〈ファンタジー小説〉空のあたり2
2.猶予
目覚めは最悪だった。だって昨日、ぼくは無銭飲食はしなかったけれども、無断早退はしてしまった。何も言わずに休憩中に会社を抜け出し、そのまま家に帰ったのだ。
昨日はなんとなく、ぼくがひまをした代わりの人が、ぼくの仕事をしてくれるのだろうと思っていたけれど、そんなの無理に決まっている。ぼくの仕事は、一日二日で覚えられるようなものじゃないんだから。
とても憂鬱な気持ちで、ぼくは足取り重く会社に向かった。なんて言えば良いんだろう。
いつだってそうだ。たまに思い切ったことをしてみても、結局は、後悔するのだ。
「お、おはようございます」
かすれた声が、オフィスに響いた。ぼくは顔を上げなかったけれど、たくさんの視線が、こちらに飛んでくるのを感じた。
「おはようございます」
いくつか声が返って来た。とりあえず、無視はされなかったみたいだ。
ぼくは一直線に、部長の机に向かった。
「昨日はすみませんでした」
深々と、ぼくは頭を下げた。
「昨日? 何かあった?」
ぼくが予想していた反応の、どれとも違った。わざと、こんな言い方をしているのだろうか。ぼくの声は、うわずった。
「あの、昨日ぼく、休憩中に具合が悪くなってしまって、そのまま家に帰ってしまったんです」
この言い方なら、嘘をついたことにはならないだろう。
「あ、ほんと? 気づかなかったよ。それで、もう大丈夫なの?」
「え、あ、はい」
「じゃあ、昨日は早退ね。はい」
それだけだった。いなくなったことに、気づかれもしていなかったのだ。
その日一日、ぼくはいつものように仕事をした。いつものように、時間に追われる一日だったけど、なんとなく、周りの人が、ぼくに優しく接してくれた気がした。
仕事を終え、暗くなった帰り道を、ぼくはフラフラと歩いていた。ふと、ぼくは、昨日のお店を思い出した。なんか変だったけど、居心地は、悪くなかったな。
いつもなら、まっすぐ家に帰るのだけれど、今日はそのまま帰りたくなかった。あのお店に、行ってみようかな。
けれど、ぼくはあることに気づいた。お店の場所が、分からない。昨日、おんぶされながら、道を覚えようとしたけれど、全然覚えられなかった。電話をして、住所を聞こうにも、店の名前も分からない。どうしてぼくは、聞いておかなかったんだろう。
それでもあきらめきれなくて、ぼくは街灯の下で、しばらくウロウロしていた。こうしていたって、なにが分かるわけでもないのに。けれどこのまま家に帰ってしまったら、完全に終わりという気が、なんとなくした。
その時、背後からスタッスタッと軽快な足音が聞こえてきた。振り返ると、昨日ぼくをおんぶしてくれた人だった。こんな偶然、あるだろうか。
その人は、赤と黒のトレーニングウェアを着て、こちらに向かって走っていた。そして、あっというまにぼくを追い越し、街灯の向こう側へ、行ってしまいそうになった。
「あ、待って!」
おもわず出た声に、自分でもびっくりした。けれどこんなチャンスを逃したら、今度こそ本当に、終わりだ。
その人の足が、止まった。そしてゆっくりと、こちらを振り返った。
やった! と思って、ぼくは小走りで近づくと、「昨日はありがとうございました」と、言った。
その人は、じっとぼくを見ている。怪しまれている。ぼくは早口で、その先を続けた。
「あの、昨日のお店の名前、教えていただきたいんですけど。もう一度行きたくて」
「知らないよ。昨日初めて行ったから」
「えっ! そうなんですか」
マスターが、あんな大胆な頼み事をするもんだから、てっきり常連さんだと思いこんでいた。
「でも、道はわかる」
「ほんとですか? じゃあ、教えてください!」
「ついて来な」
その人はそう言って、走り出した。
今日は、おんぶしてくれないんだ。と、ちょっと思ったけれど、トレーニングの邪魔をしては悪い。ぼくは頑張ってついて行くことにした。
その人は、容赦なく走って行った。ぼくは全速力で走りたかったのだけれど、手に持った、かばんがじゃまで、難しかった。
息が切れて途中で立ち止まると、その人はずっと先の方に行ってしまう。見失わないように追いかけて、追いついては休み、また追いついては休みしているうちに、だんだん追いつけなくなってきた。
下り坂を下りる時、膝の古傷が痛んだ。もう、これ以上走れなくなって、遠くに行ってしまう背中を、ぼくはみつめるしかなかった。
息が切れて、ぼくは、その場に倒れ込んだ。仰向けになると、星空が見えた。こんなにまっすぐに、星を見たのは、いつぶりだろう。思わずぼくは、星に見とれた。けれどすぐ、現実が押し寄せてきた。
「ああ、どうしよう。ここがどこかも分からないのに」
ぼくはもう、完全に迷子だった。
カンカンカンと、割と近くで、聞き覚えのある音が聞こえた。それと同時に、「ありがとうございましたー」という、聞き覚えのある声も、聞こえてきた。
まさか。
ぼくは、がばっと体を起こした。
横を向くと、そこに、あの二本足のお店が、建っていた。
「マスター!」
ぼくは、おもわず叫んだ。そして、走った。
長い階段を駆け上がると、そこに、マスターがいた。
「いらっしゃいませー」と、マスターは言った。
店の中に入ると、他には誰もいなかった。
「よく、いらっしゃいましたね」と、マスターは言った。
「はい。危うく迷うところだったんですけど、昨日ぼくをおんぶしてくれた人が、ここまでの道を、教えてくれたんです」
「へー、そうですか」
「そうなんですよ。すごいですよね、一度来ただけで、覚えられるなんて。ぼくは全然覚えられなかったのに」
「なんにいたしますか」
あ、そうか、と、ぼくは焦った。ちょっとしゃべりすぎたのかもしれない。早く注文しなければ。そう思った瞬間、自分が空のかけらを持っていないことに気づいた。
「あの、すみません。ぼく、空のかけらを持っていないんです。昨日みたいに、ひまの仕事はありませんか」
「では、別のしごとを、してもらいましょうかね」
ぼくは、仕事で疲れていたので、内心がっかりした。少し、休みたかった。
「休むというしごとがあります」
「えっ?」
心の中を読まれたかと思って、ぼくはびっくりした。
「そんな仕事を頼む人なんて、いるんですか」
またぼくは、信じられなかった。
「休むことに飽きてしまった方です」
「働けば良いのに」
「それが、働けない事情があるのです」
「そうなんですね。すみません」
なんとなく、ぼくは謝った。
「その代わり、あなたが今感じている、達成感、筋肉疲労に眼精疲労、人間関係のストレス、その他もろもろを、その人は感じることができるのです」
「筋肉疲労まで伝わるんですね」
ぼくは、だるくなった足を、こっそり伸ばしながら言った。
「はい。では、こちらに」
ぼくはまた、クリーム色の部屋に入って行った。
昨日のひまと、どう違うのだろう。
「今日は休んでもらうので、暗くしますね。でも、夢は見ないでください。夢を見ると、疲れちゃいますから」
そんなの、ぼくの意思ではどうにもできない。
床に寝そべると、さっきまで汗だくだったのに、まるで地面に水分が吸い込まれていくように、肌がさらさらになった。そしてさっきまで荒かった呼吸が、だんだん落ち着いてきた。ふうっと息を吐くと、その呼吸に合わせるように、部屋が、すうっと暗くなった。
「音楽でもあればなぁ」
ぼくはつぶやいた。
「耳が疲れます」と、マスターに言われた気がした。
「はい、おやすみさまでしたー」
マスターの、はつらつとした声が聞こえた。
「もう終わりですか?」
まるで、一瞬しか時が経っていないように感じられた。けれども頭の中は、まるで何かが抜け落ちたみたいに、風通しが良くなっていた。今ならなんだって、すみずみまで考えられそうだ。だからすぐに、疑問が湧いた。
「あの、『おやすみさまでした』ってなんですか?」
「お疲れさまでしたー、と言いたいところなんですが、疲れてもらっていては困るので」
なるほど、と、ぼくは思った。
それにしても、良く寝た。夢を見ずに眠るのなんて、一体、何年振りだろう。
「なんだか、とてもすっきりしました」
「そうでしょう。とてもよく休まれてましたので。では、それをください」
「あ、はい」
首に手をやると、ちゃんとそこには、イボのようにネックレスの粒がくっついていた。ぼくはまたそれを取ると、マスターに渡した。カタツムリの殻みたいなものは、そっとカバンにしまった。
カウンターの席に座ると、ぼくはメニューを探した。けれど、それらしきものはみあたらない。しかたがないので、ぼくはこう言った。
「すみません。昨日、ぼくを送ってくれた人が飲んでたのと、同じものをください」
しかし、マスターは驚くべきことを言った。
「あれは、ただの水ですよ」
「え? そうなんですか」
「はい。たまにいらっしゃるのです。生き急いで、ここに迷い込んでしまう方が。だから少し休んでもらって、お帰りいただいたのです」
ぼくは、生き急ぐということが、どういう生き方なのか、よく分からなかった。どちらかというとぼくは、いつもみんなの背中を、見送ってばかりいたから。
「メニューをご覧になりますか」とマスターが言ったので、あるんだ、と思いながら、ぼくは頼んだ。すると、見たことのないような分厚い冊子が、バサリと目の前に置かれた。
「これがメニューなんですか? ずいぶん種類が多いんですね」
「余白が多いのです」とマスターは言った。
ぼくはメニューのページをめくった。左のページに、写真が一枚載っていて、右のページには、少しの文章が書いてある。うん、たしかに余白が多い。
写真は、昨日ぼくが飲んだ飲み物と、そっくりだった。昨日ぼくが飲んだのは、これだったのかもしれない、と思って次のページをめくると、またもや同じ瓶の写真が現れた。まさか、と思って、ページをパラパラめくったら、使い回しているのかと思うくらい、全部同じ写真だった。これって、意味あるのだろうか。いや、きっと、中味が違うのだ。今度は、横にある文字を読んでみることにした。そこには、こう書かれていた。
凍えてよう。
耳たぶが冷たくて
手で温めるように。
見抜こう
人のうそを。
そしてやさしいうそを。
調べたら最後。
この味は道のあじ。
なんだこれは。説明文でもなさそうだし、まるで、詩みたいだな。と、ぼくは思った。
他のページもめくってみると、文章の方は、それぞれに違うものが書かれていた。もしかして、ものすごく長い名前なのだろうか。
「マスター。この文章は、なんですか?」
「それは、材料です」
「材料?」
「はい。それを材料にして、この飲み物は、できているのです」
詩を材料にするなんて、聞いたこともない。どんな味がするんだろう。
ぼくは、さっき読んだ詩を指さした。
「これ、ください」
「はいよ」
マスターは、厨房に入って行った。
耳をすましていると、マスターの声が聞こえてきた。さっきの詩を朗読している。それは、言い聞かせるようでいて、感情の、こもっていない、不思議な読み口だった。
出てきたのは、写真と同じ、水色の瓶に入った透明な飲み物だった。
一口飲むと、なんとなく昨日とは違う味がした。けれど、相変わらず、甘いのかしょっぱいのか、よく分からなかった。でも、とにかく味はした。
飲み物を飲みながら、ぼくはマスターに聞こうと思っていたことを、思い出した。
「マスター、このお店の名前を教えてください」
「なんだと思います?」と、マスターは丸い目で見返して来た。すぐに教えてもらえると思っていたぼくは、頭が真っ白になった。
「え、なんでしょう?」
「まあ、あてずっぽうでもいいから、言ってみてください」
「えー、分からないなぁ。じゃあ、ヒントをお願いします」
「そうですね。ヒントは、そのあたりにあります」
「そのあたり?」
ぼくは、マスターが指さした方向を見た。そこには、初めてここに来た時に見えた、空が広がっていた。
「あの、空のあたりですか?」
「はい! 正解でーす!」
いきなりマスターが大きな声を出したので、ぼくはびっくりした。こういう人だったのか。そして一体、何が正解だったのだろう。
「え、あの、ぼく、答えを言いましたっけ?」
「はい。まったくもってそのとおりです。さぁ、表の看板を、見てごらんなさい」
さっきはよく見ていなかったけれど、看板を見ればすぐに分かったことだったのだ。ぼくは席を立ち、お店の扉を開けた。けれどそこにあったのは、目を疑うような光景だった。
お店の辺り一面が、大水で囲まれていた。階段は、ほとんど水に沈んでしまって、まるでプールの中に、ポツンと、お店が浮いてるみたいだ。
ちゃぽーんと、どこかで水音がした。ぼくは理解できなくて、しばらくたたずんでいた。いつのまに、こんなになっていたのだろう。
「あの、マスター、これ、どうなっているんですか」
首をマスターの方に向ける時、ギギィと音が鳴ったような気がした。でも、マスターは一つも慌てていない。
「ああ、たまにこうなるんですよ。しばらくしたら、戻りますから」
「そうなんですか?」
「それより、お店の名前は見ましたか?」
「あ、そうでした」
ほんとは、お店の名前どころじゃなかったけれど、ぼくは体の向きを変えて、その看板を見上げた。
そこには、「空のあたり」と、書かれていた。
「あ、空のあたりって言うんですね。ぼく言ったかな」
「はい。おっしゃってましたよ。たしかに」
そんなことよりも、ぼくは、辺りを取り囲む水の方に、気を取られていた。これって、災害じゃないのだろうか。
「これじゃあ家に帰れないな。どうしよう」
そうつぶやくと、マスターは「ここに泊まっていってください」と言った。迷惑になるから嫌だなと、ぼくは思ったけれど、それしか方法はなかった。
こんな日には、誰もお店に来ないだろうと思っていたのに、次々とお客さんがやってきた。店の中は、少しガヤガヤしていた。一体みんな、どうやって来たのだろう。ぼくは端っこの方に座って、そのお客たちの様子をじっとみつめていた。
「マスター、スパイスあるかい」と、一人が言った。
「はい」
マスターはペッパーミルを取り出した。そして瓶の中から粒を取り出し、ミルに詰め込んだ。
あれ? と、ぼくは思った。
マスターは手際良く、お客さんが差し出したグラスの上で、ペッパーミルを回し、粉を挽いた。
あれあれ? と、ぼくはまた思った。
そして、お客さんが、ぐびーっとその飲み物を飲んだ時、ぼくはたまらず叫んだ。
「あ! 飲んじゃった!」
ぼくがそう言って立ち上がるのと同時に、「くーっ、たまんねぇな」と言って、その人はグラスを置いた。
「あの、それって……」
「あなたから頂いたものです」とマスターはにっこりした。
マスターが入れた粒は、昨日ぼくが渡した、あのネックレスの粒だったのだ。
おえーと思いながら、ぼくはそれを飲んだ人に聞いた。
「あの、それって、おいしいんですか」
「おいしいか、おいしくないかじゃないんだ。これの良さは」
じゃあ、何が良いんだろう。ぼくには分からなかった。
お店から帰る何人かの人に、ぼくの住所を伝えて、ついでに送ってもらえないか頼んでみたけど、みんな断られた。
「全然、方向がちげーよ」と、みんな笑っていた。
それから、夜も更けていった。ぼくは、お腹が空かなかった。
「マスター、ぼく、先に休ませてもらってもいいですか」
「はい、もちろんです。こちらをお使いください」
マスターは、どこからか、黄色いナップサックを取り出した。そのナップサックの中には、歯ブラシやタオルなんかが詰まっていた。きっと、ぼくと同じように、家に帰れなくなる人が、ときたまいるのだろう。そう思うと、少し心が軽くなった。
「ありがとうございます。それでは、おやすみなさい」
ぼくは、店の外で歯をみがいた。みがきながら、階段に座り込んだ。すぐ下は、一面水だった。波はなかったけれど、ここは海なんじゃないかと、ぼくは思った。だって吹いてくる風が、潮の香りだったから。
月明かりが、ぼんやりしている。水面に映る月も、ぼんやりしている。
ぼくは外にあった蛇口から水を出すと、口をゆすいで、顔を洗った。
ベージュの部屋に行くと、マスターが、どでかい布を持って、待ってくれていた。
「じゃあ、かけますねー」と言って、マスターは布を広げた。
なんだか恥ずかしかったけど、ぼくは横になり、マスターにそのでっかい布をかけてもらった。ひらりと宙に舞った布は、ふんわりと、ぼくの上に舞い降りてきた。
お店の方は、まだガヤガヤしている。そのガヤガヤが妙に心地良くて、ぼくはさっきあんなに寝たばかりだというのに、またすぐに寝てしまった。