【小説】西日の中でワルツを踊れ⑤ 夢は呪い、と死者は言った。
「それで、朱美ちゃんが見て欲しい人って?」
朱美が二杯目の紅茶をぼくと紗雪のカップに注いだ後だった。
「それね、どうしようかな。見てもらう前に、少し状況の説明をしても良い? 二人が何か知っているかもだし」
「良いよ」
言って、紗雪は二杯目の紅茶に口をつけた。
朱美は菓子器の中からチョコレートを取り出して食べた後に、包みをテーブルの上に伸ばしながら口を開いた。
「あたしの親友が二週間前から行方不明なんだ」
「親友?」
「うん、親友。名前は川島疾風、二十七歳。赤いMR2に乗っていて、外見は、うーん。少しチンピラっぽい感じ?」
少しチンピラっぽい、とはなんだろう?
と思ったけれど、口は挟まなかった。
「行方不明の原因は分かってないの?」
「全然。……、ただ、聞くところによると疾風の彼女も同じ時期に行方が分からなくなっている、らしい」
「それも二週間前に?」
と、ぼくは口を挟んだ。
「そうみたい」
「んー、駆け落ち?」
紗雪が言った。
「分かんない。そーいうことする奴だとは思えない、けど」
「けど?」
紗雪が話を促す。
「あたしは去年から会ってないから、その間で何か事情があったのだとしたら分からない」
「そっか」
「でも、」と言った時の朱美の目には何かしらの意思が宿ったように思えた。
「アイツが死ぬのは全然、想像できないし、理解できない」
ん?
と、ぼくは疑問に思ったが、それは紗雪が代弁してくれた。
「つまり、朱美ちゃんは、その親友、川島疾風が死んでいないことを私が見れない、ということで確認したいんだね」
「うん、そういうこと。もし、本当に死んでたら、会ってぶん殴る」
迷いのない真っ直ぐな言葉に紗雪が笑いで答えた。
「朱美ちゃんのそういうところ大好きだなぁ」
「ん?」
「だって、朱美ちゃん。その川島疾風が死んだら、朱美ちゃんに憑くって信じているんだもん」
「うん。それは疑ってないよ。疾風がもし死ぬのなら、あたしに憑く。絶対に」
迷いのない清々しい断言だった。
紗雪は紅茶の入ったカップの縁を指で辿ってから、頷いた。
「分かった。じゃあ、『見る』から、朱美ちゃん。その川島疾風のことを思い浮かべて、目を瞑って」
「うん」
朱美は素直に目を閉じた。しばらく紗雪は朱美の辺りを見渡した。
その視線に先ほどまでとの違いは見受けられなかった。一分ほどの間、紗雪はそうした後に目を瞑った。
ぼくは紗雪と朱美を交互に見て、そこにいるかも知れない死者を思った。
見えるはずのない死者。
ふと、声が聞こえた。
――夢は呪い。
か細い、消えかけた蝋燭のような声だった。
それは紗雪が言ったのかも知れないけれど、しかし、印象としては男性の声の響きがあった。
ぼくは、声の言葉を頭の中で繰り返した。
夢は呪い。
眠った時に見る夢ではなく、おそらく目標とか理想と言った方の夢だろう。
それが呪いだと言う。
記憶を失ったぼくに夢はなく言ってしまえば、ぼくは記憶と共に夢を失っていた。
良いのか悪いのか判断はつかないけれど、ぼくは呪われてはいない。
紗雪がゆっくりと目を開けた。
「朱美ちゃん」
と声をかけた。
しかし、朱美はそのままの姿勢で目も口も開かなかった。
ぼくは状況が掴めず、ただ静かに成り行きを見守った。
二十秒ほどが経った後、朱美が口を開いた。
「見えた?」
少し震えの含んだ声だった。
目は変わらず閉じたままだった。
「見えなかったよ」
朱美は体の力を抜いて、その場にへたり込んだ。
胸につかえた想いを吐き出すような深いため息だった。
「紗雪ちゃん。疾風は生きてるってことで、良いんだよね?」
「うん」
川島疾風は生きている。
なら、あの声はなんだったのだろう?
久我家を後にして、ぼくと紗雪は寄り道することなく病院へと向かった。
日が暮れはじめた空を背後に、ぼくは口を開いた。
「紗雪さんが見ている時なんですけど」
「はい」
「小さい声が聞こえたんです」
紗雪が目を細めた。
「声、ですか。内容は分かりますか?」
「夢は呪い、そう言ったように聞こえました」
丁度、赤信号にひっかかって、ぼくらは足を止めた。
目の前を何台もの車が少し騒がしいくらいの風を切って、通り過ぎていく。
そんな中でも紗雪の声は、ぼくの耳にしっかりと届いた。
「たまにですが、『見る』時や、『会う』時に一緒した人が普段は見えないものが見えたり、聞こえない声が聞こえたりするんです。私は私の力を隅々まで試し、理解している訳ではないので、詳しいことは言えませんが、ナツキさんが聞いた声は私が聞いた声の一部のようですね」
「声? 死者は見えなかったんですよね?」
「見えませんでした。でも、声は聞こえたんです」
信号が青になって紗雪が歩き出したので、ぼくもそれに続いた。
「時々ですが、生霊というものが憑くことがあります」
生霊……。
「その生霊は私に声を聞かせます。一度、決して目覚めないと診断された人を見て、同じような声が聞いたことがあります」
「川島疾風は死んでいない。けれど、朱美さんに生霊は憑いている。そういうことですか?」
「おそらく、ですけど」
「それを」
と言いかけて、ぼくは少し考えてしまった。
紗雪がぼくの考えを汲んで口を開いた。
「どうして、朱美ちゃんにそれを伝えなかったのか、ですか?」
ぼくは頷いた。
紗雪は少し遠くを見るようにして口を開いた。
「できれば朱美ちゃんには悲しんでほしくなかったんです」
それは紗雪の甘えなのかも知れない。
死者を見て、会い、声を聞くことができるからこそ、自分の責任で誰かを悲しませたくない、という覚悟の不在。
それをぼくは彼女の優しさだと思った。
紗雪の口ぶりから察すると
「川島疾風は生きている。けれど、決して健康的な状況ではない、そういうことですか?」
「分かりません。ただ、少なくとも、一度は死の淵へ赴いてます」
「そうですか」
川島疾風という人間は少なくとも一度、死にかけている。朱美の話を踏まえれば、彼が行方不明になった二週間前に。
そして、ぼくはそれに引っ掛かりを覚えている。
「紗雪さん。川島疾風が行方不明になったのは二週間前だと、朱美さんは言いました。それは、丁度、ぼくが病院の前に捨てられていた時期と重なります」
偶然だと無視するには、岩田屋町という町は田舎過ぎた。
「疾風さんの行方不明に記憶を失う前のナツキさんが関わっていたのかも知れない、と?」
「分かりません。けど、調べてみる価値はあると思いました。紗雪さん。生霊の声から、何か彼に関する情報はなかったんですか?」
紗雪は考えるような間の後に言った。
「ありませんでした。彼の想いは夢についての言葉で埋め尽くされていました。叶わなかった夢、けれどその夢のおかげで得られたもの、そういう言葉たちだけでした」
「彼の夢って?」
「分かりません、声の中に言及された箇所はなかったです」
「そうですか」
川島疾風が今どこにいるのか、彼の夢は何なのか、共に不明。
分かっているのは、行方不明になっていることだけ。
ぼくとの共通点は二週間前の失踪と岩田屋町……。
もしかすると、ぼくは自分の記憶の手がかりのなさから、無関係な事象に意味を見出そうとしているのかも知れない。
疑い始めれば、際限なく思考の幅は広がっていく。
それでも川島疾風とぼくには何かしらの関係があった、と思うと気持ちが落ち着いた。
記憶を失う前の西野ナツキが確かに、この現実の中にいたという何よりの証明だったから。
サポートいただけたら、夢かな?と思うくらい嬉しいです。