【対談】人生を狂わす実写化映画の地図 2010-2020「2011年を語る」中編。
前回はコチラです。
自然の美しさやこわさを描く「岳-ガク-」。
『郷倉』
はい、倉木さんの2011年の映画について、お願い致します。
『倉木』
モテキからの流れで語る映画として、長澤まさみがヒロインの映画を話しましょうかね。
岳-ガク-です。
世界の名峰を制覇した後、日本へ戻り山岳救助ボランティアとして活動していた島崎三歩のもとに、椎名久美が北部警察署山岳遭難救助隊の新人としてやって来る。三歩の指導を受けて訓練をこなしていた久美だが、実際の現場で遭難者を救うことが出来ずに自信を失っていた。そんなある日、猛吹雪の雪山で多重遭難が発生する。久美は仲間と共に現場へ向かうが、そこには想像を絶する雪山の脅威が待ち受けていた。
Wikipediaのあらすじ。
キャッチコピーは「生きる。」「標高3,190m 気温-25℃ 命は、命でしか救えない。」
GANTZやスマグラーに匹敵するほどの地獄を描きながら、同時に美しくもある作品。
こういう感想をもつのは、この作品が人間のちっぽけさを描いたものだからかな、と考えました。
そもそも、岳は、無茶苦茶映像化に向いた作品です。雪山で人を撮影した画面から、カメラをズームアウトさせて空から見下ろす画角を撮るだけで、山の綺麗さと危険さ、そして人間のちっぽけさを同時に描ける。
そういう世界において、長澤まさみが演じる久美は、視聴者に一番近い感覚を持っている存在です。雪山を舐めてかかって遭難する登山客に対して怒り、自分の正義感と実際に人を助けるスキルが比例していなくて苦悩する。こういう性格のためか、自分とは逆に人を助けるスキルを持ちながら、山を舐めた登山客に対するスタンスが全くちがう主人公の小栗旬演じる三歩に反発するところもあったりして。
まぁ、最終的には長澤まさみは、小栗旬の考え方も理解し、小栗旬からも一人前と認められるほどに成長するのですが、その成長段階での事件で、まぁ、遭難者の死亡率が高いこと。GANTZとかは、死ぬやろうなって思いながら視聴するけど、でも、これはいうてもそんなに死なんやろうって甘くみてたら、そんなことはない。視聴者である僕もどうやら、雪山という自然を舐めていたようです。
本作は、綺麗な映像に騙されて観ていたら、その裏にはとんでもないものがあるよ、っていうある種の驚きがある話。
だからこそ、ストーリーラインはベタな感じで邪魔にならんようにしたのかも。映像や自然と人間の関係性を描くために、強烈なストーリーは必要なかったのかな、と思わないでもない。
この作品をノベライズするならば、ものすごい描写に長けた執筆が必要となる。逆にいえば、本作の映像美を日本語で表現できたならば、ベタなストーリーが名作に昇華するのではないか。執筆の力を上げるために模写ばかりしている人が、気分転換に本作のワンシーンを描写してみたら筆力があがるかも。そういった点からも視聴してほしい一本です。
あと、冒頭での遭難者が終盤にも登場した際、主人公の三歩の反応が小粋でした。
考えすぎかもしれないけれど、山に帰ってきた者への反応であると同時に、岳という映画を二回以上視聴した人に向けたものかもしれない。
だとしたら、かなり粋だなぁ。
そろそろ、岳に関してまとめます。
本作の評価すべきポイントは、風景や自然といった部分です。
もともと僕は、動物の生態と、それに伴った自然環境を撮影したドキュメンタリー映画が大好きなので、こういった部分が刺さっただけなのかもしれません。
そして重要なのは、自然の美しさやこわさを描ききるためには、シナリオが足を引っ張ってはならないという点。
本作は、足を引っ張ることのない王道ストーリーのおかげで、自然のすごさが引き立っています。なかなか素晴らしいあんばいです。
これが、もっと薄いシナリオだと、日本有数の高山が雪の化粧したところで、近所の空き地で雪山風のロケしただけに見えたのではないでしょうか。
逆に、これ以上、シナリオが濃密だった場合も都合が悪いかも。
キャッチコピーの生きるや標高なんとか命は、命でしか救えない。ってのから、ずれた作品が完成していたかもしれない。
面白いシナリオだけを求めるよりも、今回なら「自然」「雪山」を際立たせるために、シナリオを考える必要があるのでは、と気づかせてくれた名作です。
バランスが大事ってことかね。
ハリウッドの予算がバカみたいにあるアクション映画で、岳の舞台の山よりも過酷なところで撮影してる作品もあったけど、あれはアクションシーンに魅了されて、雪山の美しさとかこわさをそんなに感じんかったかなぁ。
前年のシーサイドモーテルも、岳も、舞台となるモーテルや雪山が、演じる役者はいないけれど、確かな存在感があり、もうひとつの主人公として成り立ってる作品は魅力的だと思います。
下手に邦画が苦手とするCGに手を出さず、妥協しなかった結果があるようにも感じたよ。
『郷倉』
年の瀬に失礼いたします。
もう、31日ですね。
返事遅れて、本当に申し訳ないです。
エッセイや日記を書いたり、あれこれで時間が食われまくりました。
今日からようやく小説に着手できそうです。
『岳 -ガク-』と言えば、石塚真一!
石塚真一と言えば「BLUE GIANT」って思ってしまうくらい、僕は「BLUE GIANT」が大好きなんですけど、『岳 -ガク-』の漫画や映画は見ていないので、ちんぷんかんぷんな話をするかも知れませんが、「BLUE GIANT」はジャズの話なんですよね。
そして、『岳 -ガク-』は山の話、ジャズ(つまり、音楽)と山は決して相容れないようにも見えますが、楽器を扱うことと山登りすることの、関わり合い方は似ているのかも知れない、と思ったりしました。
が、それはまた別の機会にします。
『岳 -ガク-』のみに関してで言うと、やはり見ていないので、それに関するコメントをするのは難しいなと思いつつ、「雪山の美しさ」を正確に伝えている名作である、ということは倉木さんの文章で分かったので、見てみたいと思います。
山という場が、舞台が、もうひとつの主人公になっている作品というのも、良いですね。
ちなみに、舞台になっている場所は日本で良いんですかね?
猛吹雪になる山も実際に日本にあって、実際に『岳 -ガク-』のような状況に陥る可能性はあるんでしょうか?
『倉木』
日本の長野だったかな?
原作もそうやったで。長野には、みんなでスキー行ったなぁ。懐かしい。
実際に、岳のような状況は現実で起きる。そういう現実と地続きなのは、面白いと感じる一つの要因となるからなぁ。
『郷倉』
長野なんですね。
確かに実際に映画のような状況になるかも知れない、と思いながら見れる、というのは一つの生々しさですね。
倉木さんが最初にGANTZやスマグラーほどの地獄と同時に美しさもあると書かれていますが、そういう意味では映画だけれど、現実にこんなに美しい光景(迫力)を見ている人間がいるんだ、という証明にもなっている、ということですね。
GANTZやスマグラーに比べると、そういう点で現実と接続されているような印象があって、とても気になる一作です。
必ず見ます。
Vシネマの極道ものの中間にいる「ワイルド7」。
『倉木』
邦画が苦手とするCGを使わなかった繋がりで、ワイルド7を次は掘り下げますね。
法律で裁けない犯罪者はいっそその場で消去してしまうべき―。そんな過激な発想から生まれた超法規的警察組織、通称“ワイルド7”。凶悪犯を裁く彼らもまた、選りすぐられた犯罪者たちだった。飛葉大陸(瑛太)、セカイ(椎名桔平)、パイロウ(丸山隆平)、ソックス(阿部力)、オヤブン(宇梶剛士)、ヘボピー(平山祐介)、B・B・Q(松本実)。いずれ劣らぬ犯罪歴と、犯行のために身につけた特殊技能をあわせ持ったプロフェッショナルな7人。そんなある日、指揮官・草波勝(中井貴一)のもと、“ワイルド7”の出動が要請され、メンバーたちは事件の犯人を追い詰める。だがその瞬間、謎のスナイパーが現れ、犯人を射殺して逃走する……。 【キネマ旬報データベースより】
悪人が悪人をさばく映画は、この数年後には洋画でスーサイドスクワットが上映されます。
なので、アイデアとしては結構ありがちなもの。でも、スーサイドスクワットはバットマンなどと戦って捕まった経歴を持つ連中なので、キャラの魅力ではワイルド7では太刀打ちできない。そして、おのずとワイルド7が戦う悪者も、スーサイドスクワットよりはしょぼくなってしまう。
そのショボさをリアリティーに繋げるのは、邦画はVシネマで培っているからうまいんですわ。
いつだったか、オーシャンズ11をはじめてみたとき、Vシネマでみた借王(しゃっきんぐ)に通じるものを感じました。
借王が進化したら、オーシャンズぐらいにはなれるんやろうってね。
だから、ワイルド7が進化したら、スーサイドスクワットぐらいにはなるのか?
いや、ガチンコのバイクシーンや銃撃戦の火薬を加味すれば、むしろワイルド7の完成形はダークナイトなのかもしれない。
そんな期待を持つほど、邦画としては頑張ってるんやで、ワイルド7は。
『郷倉』
ワイルド7について、Vシネマで培った知識が生きた作品になっているんですね。
今作も僕は見ていなかったので、予告編のみを見ている状態です。
なんとなく、国家という「父」がいて、そのルールに沿う形で分けられた人間(息子)たちが争っていく話なのかな? という印象を持ちました。
犯罪者が犯罪者を追う話としては、アニメの「PSYCHO-PASS サイコパス」が僕は浮かびました。
虚淵玄が覇権を取りまくっていた時代の傑作、それが「PSYCHO-PASS サイコパス」で、今もなお根強いファンが多くいる印象です。
こちらは人間を数値化する「シビュラシステム」なるものがあって、これがある種のスーパーコンピュータの役割を担っていて、つまりマザーコンピューターな訳ですが、そのマザーの後ろには男性的なホモソーシャルな連帯があって、結局はファザーコンピュータじゃねーか!というのが、この手のSFのお約束で、「PSYCHO-PASS サイコパス」もその例に漏れないのに、第一作のラストは凄まじく、今でも傑作と呼んで差し支えない作品だと思っています。
なんて書いて、思ったんですがワイルド7はCGを使っていない、ということで、おそらくもっと泥臭い作品として描かれていることでしょう。
スーサイドスクワットやオーシャンズ、そして、ダークナイトを引き合いに出している、ということですと、海外で言うヒーローもの、日本では戦隊ものの系譜にある作品という理解で良いんでしょうか?
『倉木』
もっとシンプルなストーリーやで。法に従っていたら、悪人の後手にまわってしまうから、犯罪者に犯罪者を処理させようって話かな。
バイクアクションが多いので、どっちかっていうと仮面ライダーの系譜。
仮面ライダーも、ショッカーの改造人間、つまりは悪の力で強くなったと拡大解釈すれば、ショッカーの怪人をショッカーに改造された仮面ライダーが倒すという図式になる。
つまり、ワイルド7と同じで、悪人が悪人を裁く図式と変わらない。
悪人が喰らいあうのならば、修羅がゆく、とか修羅のみち、それこそアウトレイジとか極道ものがもっとも、それにのっとった作品やけど、それらを子供向けまでポップにしたら仮面ライダーになるのかも。
そんでもって、ワイルド7は仮面ライダーとVシネマの極道ものの中間ぐらいの層に向けられてつくられてるように思う。
もっとも、真仮面ライダー序章という作品は、Vシネマ扱いされることが多いんやけど、あれよりもワイルド7のほうがライトなんだよなぁ。
ワイルド7の残念なところは、一作で終わってしまったことやな。
毎年、あの銃撃戦の火薬とバイクアクションで新作をつくってくれたならば、季節の風物詩的映画として定着したかもなのに。
コンスタントに映画が上映されている作品といえば、ドラえもんやコナンやしんちゃんなどのアニメ作品。あるいは、仮面ライダーやスーパー戦隊もの。
共通点は親子で観に行ける作品。ワイルド7が、親子で観に行ける作品になっていれば、CGに頼らないストイックなアクション邦画の2021年時点でのレベルが、いまよりも高い位置になっていたことだろう。
親子で観に行ける作品を、2011年の漫画原作映画で考えると、忍たま乱太郎、こち亀、怪物くん、あたりかな。
残念ながら、三本のうち続編が作られたのは忍たま乱太郎だけだった。三池監督は、Vシネマ時代から好きなので、忍たまだけは観てますが、語ることはありません。
いつからかわからんけど、親子で観に行ける作品を子供だましの作品と勘違いしたままつくっているものがいるように思う。
昔はちがっていた。テレビアニメの話になるけど「うちのタマ知りませんか?」や「宇宙船サジタリウス」といった作品は、子供向けのはずなのに、濃厚なストーリーで神回が多かったと記憶している。
そんな風に親子で観に行ける作品の質が落ちているように、カップルで観に行ける作品の質も落ちている。
GANTZよ、お前はもっとどうにかなったはずだよなぁ。
そんな中でもクオリティを高く維持しているのは、確かにモテキかもしれない。
なんか、次の作品の話にいこうとしているので、ワイルド7の総括を。
ワイルド7は、続編がみたかった作品です。
マイティ・ソーを見たときみたいな、物足りなさを感じたんよな。ワイルド7っていうぐらいやから7人おっても、ほとんど登場人物を掘り下げられとらんし。
シナリオ的には続編をつくれるのに、それが実現されなかったことで、映画って興行収入が大事なんだな、って思った。興行収入を得るためには、ターゲットを明確にして作品をつくらねばならない。
僕もそのことを肝に命じてこれから執筆にとりくみます。
ワイルド7で続編みたかったって感想を書いたので、2011年で忘れてはならない続編として、カイジ2に触れます。
『郷倉』
はい、お願い致します。
漫画の実写化映画のオリジナル展開について。
『倉木』
カイジ1は、確実に名作だと思います。後に中国だったかな、で限定ジャンケンというゲームだけで二時間の映画にされるのに、その限定ジャンケンを冒頭30分で終わらせて、他のゲーム(鉄骨渡り・Eカード)をしてくれるという大ボリューム。しかも、大奥の男女逆転じゃないけど、原作の男キャラを女優にさせて、成功させている。男女逆転しても、ぶれないキャラっていうのは、強いなぁとか感じたものや。
否が応でも期待が高まるカイジ2やけど、前作と同じく原作マンガでは長い尺を使った地下でのチンチロリンを冒頭10分で終わらせてきた。こいつは、また大ボリュームになりそうやでと期待したのに、ピークがそこやったんちゃうかと思えるぐらいにしぼんでいく。映画だけのオリジナルゲームが、途中にあるんやけど、そこらあたりから、ゲームの面白さよりも人間ドラマに比率をおきはじめたので魅力が減ったんやろうな。ここらへんの肩透かし感を解消してくれた映画は、後に咲や賭ケグルイで登場するのやけど、それはまた先の年の話で語ることでしょう。
本来ならば、ギャンブル物ってVシネマで培った技術を使えるはず。
つまり、時代劇や特撮系みたいにお手本とできる作品が多い。にも関わらず、カイジ2はジャンルを変えてきたイメージすら持った。1はシリアスやったのに、2でコメディになる作品もあるにはあるので、一概にはそれが失敗とはいえないんやけど。
邦画の悪い癖ともいえるんやけど、なんでも愛がどうとかで物語をつくれば客がくると考えてる節があるんよね。ベイマックスの日本版の予告編とかアベンジャーズエイジオブウルトロンの日本版予告編とか、まさにそれやん。愛がどうとかで無理やり予告をつくって、本来の魅力を伝えるのを怠っているようにもおもえる。
だから、カイジも愛とか人情がどうとかに舵をとったのは邦画の呪いとでもいえるのではないのかな。でも、カイジが頑張ってくれていれば、映画でも定期的に続編がつくられるぜっていう前例がうまれたかもしれんのに。だって、カイジファイナルなんて完全オリジナルやからね。オリジナルでええんやったら、毎年とか二年に一回とかで上映されるシリーズ映画をつくってくれよ。いやまぁ、釣りバカ日誌があったのは、知ってますよ、はい。あれも漫画原作やね。
さてさて、カイジとカイジ2の流れは、テレビドラマシリーズでヒットした漫画原作ものを続編制作にあたり映画化しましたって流れに通じるものがあるといえるのではないでしょうか。そういった点でも、モテキとも比較できそうやね。
モテキのストーリーに関しては、僕が語る必要がないほど話されていたので割愛するとして。邦画として面白いから、いままで気にとめなかったんやけど、完全オリジナルストーリーなんよね。漫画原作というくくりのトークの中で、オリジナルで面白いのは卑怯ととるか、それともこの企画の希望ととるか。むしろ、そうやって考える余地がある時点で、振り返って重要な映画なのかもしれない。
『郷倉』
モテキ完全オリジナルストーリーでウィキペディアなどで調べると、ドラマ版のキャラクターも登場するシーンも脚本ではあったようですが、監督が「映画はドラマの続編だが、独立した作品にしたい」ということでカットしたそうです。
個人的に、その独立性故に倉木さんがおっしゃるように、邦画として面白い作品になっているんだと思います。
モテキが完全オリジナルストーリーで面白いのは卑怯か、希望かで言えば、他では真似できない、という点で卑怯というかチートな印象を持ちます。
言ってしまえば、モテキは特別です。
どういう特別性かと言えば、先日放送した『逃げるは恥だが役に立つ ガンバレ人類!新春スペシャル!!』くらい卑怯です。
逃げ恥のスペシャルは前半部分は原作通りですが、後半はオリジナルになっています。このオリジナル部分はコロナウィルスが蔓延した中での子育て、という内容です。
副題にもなっている「ガンバレ人類!」とあるように、逃げ恥のスペシャルは一つの希望の物語になっています。
漫画の原作でどれだけ時事を描いてもそれが映画化されるのは、数年後です。
しかし、オリジナルのシナリオであれば、幾らでも今もっとも描くべきテーマを中心に据えることができます。
モテキの映画の何が良かったかと言えば、SNSが当たり前になった若者の恋愛って、こういうことが起こるよね、って言うことも描いていたことなんだと思うんです。
つまり、SNSによって恋愛の方法は変わってしまった。
それをモテキで完璧に描いてしまった。
だから、漫画原作の実写映画という枠を超えて、日本の恋愛学を語る上で参照されるくらい「モテキ」は重要な作品になっている、と僕は思います。
そういう作品が漫画原作の実写映画から生まれる、というのは良いですよね。漫画原作の実写映画が好きな身からすると。
『倉木』
漫画を知ってたら、アニメは見ないけど、実写映画は見るってパターンが自分の中で多いなって思いました。
カイジもGANTZも原作漫画は読んでるけど、アニメは見ることなく実写映画は何故か劇場でみてるわ。
理由を考えるに、オリジナルの味付けに興味があるんやと思う。
GANTZの二作目もオリジナル展開やね。一作目において、色々と原作から変更したために、さらには二本目で終わらせるためには、オリジナルにするしかなかったのかもしれん。モテキとちがって評価が低いのは、オリジナルにしたくせにイマイチだったせいかな。
観客の評価をおそれたあげくに、時事ネタを取り込むような挑戦もしなかった。
原作のエッセンスをいまにおとしこんでいるものの最高峰は、MCUシリーズやと思う。
マルチバースという原作とはちがうパラレルワールドという認識で原作ファンは納得してる。というか、原作コミック世界においても、いくつものマルチバースがあるという設定もあるし。
MCUは、時事ネタ世界情勢を取り上げるように、有色人種のヒーローや女性ヒーローの活躍をうまく作品にとりこんでる。
ああいう挑戦をGANTZはしなかった。
そもそも、長編二作で完結させるならば、原作にはないオリジナル展開も仕方ないのだ。これは、自分の作品を推敲するのにも通じる物があるのではないか。
エピソードを削るだけではまとまらない。削りながらも、名言だけは残す。複数のエピソードをまとめるためにこそ、オリジナル展開、ひいてはキャラが必要になる。
寄生獣完結篇は、そこらがうまい。設定を一ついじれば、他の部分もいじる必要を知っている脚本家だった。さすが、名脚本家だよ、あの人は。
※後半に続きます。