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【掌編】渦潮にのみ込まれる夜に。

 水の流れる音が響いて、足の裏が冷たいことに気がついた。
 数ヶ月前から、トイレの水が勝手に流れるようになった。
 何かの故障なのかと疑っていたが、朝や昼に水が流れることはない。深夜にだけ、トイレの水は流れた。
 まるで、目を覚ませと誰かに言われているようだった。

 携帯で時間を確認すると更に眠れなくなる気がして、そのまま睡魔が訪れるのを僕は待った。
 いつもなら、すぐに眠れるのだが、今日は足の裏が冷たいせいか睡魔は遠のいていった。
 意識と身体が上手く噛み合わずに生まれた隙間から、過去の声が蘇ってきた。

「吉野くんの望んだ彼女でいれなくて、ごめんね」

 別れた彼女、京子の最後の言葉だった。
 そういえば、京子と別れてから深夜にトイレの水が流れるようになった。だからなんだと言う話だ。
 足の裏は依然冷たく、眠気はしばらく戻ってくる気配はなかった。

 京子とは職場で知り合った。ただ、京子は僕に別れを告げた日に仕事も辞めてしまった。
 僕との関係性は分からない。
 職場は大阪にあり、二人とも一人暮らしをしていた。
 出身は京子が徳島で僕が広島だった。
 僕と京子は別の部署で働いていて、他部署共同の研修で隣り合ってから喋るようになった。
 その研修で自己紹介をしていく時間があり、京子は「徳島県の岩田屋町、出身です」と言った。
 イワタヤチョウ。
 妙に耳に残った。

 付き合い出してから、イワタヤチョウについて尋ねた。
「漢字は『岩田屋』って書くの」
「へぇ。京子はいつまで住んでたの」
「高校生までかな」
「何か有名なものってあるの?」
「何もないよ。普通の田舎町」
「お気に入りの場所とかは?」
「漫画がいっぱい置かれた喫茶店かな」
「漫画、好きだったけ?」
「普通かな。家族と行ってたから、漫画読んだりしなかったし」
「ふーん」
 京子が高校生の頃まで過ごした岩田屋町。

 別れた後に、気になってネットで調べてみると、そんな町はなかった。検索結果の中には九州の百貨店「岩田屋」が出てくるだけだった。
 イワタヤチョウ。
 僕は京子の口からしか、その単語を聞いていない。
 漢字は教えてもらったから間違いはないが、日本にそんな地名はない。京子は何かを勘違いしていたのか、嘘をついていたのか。自己紹介でわざわざ出身地を偽る意味が分からない。
 喫茶店の話も出てきていたが、店名は聞き忘れてしまった。
 手掛かりは京子が徳島出身であることだった。

 付き合っている間に一度、京子の友だちから手紙が届いていて、見せてくれたことがあった。
 宛先は京子になっていて、裏には送り主の名前と確かに徳島の住所が書かれていた。しかし、徳島の詳しい住所までは記憶していない。
 名前は確か、田中あずきと言った。
「どういう繋がりの友だちなの?」
「高校生の時の地元の友だち。あずきって言って、学生時代はガールズバンドを組んだりしていたの」
「へぇ。上手かったの?」
「学園祭で歌っているのを見かけたことあるんだけど、すごく上手だったよ」
「youtubeに上がってたりしないの?」
「どうだろう? 今度、探しておくね」
 この時に京子が通っていた高校の名前を聞いておけば、何かしらの手がかりになったはずだった。

「あずきはね、今地元にいて学校の先生をしてるんだ」
 と何の脈略だったか、京子は言っていた。
 学校が小、中、高のどれかは分からない。ただ、田中あずきという先生を探し出せれば、そこが岩田屋町であることは間違いない。
 けれど、僕は岩田屋町を探し出して、どうしたいのだろうか?
 京子と復縁したいのだろうか。それとも、ただ存在しない町に興味があるのだろうか。
 どちらにしても、わざわざ徳島の学校をあたって田中あずきという先生を探し出すほどの理由にはならないし、京子へ連絡しようとも思っていなかった。
 
 新しい恋人を求めてマッチングアプリに登録した。
 不思議なもので、京子と付き合う前の僕は彼女を欲しいと思いつつ具体的な行動は起こしていなかったが、別れてからは行動をはじめた。
 僕は京子を忘れる為に新しい彼女を作ろうとしていた。
 マッチングアプリの自己紹介文を考え、自撮りの写真を撮って載せたりしていると、まるで履歴書みたいだと思う。

 転職の際に履歴書を何枚も書いた。
 その度に、僕は証明写真に対して居心地の悪さを覚えていた。マッチングアプリでは証明写真のような堅苦しさはないにしても、やはり居心地の悪さはあった。
 証明写真は被写体と見比べて本人かどうかを確認する為にあって、マッチングアプリに載せる写真も、後に出会う女性に見比べてもらう為にある。
 これが僕だと自己主張しなければならない写真。
 更に言えば、不特定多数の女性が僕の顔を見て審査をするのだ。そう考えると、ばつの悪さがあった。
 新しい彼女が欲しいと思う反面、アプリ内で自分の整っていない顔を晒すことに対する強い抵抗感があった。
 結局、顔が少し隠れたものを選んで、名前も「Y.R」にした。職業も曖昧にぼかして、趣味も映画鑑賞と散歩と在り来たりなものにした。
 そんな具体性を削いだ自己紹介文と曖昧な顔写真を載せた男に「いいね」してくれる人などいるはずもなく、始めて数日まったくマッチングしなかった。

 落胆はなかった。
 こんなもんか、と冷めた気持ちになった頃に、都道府県の選択項目に「徳島」を登録した。大阪と徳島では決して気軽に会える訳ではないが、やりとりはできる。
 そこで僕は「岩田屋町」について尋ねてみたかった。
 僕の日常は新しい彼女を作るよりも、謎の町を追うことの方に興味は傾きつつあった。

 京子との思い出の中で徳島に関することを丹念に思い出そうとする瞬間が日に何度かある。それは彼女との思い出を懐かしむ為ではなく、「岩田屋町」という謎を解き明かしたいと言う欲求によるものだった。
 僕が記憶している限り、京子が徳島の地名を口にしたのは一回のみで、そこは鳴門だった。

「鳴門で渦潮を家族で見に行ったの。その帰り道に父がボートレースをしてから帰るって言って、一人で車を下りちゃったんだ。母はすごく哀しそうな顔をしたけど、私には笑顔を向けてくれたの」
「京子のお父さんは帰りどうしたんだろ?」
「母が迎えに行ったんだと思う。妹と二人で家で渦潮の話をした記憶があるから。あれは哀しかったなぁ」
 確かに哀しい。
 京子の父は家族との時間よりも、ボートレースを取ってしまったのだから。

 調べてみると、鳴門市にはボートレース鳴門というのがあって、2015年までは鳴門競艇場という名前だったらしい。
 話からすると、京子の住む岩田屋町は鳴門市に車で行き、渦潮を見て、その帰りに父をボートレース鳴門を置いて自宅に帰り、その後にボートレース鳴門へ父を迎えに行ける場にあるらしい。
 鳴門市の中にある町名に岩田屋町はなかったので、隣接した町名も調べた。
 板野郡松茂町、北島町、藍住町、板野町で、香川県は東かがわ市、鳴門海峡を挟んで兵庫県の南あわじ市。
 それのどれも岩田屋町はなく、発音も特段似ているとは思えなかった。
 しかし、京子の言葉を頭から信じるのなら、この近辺に岩田屋町はあって、そこには田中あずきという教師もいるはずだった。可能性という曖昧な言葉が妙に甘美に響いた。

 職場で隣の席にいる同期の女性、杉本に雑談として岩田屋町の話をしてみた。なんとなく、自分の中で留めておくことが難しかった。
 田中あずきという教師が鳴門市の周囲にいるはずだ、という話を聞いた後も、杉本は「ふーん」と聞き流す程度だった。
 なのに、「吉野くん、今日お昼弁当? 良かったら外に食べ行かない?」と誘われた。
 断る理由もなく了承し、二人で近所の定食屋へ行った。
 お互いにランチセットを注文してから、少し仕事の話をした後に、杉本が指を二本立てた。

「あのさ、私って、吉野くんの元カノの京子ちゃんとも結構仲良かったの覚えている」
 僕は頷いた。京子から昼食は杉本と食べた、という話は何度も聞いていた。
「なので、今でも私は京子ちゃんと連絡を取っているんだけど、吉野くんにとって良い話と悪い話があるんだけど。どちらから聞きたい」
 店員が置いていったお冷を飲んで、口を湿らせてから「どちらでも」と言った。
 杉本は「じゃあ、良い話からね」と言ってから、薄く笑った。「京子ちゃん新しいお仕事見つかったって」
「それは良かった」
「悪い話にいく前にさ、吉野くんは京子ちゃんと復縁しようとは思わないの?」
 考えない訳じゃなかった。けれど、「何度、考えても同じ結果にしかならない気がするんだよ。京子に僕はまた別れを言われる」同じことの繰り返しはしたくない。
 僕は何も成長していないんだと突きつけられたくない。

 杉本は軽く溜息をついて、「悪い話ね。君の言うあずきちゃん多分、私会ったことあるよ」と言った。
「え? どこで?」
「その話をする前にさ、吉野くんと京子ちゃんが出会った研修って私もいたの覚えてる?」
「覚えてるよ」
「京子ちゃんは確かに自己紹介で町名まで言ってたと思うけど、岩田屋町とは言ってなかったよ」
「は?」
「さっき、京子ちゃんにLINEして聞いたら、鳴門市の大麻町だってさ」
「どういうこと?」
「だから、吉野くんの勘違い」
 岩田屋町という町そのものが最初の最初から僕の勘違い?
「いや、でも」
「吉野くん、他人の在りもしない故郷に探りを入れて、どうするつもりだったの?」
 杉本は僕の言葉を待たず、続ける。「結局、吉野くんはさ、現実逃避で岩田屋町に固執しただけなんじゃいの? それを見つければ、京子ちゃんに復縁して欲しいって言うつもりだった訳でもないんでしょ? ただ謎で、特別っぽいから、それを追っている間は自分も特別でいられるって思ったんじゃないの?」
 そういう訳じゃない、と否定しようとしても声は出なかった。

 夜、布団に入って杉本の言葉を反芻する。
 岩田屋町を見つけ出して、僕はどうするつもりだったのだろうか。結局、僕は岩田屋町が謎だから惹かれたに過ぎない。
 そう言われれば、否定することはできない。
 本当に岩田屋町の謎を解き明かしたいのなら、真っ先に京子へ連絡を取れば良かったのだ。
 けれど、僕はそうしなかった。僕は岩田屋町を謎のままであって欲しいと願っていたのだ。現実逃避だと言われても仕方がない。

 田中あずきだって、結局は謎の一つにすぎなかった。
 杉本は会ったことがあるとも言っていた。
 どこで? そういえば結局、杉本は田中あずきとどこで会ったのだろうか。また、京子が鳴門市大麻町だと言うのは杉本の証言だ。京子からのLINE画面を見せてもらった訳ではない。
 今の僕は杉本の言うことをただ信じただけに過ぎない。それだけで岩田屋町はないと断言して良いのか。
 せめて、僕から京子に連絡を取るべきだ。枕元に置いていたスマホを手に取る。

 真っ暗な部屋に突然の強烈な光。
 目を細めて画面を確認すると、マッチングアプリから通知が来ていた。
『T.Aとマッチングしました』
 T.A? 田中あずき?
 そう思った瞬間、ゆっくりと水の流れる音が響いた。
 トイレの水が人知れず流れ始める。それは激しい渦潮を思わせた。
 暗く、深い場所へと引きずり込まれるような感覚と共に激しい睡魔が僕の全身にまとわりついてきる。
 まるで、何も考えず眠れと言われているようだった。
 暗闇に覆われ、薄れていく意識の中でスマホに触れる手の感触だけが残っていた。指を這わせ、ホームボタンを探したが、スマホのロックを解除するよりも前にトイレの渦潮のような音が静まり、沈黙が僕の意識を完全に奪っていった。

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さとくら
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