツを踊れ⑱ 日によって自分に似る、写真の自分に似る。

前回

 料理が尽きたものの、やくざの会談が終わらない限りは席を立つ訳にもいかず、二回目の注文を山本がしてくれた。順番はおかしいが野菜などの常温でも味の落ちないものを山本は選んだ。

 守田は奥の席で男と銃を突き付けてきた美人と同席した二人の男に向かって、何かしらの説明をしているようだった。
 山本が注文した料理はすぐテーブルに運ばれてきた。
 ぼくはサラダを新しい取り皿に乗せた。中華料理は味がしっかりしているものが多かった為か、ここにきて食べるサラダは瑞々しく普段よりも美味しく感じられた。
「さて、」仕切り直すように山本が呟いた。「ナツキくん。君は記憶を取り戻したら、どうするつもりなんだい?」

 どうする?
 質問の意図が分からなかった。
 彼は気にした様子もなく続ける。
「記憶がないと困るのは分かるんだけどね。でも、なくても生きようと思えばできるだろ? どうして、そういう方向には考えなかったんだい?」
 言われてみれば、そうだ。
 困るから取り戻したい。それがスタートだった。
 しかし、紗雪のおかげで治療代に困ることはなくなった。
 彼女の兄、川田元幸の行方をぼくが知っているから、彼を捜さなければならない。
 だが、さっさと病院生活に見切りをつけて、役所か警察を頼って生活を安定させても良かった。
 もし、過去のぼくが犯罪に手を染めていたのだとしても、罪を償うのが筋だ。

 ぼくは、その方向になぜ考えを巡らせなかった?
 記憶を失って、ぼくは正常な思考回路を失っていたのか?
「確かに記憶を失うというのは怖いことだよね」
 と山本は言った。
「けれどね。その記憶を取り戻した方が、今よりも息苦しい現実に直面するかも知れない。なら、ない方が良いと思わないかい?」
「言葉の上でなら、何とでも言えますよ」
 圧倒的な事実がぼくは欲しい。
 でも、なら、ぼくは警察の御厄介になるべきなのではないか、そう思わずにいられなかった。

 現状は事情聴取を一度受けた程度だが、警察の厄介になれば現状よりも分かることはあるだろう。
 もし、何も分からなければ警察でも無理だった、という大義名分を手に入れられる。
「言葉の上以上の現実や事実なんて、本当に必要だと思うのかい?」

 山本の言葉の真意が掴めず、ぼくは彼を見つめる。
「ナツキくん。君はもう欲しいものが分かっているんだろ?」
「欲しいもの?」
 その時に浮かんだのは紗雪だった。
「そう。変な話をしようか、社会的な物言いは脇に寄せて、だ。人間がある出来事の当事者で居られるのは、その時だけなんだよ。例えば、ある女性がレイプされたとする。その女性がレイプ被害者でいるのは、被害を受けた瞬間だけなんだよ。だからこそ、人は過去のトラウマを乗り越えることができるんだ」

「当事者でいられるのは今だけ、だと?」
「これはもちろん言葉の上、考え方の話であって、レイプを受けた女性は法的には当然、被害者であり続ける。当事者としての権利は守らなければならない。ただ、記憶は劣化していく。事実としてそれはある。人は常に過去の自分の記憶や記録を現在の地点から解釈する他ないんだよ」
 しかし、と山本は言って、半分ほどになったお冷を飲む。
「ナツキくんには記憶や記録が存在しない。まったくの空白を現在の自分の状況から解釈していく他ない。それがすでにできている以上、劣化し続ける過去よりも、実際にある今や君でしか作れない未来について考えるべきなんじゃないか?」

「ぼくにしか作れない未来?」
「外から見ていても分かるよ。君は紗雪ちゃんの力になりたいと思っている。最初は、入院費を払ってもらったからと言った義理や恩だったのかも知れないが、今となってはそれ以上の気持ちだって芽生えているんじゃないか? 少なくとも紗雪ちゃんは君のことを心配して、こうして私のような老人を付き添い人に指名している」
 ぼく個人の話をすれば、紗雪と出会った頃に比べて彼女の力になりたい気持ちは強くなっている。
 それが単なる利害関係を超えている、と言われると否定できない。

 山本はふっと笑った。
 今まで見たことない笑みだった。
「そういえば、有くんは実に面白い小説の話をしていたよね。『悲しみよ こんにちは』。フランソワーズ・サガン。ちなみに、本名は確か、フランソワーズ・コワレでサガンはペンネームなんだ。その由来をナツキくんは知っているかい?」
「いえ」
「サガンという名はマルセル・プルーストの『失われた時を求めて』のキャラクターから取られているんだ。彼女は作家をキャラクターとして生きようとしたんだと思うんだよ。まぁあくまで、私自身の予想だけどね。そのサガンのインタビュー集を以前読んだ時に面白い一節があるんだ」

 うろ覚えだけどね、と断って山本は続けた。
「日によって自分に似る、写真の自分に似るんだ、と」
 自分に似る、というのは変な言い方だな、と思った。
「サガンは昨日と今日の自分は違うと知っていたんだよ。さっきの話の通り、当事者でいられるのは今だけだと。もちろん、それは人間の中でということで、社会の中でとは違う。なら、二つは切り離して考えるべきじゃないかな」
「人間的自分と社会的自分に、ですか?」
「そうだ。記憶がないナツキくんは、どちらもない状態だった訳だが、全部を回復する必要はない。まず、社会的な自分は取り戻さないといけない。けれど、人間的な自分は、コワレがキャラクターとしての『サガン』を名乗るように『西野ナツキ』を生きれば、別段必要なものではなくなるんだよ」

 というよりも、と山本は言う。
「紗雪ちゃんに惹かれ、彼女の為に何かをしたいと考えているのは今の君だ。当事者は記憶を失う前の君ではなく、今の『西野ナツキ』なんだよ」
「つまり?」
 と、ぼくが尋ねると、山本はいつもの笑みを浮かべて言った。
「過去の自分に似ようとなんてせず、これが終わったら紗雪ちゃんを口説きなさい。なんなら、一緒に住んでしまえばいい。あの子、お金はあるんだから」
 なるほど、そういう勧め方をするのか、とぼくは呆れるやら関心するやらな気持ちで山本を見たが、何故か口もとは緩んでいた。
「分かりました。山本さん。これが終わったら、紗雪さんにちゃんと告白します」
「うん。でも、付き合うことになっても、ナース姿の写真は撮らせてもらうよ。そこは頼むよ!」

 気づけば、奥のテーブルで話をしていた守田の姿がなくなっていた。
 出入りがあれば気づくし、トイレならテーブルにいた男もいないのは不自然だった。となると、考えれるのは二階のやくざの会談に参加したのだろう、というのがぼくと山本の結論だった。
 そして、現状ぼくにできることは何もない以上、席を立つ訳にもいかなかった。

「ナツキくん。私は君の味方だから、このまま会談へ行くと言うなら一緒するよ」
 山本の表情から本気で言っていることは分かった。
 けれど、いえ、とぼくは言った。
「行き当たりばったりの計画ですけど、一つ計画したことがあるんです。それが起こるのを待ちます」
「ん? 朝、有くんに頼んでいたことと、関係があるのかい?」
「はい」
 ぼくが有に頼んだのは、中谷勇次への連絡だった。
 今日、やくざの会談があり、そこに田宮由紀夫が現れる、という連絡。

 この場に中谷勇次が来れば、事態は必ず混乱する。
 後は野となれ山となれだった。
 勇次が田宮との接触に成功すれば、それに便乗するし、失敗すれば田宮の友人、西野ナツキとして田宮由紀夫と接触する。
「つまり、ナツキくんは君の知り合いを見捨てるってことだね」
 ギャル風の女性に銃を突き付けられた守田の姿が浮かんだ。
 彼は目を逸らすことなく、女性を見つめ続けていた。

「はい」
 ぼくはしっかりと頷いた。
 少なくとも守田は望んでこの場に現れ、どういう流れかは分からないが自分の意思で二階へと進んだのだ。
 守田裕の覚悟にぼくが水を差すことはできない。
「なるほどね」
 と山本は曖昧に頷いた。
 そして、関心するように言った。
「そーいう顔をするようになったんだなぁ」
 何のことか分からなかったが、彼の視線を追ってすぐに理解した。
 そこには中谷勇次が立っていた。

 彼はまっすぐ前だけを見ていて、何の迷いもなく二階へと続く階段に近づいて行く。
 それに気付いた食事をしていた客が止めに入った。
 やくざの組の人間なのだろう。最初こそ丁寧語だったが、まったく止まる気配のない勇次に腹を立てて言葉が乱暴になる。
 そんなものが、勇次の前で意味を成すはずもなかった。

 一人のやくざが勇次の前に立ちはだかり、彼を殴ろうした。が、それは失敗に終わる。
 どころか、勇次は殴ろうとした人間を転がし、彼の後ろにいたやくざの進行の妨げにしてしまった。勇次は殆ど歩調を緩めることなく、二階へと上がっていった。
 ぼくの視界では確認できないが、二階の個室の前にもやくざがいたのかドスの効いた声や衝突音が響いた。
 それも五秒と経たずに収まった。

「山本さんって、勇次くんのこと知っていましたっけ?」
 さっきの物言いは知人に対するそれだった。
「ん? 勇次くんが訪ねてきた時に私も居たじゃないか?」
 いましたっけ?
 とぼくが疑問符を浮かべると、山本がポケットから清涼菓子を取り出し、何粒かを取り出して口に入れる。

「まぁ白状すると私は立場上、知っていたんだよ。ここに居る連中の何人かも知っているよ」
「どうしてですか?」
 その、どうしてには色んな意味が含まれていた。
 どうして、黙っていたのか。
 もしくは、どうして今になって言う気になったのか。
「どうしてだろうね。考えてみなさい。宿題だ。何にしてもだ、ナツキくん」
「はい」
「今まで私が言ったことは、私の心の底からの本音だし。君の力になろうと思って、私がここにいるのも本当だ」

 ぼくは少し考えてみたが、答えは変わらなかった。
「山本さんがぼくの味方で居てくれることを疑っていません」
「それは良かった。で、これからどうするんだい?」
 二階へ通じる階段を見つめる。
「勇次くんが、あの場へ行った以上、何かは起きます。その何かを待ちます」
「確認だ、ナツキくん。君はあくまで田宮くんの友人として振る舞うんだね?」
「やくざとの交渉の時はそうです」
「分かった」

 と、山本が頷いた瞬間。
 乾いた破裂音が響いた。
 それに続くように甲高い音が続く。遅れてそれが、ガラスの割れる音だと気づく。更に、男の怒鳴り声が重なり、一階にいたやくざが二階へと向かう。
 荒々しい足音と怒鳴り合いが聞こえる中、ぼくは店員を呼んでお会計を済ませた。

 おつりを店員が持ってくるのと同時に階段から人が下りてきはじめた。殆どの人間が怒りや戸惑いの表情を浮かべていて、何かがあったことは明白だった。
 彼らの中に勇次や守田の姿はなかった。
 破裂音が銃から放たれた発砲音だったのだとすれば、彼らはもしかすると撃たれたのだろうか?
 だとしたら、二階には死体が転がっていることになる。

 いや、破裂音は一回だった。撃たれていてもどちらかは残っているはずだ。
 しかし、下りてくる人間の顔に彼らがいない、ということは逃げたと考える方が妥当だ。ガラスの割れた音から、窓から逃げたのだろうか? そういえば、近くに川があった。そこに飛び降りたのか……。

 待て、とぼくは思う。
 もしだ。勇次が銃を持っていて、田宮由紀夫を撃って殺して逃げていたら、どうする? 
 田宮由紀夫が死んでいれば、片岡潤之助の頼みは達成できない。川田元幸の行方は分からないままだ。

 それだけは――。
 と、思った瞬間、松葉づえをつきながら階段を下りる田宮由紀夫の顔が見えた。
 どこか不機嫌そうな彼の表情を見て、ぼくはほっとした。
 後はタイミングだ。田宮由紀夫の周囲には二人、いかにもな男がボディガードとしてついている。
 面倒だが、仕方ない。
 階段を最後まで下りきったのを見計らって、ぼくは田宮の斜め前に立って手をあげた。

「やぁ、田宮くん。久しぶり」
 ここからは向こうの反応による出たとこ勝負だ。
 田宮と目が合う。
 口もとが僅かに引きつる。
「あぁあ! てめぇ、生きてたのかよ!」
 良かった。
 かの子の見間違いで、ぼくがまったく田宮由紀夫と関係のない人間だった場合、全てが台無しになるところだった。
「生きててさ、田宮くん。大変そーだから、手伝いに来たんだわ。なんかある?」
「あるぞ! 超あるぞ。俺を馬鹿にした奴をぶっ殺す。手伝え」
 りょーかい、と答えた時、後ろから声があった。

「田宮くん。早く車に乗ってもらわないと、困るのですが」
 まったく困った様子のない口調で、白衣の男がこちらの様子を窺っているのが分かった。
「チャンさん。俺、ちょっと、さっきの奴らをぶっ殺して来よーと思うんだけどよぉ」
 チャン? かの子の言っていた、ヤガ・チャン?
「無駄なことをする必要はありませんよ。これから組、総出で捜索することになっていますから」
「いやいや、他の奴に先越されちゃあ、困んだよ。あいつ等は俺を馬鹿にしたんだ、殺すのは俺じゃねぇと気が済まねぇよ」
 チャンがため息を漏らす。
 そこで、チャンはぼくに気づき、目を広げた後に口元を歪めた。嗤いなのか、嘲りなのか、あるいは怒りなのか、判断がつかない感情の色がチャンの顔には現れていた。

 ぼくは、その瞬間に彼は記憶を失う前の、ぼくを知っていると確信した。
「貴方はっ――」
「こんにちはー、チャンさん」
 遮るようにして話をはじめたのは山本だった。
「こんな所で会うなんて、奇遇ですねぇ」
 チャンが山本の方を見つめて、愉快そうに笑った。
「奇遇? 貴方に限って、そんな訳ないじゃないですか? 何を企んでいるんですか?」
「企むなんて、そんな人聞きの悪いことしていないよ。ただ、私はここで昼食を取っていたんだよ。すると、連れがどうやら田宮くんと知り合いだったようでね」
「連れ……」
 と呟き、チャンがぼくを冷たく見据える。
「自分としては、彼と山本さんがつるんでるのは面倒にしか感じられないんですが」
「どういう、」
 ぼくが尋ねるより先に、田宮が割って入る。

「チャンさん。車を貸してくれ。あのクソガキどもを俺一人で殺して、親父に自慢してやる!」
「田宮くんのお父様は決して、そのようなことを望んでおりませんよ?」
 あくまで冷静にチャンは答える。
 しかし、田宮は理性を失ったサルのようにキーキーと騒ぐだけだった。

「良いから、車を貸してくれ。今の俺なら、負けねぇからよぉ。分かってんだろ、チャンさんだって!」
 数秒の後、チャンは口元を緩めた。
 それは感情というものがまるで感じられない笑みだった。
「分かりました。今の田宮くんなら、誰にも負けないでしょう。車を用意します」
「流石、チャンさん。話が分かるぜ」
「当然じゃありませんか、田宮くん。全て終わりましたら、連絡を下さい。迎えに行きますから」
「おう」
「それではですね……、山本さん。車の運転、お願いしても構いませんか?」
「安全運転すればいいのか?」
「当然です。田宮くんが怪我をしては困ります」

 欠片も困った表情を浮かべることなく、チャンがぼくに視線を移した。
「君も頼みますよ?」
 彼の見つめ方は、おおよそ人に向けるべきものではなかった。
 言うなれば虫、あるいは空に舞うビニール袋でも見るような無機質さが、その瞳には宿っていた。
 ぼくは頷くでも首を振るでもなく、ただチャンの瞳と向き合い続けていた。

つづく


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