3度目の結婚記念日に出かけた、トロントの「大きな鼻のレストラン」
2018年から2019年にかけて、トロントの東側にあるビーチズという静かな湖畔のエリアに住んでいた。
市内で仕事や用事があるときはストリートカーやバスや電車を使って、自宅のドアから目的地までおよそ1時間かけて移動する。東京近郊の逗子や葉山に暮らしたら、きっとこんな感じだろうなと想像していて、人によっては日帰りの小旅行に感じるであろう距離だ。
週に何度かは501番のストリートカーに乗って、クイーン・ストリートを西に向かい、ダウンタウンへ繰り出す。窓際の席に座って足を手すりの根元に投げ出すと、身体は寸法を測ったかのように座席に丁度良く収まるし、終点から2つ手前が家から最寄りの停留所なので必ず座ることができたから、日々の移動はなかなか快適だった。
移動中に音楽は聴かない。ストリートカーが走る音、次の停留所を告げる女性の機械音声、人々のおしゃべりなどを聞きながら、目の前を通り過ぎていく街並を眺めるのが好きだった。それに、トロントのストリートカーは突然行き先を変えたり、思いもよらない停留所で回送車になったりするから、運転手のアナウンスにも注意を払っていなければならない。聞き逃したり聞き取れなかった場合は、周りの人の動きを見て判断する。ときどき聞き間違えて早とちりをして下車してしまうなんてこともある。ひと筋縄ではいかない海外生活はもう慣れっこだ。
ストリートカーはドン川を超える手前でレスリービル地区に差し掛かる。レコードショップやスリフトショップ、ブリュワリーやレストランが点在し、少しだけ街並みがにぎやかになる。その中にひときわ目を引く外観の建物がある。看板は無く、代わりに巨大な立体の鼻を掲げているのだ。
聞くところによると人気のレストランだそうで、いつか行ってみたいという思いを募らせながら、501番のストリートカーから合計100回以上はその不思議な大きな鼻を眺めていた。「きっとフレンチ創作料理か何かのお店だろうな。内装はインダストリアルモダンな感じ。料理の量は控えめで少なそうで、少しお高めなんだろうな」と勝手に想像を膨らます。
5月上旬のトロントには3度目の冬がやってくると言われている。Tシャツの上に軽めのジャケットを羽織る春らしい装いをするだなんて夢のまた夢。うっかりヒョウや雪が降る年だってあるから、ニットのセーターがなかなか脱げずにいる。一方でカナダの5月における唯一の祝日ビクトリアデーは夏の始まりを告げる日だとも言われている。ビクトリア女王の誕生日を祝うために約2000発の花火が打ち上げられるが、この年のビクトリアデイは体感温度が8度。夏の到来なんて微塵もなく、ダウンジャケットを着込んでガタガタ震えながら夜の湖の砂浜で花火を見上げていた。
そんな5月は私にとって、結婚記念日の方が自分の人生に直接の関係のあるお祝いごとだ。
毎年特別なことをするわけじゃないけど、少しだけ普段とは違うことをしてみる。例えば、普段は作らない料理を作ってみたり、初めてのレストランに行ってみたり。ずっと気になっている「大きな鼻のレストラン」は、トロントで迎える3周年の結婚記念日に訪れるのにもってこいだと思った。しかし「大きな鼻のレストラン」と勝手に心の中で名前をつけていたので店名が分からず、「トロント ビッグノーズ レストラン」と検索する。
「Gio Rana's Really Really Nice Restaurant(ジオ・ラナのとてもとても素敵なレストラン)」
絵本の中に出てきそうな、直球なネーミングが可愛らしくて心を掴まれる。どうやらフレンチではなくイタリアレストランで、メニューを見るとミートボールが大変美味しそうだし、評価もそこそこ良い。トロントの人気のレストランは決まって混雑するので夫が予約の電話をかけるが、希望日は平日の早い時間帯だったので予約はしなくて大丈夫だと言われる。
当日は夫は職場から、私は家から直接レストランに向かい、お店の前で落ち合う。通りを挟んでお互いの姿を確認するや否や、2人とも嬉し恥ずかしそうにニヤニヤする。うっかり2人とも黒いライダースジャケット着ていて、まるでペアルックになっていたのだ。若いカップルや仲良しグループが同じ服装をしているのをよく見かけるけれど、それは微笑ましく可愛いらしい。ただ自分たちがするのは有りか無しかで言うと、100%無しだ。それでも結婚記念日ということで、なんとなく有りって気持ちになるものだった。
初めて訪れるレストランは決まってドキドキする。場違いな服装をしていないか。メニューの内容を理解できるか。サーバーはいい人か。コミュニケーションが上手にできるか。注文を間違えないか。そこは食事の時間が心地いいか。値段は高すぎないか。内心は恐る恐る、態度は堂々としながらドアを開ける。
実際の「大きな鼻のレストラン」改め「ジオ・ラナのとてもとても素敵なレストラン」は、私が予想していたインダストリアルでモダンな内装とは対象的だった。長年使い古した家具や小物が並び、天井にはピカピカ光るイルミネーションライトをあしらい、壁には妙に大きな人物画が何点も飾られていた。長年地元で愛されているお店特有の、温かさと親しみやすさと個性が漂う。
黒縁のメガネをかけた女性のサーバーさんが私たちを店内に迎え入れ、二人掛けの壁際の奥の席に通してくれる。まだお客さんはほとんどいない。私たちは何が美味しそうか、人気のメニューは何かをあらかじめ口コミやレビューで調べておく。注文したのはミートボール、ムール貝、カラマリ、サラダ。思い立ってオイスターを3ピースだけ頼んだ。夫はビール、私は白ワインを頼む。メニューの一番上にある一番値段が安いワインを頼むが、サーバーさんは「それより2番目にやつの方が美味しいですよ」と言うので勧められるがままにそれにする。サーバーさんは「注文のチョイスは完璧、良く分かっていますね!」と言い、料理への期待値を上げてくれる。
ビールとワインが運ばれてきたので「結婚記念日おめでとう」とグラスをぶつける。ここで出てくる付け合わせのパンには手を出さないようにする。最初に食べてしまうとお腹が一杯になってしまうし、炭水化物を食事の最初に食べるのは血糖値が上がってダイエットの妨げになるらしいので、基本的に避けている。オリーブオイルとバルサミコ酢につけて食べるふわふわの柔らかいパンは一度食べ始めると止まらないし、ワインにもよく合うのだ。手を伸ばしたい気持ちをぐっと堪えてパンの断面の美しい気泡を睨む。
オイスターが運ばれてくると、パンのことはすぐさま忘れてキラキラ光る海の宝石に夢中になる。夫はあたるのが怖いと言って生牡蠣を食べないので、全て私が平らげる。お酒と一緒に食せばあたることはないだろうと信じていて、実際に今まで当たったことは一度もない。カナダの牡蠣は小ぶりで、プリンス・エドワード・アイランド州やニュー・ブランズウィック州、ブリティッシュ・コロンビア州などの東西の海岸で収穫される名産の1つだ。サラダで舌をリセットしてから旨味が詰まったムール貝にフォークを伸ばす。大事に取っておいたパンもこのタイミングで手をのばし、ムール貝の煮汁に浸しながら食べる。お目当てのミートボールは、まるで豆腐ハンバーグのようにホロホロとなめらかで柔らかい。お皿に残ったトマトソースもパンと一緒に根こそぎ味わった。
気が付くと店内の席はたくさんの人で埋まっていた。大きなテーブルではイタリア系カナダ人であろう三世代の家族が総出のディナーをしている。幅広い年齢層のカップルやグループが食事を楽しんでいる。30年も経っているから、ここで初めてのデートしたカップルが子供と一緒に来ていることだってあるんだろう。
料理をすっかり平らげた私たちは、ほろ酔いで「もう一軒行く?」と近くにあるブリュワリー「Radical Road Brewing」に入り、夫は柚子ペールエール、私は4種類のビールを少しずつ楽しめるフライト、おつまみにフレンチフライをオーダーする。ここの柚子味のビールはトロント産の数あるクラフトビールの中でもお気に入りの1つで、酒屋で見かけると必ず買うようにしている。ビールとフレンチフライで腹12分目くらいになったところで、家で飲むための缶ビールを買って帰路についた。
501番のストリートカーに乗って東へ向かう途中、案の定バスが回送になり降ろされてしまった。正しい行き先が書いてあるストリートカーに乗ったのに、こうやっていとも簡単に予定を変える。仕方がないのでそこから歩くことにする。食後の散歩は消化を助けるし、夜風は冷たいけれど悪くない。
しばらく経って、なんと結婚記念日の日付を間違えていたことに気付く。
実際の日付よりも4日ばかり早かったのだ。以前に夫の誕生日を間違えていたこともあるし、私たちの間では良くあることだったりする。もう1回お祝いしよう、その時は家でステーキでも焼いてワインを飲もう、ということにする。こうやって小さな楽しみをこしらえて日々を淡々と暮らす術は、湖畔のビーチズでの穏やかな生活で身についた。
夜の住宅街を歩いていると、民家の横にあるゴミ箱の上で縞模様の尻尾が動く。ラクーンの目がキラリと光り私たちをしばらくじっと凝視すると、のそのそと小走りで去っていった。