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〈ファンタジー小説〉空のあたり6
6. 遭逢
ザザンと、波の音が聞こえて、ぼくは目を覚ました。今まで、このお店を取り囲む水を、ぼくは海だと思っていたけど、ほんとの意味で、海だと感じたのは、これが初めてだった。それは、今は、波があるからだった。ぼくは大きな布をたたむと、カウンターに向かった。カウンターはL字型になっていて、奥の席は、狭かったけれど、窓に近かった。ぼくは、その席に座って、窓の外を眺めた。
打ち寄せる波が、カールして白くなり、水面をすべっていくのを、ぼくは見ていた。潮風が漂ってきて、ぼくの前髪をふうと持ち上げた。
今日は家に帰れるだろうか。
ぼくは、空のかけらがもう一つ残っているのを思い出した。
「マスター、メニューを見せてください」
「はいよ」
目の前に、分厚いメニューが置かれた。ぼくはそのメニューをパラパラめくりながら、何気なくマスターに聞いた。
「このメニューに載っている飲み物を、全部飲んだことがある人っているんですか?」
「はい。いますよ」
「ほんとですか?」
「はい。あの人です」
そうマスターが言うのと同時に、カランコロンと鐘がなり、三角形の旗が、ゆらめいた。目線を少し下に落とすと、そこに、小さな女の子が立っていた。
「いらっしゃいませ」
「お久しぶり、マスター」と、その女の子は言った。片手に、小さな分厚い本を持っている。
その女の子は、ぼくの方を見ると、一瞬時が止まったように、立ち尽くした。そして、こう言った。
「どうしてこんな人がいるの」
ずいぶんと失礼な言い方じゃないか。いくら小さな女の子だからって、こんな言い方ってない。
ぼくは何か言おうとしたけど、女の子の視線はすぐに、ぼくからマスターへ移って、「テイクアウトでちょうだい」と言ったので、言うタイミングを逃してしまった。
女の子は、分厚い本の、あるページを開くと、それをマスターに見せた。そして、マスターに空のかけらを渡した。あんなに小さいのに、空のかけらを持っているのだと、ぼくはちょっと驚いた。さすが、全メニューを制覇した人だけある。
道を開くもの。
その心。空。
だから、すいすい進める。
マスターの声が、聞こえた。いつも訳のわからない詩ばかりだったけれど、これは、なんだかわかる気がした。
「はい。どうぞ」
マスターは、水筒を女の子に渡した。女の子は、水筒を首から下げると、お店を出て行った。
「ほんとうに今の子が、全メニューを飲んだんですか?」
「はい。そうですよ。何年もかかりましたけれどね」
「何年も?」
あんな小さな女の子が、そう何年も生きているようには見えなかった。まさか赤ちゃんの時から飲んでいたわけでもあるまいし。
ぼくは、自分の飲み物を選ぼうと、ページをめくった。時間があったので、最初のページから、ゆっくりと、一つ一つの詩を、読んでいった。
最後のページを読み終えたあと、ため息をつきながら、ぼくはこうマスターに言った。
「これはメニューというより、一つの詩集ですね」
「そうですね」とマスターはにっこりと笑った。
「これにします」と言って、ぼくは一つの詩を指さした。
心ここにあわず
そして歯向かうものもなく
つかまるのは自分ばかり
ぼくも女の子の真似をして、飲み物をテイクアウトして、ベージュの部屋に戻った。一度、この部屋でゆっくり飲んでみたかったのだ。
扉を開けると、なんとそこに、さっきの女の子が、座って本を読んでいた。
「あれ? さっき帰ったんじゃ……」
どこから入ってきたんだろうと思いながら、ぼくは言った。
「せっかく静かに読んでたのに」と、女の子は言った。
「何を読んでるんですか」
なぜか、敬語になってしまう。
「これは、詩集」
「詩集?」
女の子は、その本を見せてくれた。
「あれ、これ、メニューじゃないですか」
それは小さな本だったけれど、中味は、さっき見たお店のメニューと同じだった。
「あれは、単なるメニューじゃない。詩集なんだ」と、女の子は言った。
「たしかに。ぼくも思いました」
メニューも全制覇するくらいだ。よっぽど、この詩集が好きなんだな。
「ほんとに、全部の飲み物を飲んだんですか」
「うん」
「どうでしたか?」
「どうって、全部同じだよ」
「え、でも、ちょっとずつ味が、違いませんでしたか?」
「いや」
確かに、ぼくには、それぞれ違う味に感じたのだけれど。それにしても、味が変わらないのに、どうして全部の種類を飲んだのだろう。
そう考えていると、今度は、女の子が質問してきた。
「この店に、どうやって来たんだ?」
「最初は、気づいたらここにいたんです」
ぼくは、おぼろげな記憶を引きずり出した。もう、遠い昔のできごとみたいで、思い出すのに苦労した。そう。きっとあれは、自分の意志じゃない。
「ふーん。じゃあ、やっぱり呼ばれたんだ」
「え、どういうことですか」
「ここに来る人には、三種類の人がいる」
「三種類?」
「うっかりと迷い込んでしまった者。探し求めて来る者。そして、呼ばれて来る者」
「どうして、呼ばれたんですかね」
「緊急事態だったから」
「きんきゅうじたい……」
「そう。だけど、今、ここにおまえがいるのは、なんだか変な感じがするんだ」
「だから初めてぼくを見た時、あんなことを言ったんですね」
それなら、許せる。と、ぼくは思った。
「変な感じって、どんな感じですか?」
「なんだろう。そのどれにも、あてはまらない気がする」
「あ、ぼく、一回家に帰ってから、また来たからですかね」
「一回家に帰って、また来た?」
女の子は、小さな目を見開いた。
そんなに驚かれるとは思っていなかったので、ぼくは余計にびっくりしてしまった。
「どうやって?」
「前の日に、家まで送ってくれた人に、偶然会ったんです。その人に教えてもらって」
ぼくは、おんぶしてもらったことは、言わなかった。
女の子はため息をついた。呆れられたのか、すごいと思われたのか、ぼくには、判らなかった。
「あなたは、どうやって来たんですか?」と、ぼくは聞いてみた。
「私は、探し求めて来た」と女の子は言って、水筒から飲み物を飲んだ。
「ぼくだって、探し求めて来たんだけどなぁ」と言ったけれど、もう女の子は本の世界に没頭していて、ぼくのつぶやきなど、耳に入ってはいなかった。
ぼくも壁に寄りかかって座り、瓶から直接飲み物を飲んだ。少し、甘い味がした気がした。
しばらくそうしていたら、頭の中に、良いことが思い浮かんだ。
「ねえ、ぼくが、その詩、読んであげましょうか」
すると、女の子は、またびっくりした目で、こっちを見た。
「だって、自分で読むのと、人が読んでるのを聴くのって、違うと思うんです。きっと、その本、何度も読んでいるんでしょうけど、新たな発見が、あるかもしれませんよ」
そう勢い込んで言ったものの、女の子がだまっているので、そんな提案、受け入れるわけないよな、と、ぼくは思った。
けれど女の子は、ぽつりとこう言った。
「聞こえるかな」
「え?」
「じゃあ、読んで」
「あ、はい」
ぼくは久しぶりに胸がドキドキした。ぼくもこの詩集が好きだし、この女の子に何かしてあげられることが、うれしかった。
ぼくが一つ目の詩を読み始めると、視線の端で、女の子が、ぎゅっとひざを抱えたのが見えた。
黙読したばかりだったけれど、自分の声で読むと、さっきは気づかなかったことに、気づいたりした。
ずっと読んでいると口が乾いてきて、途中で、ぼくは、飲み物を飲んだ。
そうしてぼくは、読み続けた。
ついに最後のページまで来た時、ぼくはあることに気づいた。さっきのメニューには、載っていなかった詩が書いてある。
きっと、読み飛ばしたのだろう。そう思って、ぼくは、そのまま声に出して読んだ。すると、驚くべきことが起こった。
「ちょっと待って。なにそれ」
ぼくは読むのをやめて、顔を上げた。
「そんな詩、初めて聞いた」
呆然とした表情で、女の子は言った。
「何回も、この詩集を読んでいるんじゃないんですか」
「何回も、読んだ。けど、そんな詩は、どこにも載ってなかった」
「でも、ここに書いていますよ」
ぼくは、最後のページに書かれた、緑色の文字を指さした。
「ほんとだ……」
「じゃあ、この飲み物は、飲んだことがないんですね?」
「ない」
「マスターに、どういうことか聞いてみましょう」
ぼくは、女の子の手を引っ張って、カウンターへ向かった。
マスターは、カウンターでグラスを拭いていた。
「あの、マスター。この詩なんですけど」
ぼくは、詩集を指さした。
「これは、なんですか?」
「それは、裏メニューです」
マスターは言った。
「裏メニュー? じゃあ、この飲み物も、頼めるんですか?」
「はい。もちろんです」
ぼくは、女の子の方を見た。まるで何も頭に入っていないかのような顔つきをしている。
「じゃあ、それ一つ、お願いします。グラスは二つで」
ぼくは、急いで、そう言った。
進歩と後退の
速度は一緒
そして交代の時は来たり
マスターの声が、遠く聞こえた。
水色の瓶に入った透明な飲み物が出てきた時、ようやく女の子の目が反応した。ぼくは二つのグラスに飲み物を注ぎ、その一つを女の子の目の前に、そっと置いた。
女の子はグラスを手に持ち、ゴクリと飲んだ。
「うわーん」
いきなり、女の子が泣き出した。あまりに突然だったので、ぼくはびっくりした。今まで大人びていたけれど、やっぱり子どもは子どもなのだ。
マスターは、ゆっくりカウンターから出てくると、その女の子の横に、背中を向けてしゃがんだ。女の子が手をのばして背中につかまると、マスターは、女の子をおんぶしたまま、ベージュの部屋へと歩いて行った。
泣き声は、徐々に小さくなっていった。まるでものすごく、遠く遠くに、行ってしまったかのように。
ぼくは一人取り残され、なんだか急に、不安になった。
一体この飲み物は、なんなのだろう。ぼくはグラスを持ち上げ、下から見上げた。
その瞬間、マスターが、となりに立っていたので、ぼくはあやうく、グラスを落としそうになった。いつのまに、戻って来たのだろう。
「あの、大丈夫でしたか?」
「はい。もう、落ち着きました」
「なんであんなに、急に泣いたんでしょう」
マスターは目を細めてこう言った。
「今まで、泣くひまもなかったのでしょう」
メニューを全部、飲み切る時間はあったのに、たった数分、泣く時間はなかったのだろうか。
ぼくは改めて、目の前にある飲み物に向き合った。
「あの、これを飲んでも、大丈夫でしょうか?」
そう言ってから、作ってくれた人に対して、なんて失礼なことを言ってしまったんだ、と後悔した。
「大丈夫ですよ」
マスターは、ほほえんで言った。
ぼくは、覚悟を決めると、グラスを傾け、一口飲んだ。
飲み物が、喉の奥に流れると同時に、タラララララと、記憶の帯が、ぼくの頭に流れ込んで来た。それは、ぼくが会社で書いていた「やることリスト」だった。
ぼくはそこに、やらなければならないことを書き連ねていた。どんどんどんどん思いつく。あれも、これも、ああ、あれもやらなければならない。それは切りがなく、永遠に続いていくように思われた。けれどもそれには終わりがあった。その終わりは、やることリストの最初の項目に、つながっていた。つまり、その帯は、輪っかになっていた。
ぼくのやることリストは、永遠に終わらない。そう気づいた時、ぼくはその輪っかの一か所をぶっちぎり、茶色いクレヨンで、ぐちゃぐちゃにぬりつぶして、会社を飛び出したのだった。
「わー!」と、ぼくも叫んでいた。
ぼくはもう一度、茶色い紙で、包んで欲しかった。
「ダァイジョウブですかぁ?」
マスターの丸い目がのぞき込んでいた。一番初めに、ここに来た時と一緒だ。そう思った瞬間、ぼくは落ち着いた。
「だいじょうぶです」と言うと、マスターはにこっと笑った。
二口目からは、もう何も思い出さなかった。ちょっと、いつもより渋い味のする飲み物を飲み切ると、ぼくはポケットを探った。けれど、ポケットには、何も入っていなかった。
その瞬間、頭の中に、左ポケットから空のかけらを取り出す、自分の手が思い浮かんだ。そうだ。ぼくはさっき、飲み物をテイクアウトして、最後の空のかけらを、使ってしまっていたのだ。
さぁーっと寒気が走った。今からまた、空のかけらを取りに行こうか。でも、あの場所には、しばらく行きたくなかった。
あ、そうだ。あの女の子なら持っているかもしれない。ちょっと、借りてこよう。
「すいません、少し待っててください」
ぼくは慌ててマスターに言って、ベージュの部屋へ走った。
けれども、ベージュの部屋は、からっぽだった。
「もう、帰りましたよ」と、後ろから声がした。マスターが、いつのまにか後ろに立っていた。
「どうしましょう。ぼく、もう空のかけらを持っていないんです」
「それは困りましたねぇ」と、また全然困ってない顔で、マスターが言った。
「どうしたらいいですか?」
「では、ちょっとしごとをしてもらいましょうかね」
「はい。なんでもします」
「では、ひまをやってください」
「え、それって、一番初めにやったのですか」
「はい。でも、あの時、あなたは真のひまを極めていなかったのです」
「真のひま?」
「はい。あの時あなたは、寝ましたね。ひまな時間を、睡眠に使った。つまり、有効的に活用したのです。けれど、真のひまというものは、やることが何もない状態なのです」
「じゃあ、もう一度、やってみます」
マスターは、パタンと扉を閉めて、部屋を出て行った。