「〈多様性の時代を象徴する〉新世代エッセイ」は虚構?
※日記として書いたものですが、長くなったので独立した記事として公開することにしました。
新潮4月号に掲載されていた塩谷舞のエッセイ「「キラキラ」を拾い集めて形成した、薄い膜の内側で」を読んでから、僕の中に薄い靄が漂っている。
内容は素晴しい、とても良いエッセイだった。
ただ、最後に「初の単行本『ここじゃない世界に行きたかった』が、文藝春秋より刊行中です。」という一文があって、ひっかかった。
この『ここじゃない世界に行きたかった』を文藝春秋BOOKSのサイトで探してみると、
note等で大反響を呼んだエッセイを大幅に改稿し、書き下ろし6篇を加えた一冊。
世界の諸問題への視点と生活への美意識が胸を打つ、〈多様性の時代を象徴する〉新世代エッセイ集!
とある。
更に江國香織が「日本の内側にも外側にもぽんぽんと弾んで飛びだしてゆく、ゴムまりを思わせるエッセイ集。まっすぐに思索し、いまという時代を映す勇敢なゴムまりである。」というコメントを寄せている。
時代を映す新世代エッセイ。
何やら凄そうだ。
興味がそそられる。
けれど、新潮のエッセイ「「キラキラ」を拾い集めて形成した、薄い膜の内側で」は説明文にあるような「生活への美意識が胸を打つ、〈多様性の時代を象徴する〉新世代」を否定する(ように読める)内容で混乱した。
エッセイの冒頭で
「てっきり、もっと楽しく暮らしてるんやと思ってたわ」
最近、親しい友人に近況報告をすると、きまってそんな返しをされる。
執筆者いわく「誤解を生んでいる原因は」ソーシャルメディアのタイムラインにて
ハドソン川のほとりにある素敵なタウンハウスに引っ越したことや、ずっとnoteで書いていた日記のようなものが書籍化されることなどを、映える写真と共に投稿していた。けれどもそれは「見せられる面」だけ見せている訳で、現実は荒れ果てていたのだ。
と書く。
炎上しない、否定されない、誰かを傷つけない……と最適解を模索してたどり着いた先が「キラキラインフルエンサー」という虚構のようなものである。
「てっきりもっと楽しく暮らしてるんやと思ってたわ。なんで相談してくれへんかったん?」お恥ずかしながら、友人からそう同情されてやっと、私は私が作り上げた虚構と、自らの虚栄心に気付かされることになったのだ。
ちょっと関係ないけど、「友人からそう同情されてやっと」って書いているけれど、「てっきりもっと楽しく暮らしてるんやと思ってたわ。なんで相談してくれへんかったん?」って言う台詞は単純に心配しているだけで、同情しているようには読めないが、実際の声にすると、そういうニュアンスが入ってたのだろうか。
ラスト部分を引用する。
この世の中には、澄んだ綺麗な水があれば、腐った泥水もある。共感ばかりが持て囃されるソーシャルメディアの中では、どうしても、どちらか片方に引き寄せされてしまうおかしな引力がはたらいている。けれども、それじゃあ自分が自分でなくなってしまう。美しい理想も、クソな現実も綯い交ぜにして、再び日記を書こう。現実を直視するために、自分の言葉を取り戻すために。
初の単行本『ここじゃない世界に行きたかった』が、文藝春秋より刊行中です。
エッセイの内容は素晴しいのは間違いない。ただ、その「美しい理想も、クソな現実も綯い交ぜにして」取り戻す「自分の言葉」は初の単行本『ここじゃない世界に行きたかった』には収録されていない、ということで良いのだろうか。
「note等で大反響を呼んだエッセイを大幅に改稿し」たものと説明があるし、「ずっとnoteで書いていた日記のようなものが書籍化される」ともエッセイ内にある。
「世界の諸問題への視点と生活への美意識が胸を打つ、〈多様性の時代を象徴する〉新世代エッセイ」の言葉は新潮のエッセイで言うところの、「炎上しない、否定されない、誰かを傷つけない……と最適解を模索してたどり着いた先が「キラキラインフルエンサー」という虚構」の言葉ということなのだろうか。
その虚構性こそが「〈多様性の時代を象徴する〉新世代エッセイ」という理解でいいのだろうか、と混乱した。僕の読みは間違っているのかも知れないが、今も僕の中に薄い靄はかかったままだ。