New熟語譚14歌俚涙(かりるい)
歌俚涙
私はショッピングセンターのトイレにいた。個室に座っていると、自然と店内放送が耳に入って来た。放送では、お店のイメージソングらしきハツラツとした音楽がかかっている。私はそれを聴いていた。しかし、その曲のある部分になった時、びっくりすることが起こった。
私の目から、涙がポロリと落ちてきて、膝に落ちたのだった。
え、何何?と私は思った。聞いたことのない音楽に対して、何故こんな反応になるのか。脳がパニックを起こしたみたいだった。
取り急ぎ、私はそのメロディを忘れないように、何回も繰り返しながら、トイレを出た。なんで涙が出たのか。
自分でもわからないが、その曲のある部分を聞いた時、私はとても甘い記憶に包まれ、未来は風船が目の前で膨らんでゆくように希望に満ち溢れていて、それでいて砂嵐の時のように曇っていた。
こんな曲、初めて聞いたのに。と私は思った。さっき駆け込んだこのショッピングセンターは、トイレがメインの目的で、今まで入ったことはなかった。
私はわけもわからず、実家の母に電話をした。
「ね、今から歌うメロディ聴いてて」
私はさっき必死で頭に入れたメロディを口ずさんだ。
すると、電話口で笑う声が聞こえた。
「あんた、魔女ばあさんのこと覚えてたんだね」
魔女ばあさんという響きに、さっきのメロディと同じようなものを感じた。
「魔女ばあさんって?」
「近所に住んでたおばあさん。あんたが赤ちゃんだった頃、ベビーカーにのせて、お母さんよく散歩してたのよ。そしたらさ、魔女ばあさんもよく同じ時間帯に犬の散歩してたから、いつも会うようになって、会ったら必ずベビーカーの横にしゃがんで、あんたに子守唄聴かせてくれてたんだよ」
「子守唄?」
「そう、さっきの歌」
それで懐かしかったのか。と私は合点がいった。
「どんな人だった?」
「いつも紺色の服ばっかり着て、魔女みたいだった」
私は魔女ばあさんを想像してみた。全身紺色の服。ベビーカーの横にしゃがんで、子守唄代わりにショッピングセンターのイメージソングを歌う老人。
怪しい。
よく母は、散歩の時間帯をずらすこともせず、毎日自分の娘をそんな怪しいおばあさんにさらしていたもんだ。
「こわ〜」
「だってすごい嬉しそうにあんたを見るんだもん。まるで自分の孫みたいだったよ。」
「そうなんだ。ぜんっぜん覚えてないな〜」
「もう、何年か前に亡くなったらしいけどね。」
「ふ〜ん。そうなんだぁ」
私は興味ないふりをしながら、また鼻の奥がツーンとするのを感じた。けれどそれは、魔女ばあさんが亡くなって悲しいからじゃなかった。魔女ばあさんがいた頃に住んでいた自分の世界が、今はもうなくなってしまったことに気づいてしまったからだった。
魔女ばあさんは、その世界の一部を担っていた。そして、魔女ばあさんが欠けてしまった世界は今、そこからボロボロと崩れ落ち、あの頃の当たり前は、もう当たり前じゃなくなっていた。
私は通話を切った。
店内放送では、お昼をお知らせするチャイムが鳴った。
私はショッピングセンターの真ん中に立ち、只今の時刻の日常に戻っていった。
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歌俚涙(かりるい)・・・知らない内に覚えていた記憶が漏れ出ること。
※注 このことばは造語です。実際にはこんなことばありませんので、ご注意ください。