オランダ語の呪縛から解放する
移民一世のNote - 日本に帰ると決めて私は強くなった3
「オランダ語ができない、はい全然」とごまかしなく言えるまでにアホみたいに20年かかった。20年あれば住んでいる地域の言語を習得するには十分な期間だと誰でもが思う。私もそう思う。しかしできないものはできない。
自分の身体的なハンディキャップを隠すことから自分を解放しよう。オランダ語ができないことを恥じたり、ごまかすことから卒業しよう。自分の能力と人生の優先順位にしたがったとき、オランダ語習得は無理でしたと、自分で認めよう。私はもうオランダ語の勉強はしない。オランダ語の会話を理解しようとすることもさっぱりやめた。そのため今まで苦しかったことをバッサリと切り捨てることができた。
約20年前、英語さえおぼつかない私はオランダに渡った。最初の数年は、生活費を稼ぐために少なくとも知識はある英語に集中するのは必須のサバイバル戦略だった。長男が4歳になり保育園から小学校(プリスクール)へ移るころになると、保育園や学校生活で言葉はどんどん増えていく。自分も子どもの成長に合わせてオランダ語を勉強しようと思うのは自然なことだった。その頃、オランダに住むEU加盟国以外の外国人は「社会統合コース」を受けることになっており、その中心はオランダ語の習得だった。
結果的にいうと、アムステルダムでの1年以上に渡るオランダ語学習は、私のトラウマ的な体験となってしまった。最終試験は先生も呆れるほどひどいものだった。幸い、試験をパスしなかったら居住許可の返上という政治的な抑圧が始まるのはその数年後なので、私は牢獄のような「社会統合コース」から脱出した。
トラウマ体験を乗り越えてもう一度オランダ語を勉強しようと思うまでに5年以上を要した。結果的には私はその後おびただしい時間をオランダ語学習に費やした。2008年にベルギーに来たときには、また「社会統合コース」があったので、義務プログラムを終えた後も2年以上通った。今回は自発的に始めたので一生懸命やった。そして全ての試験をかなりの好成績でパスした。しかし試験をパスすることと言語ができることは一致しない。言語は教室を出て使わなくてはどうしたって自分のものにはならない。
いつも言い訳を考えていた。どうして自分はオランダ語を日常生活で使わないのか。家ので第一言語はパートナー、子どもたちともにオランダ語なのだ。言語習得にはかなり最適な環境だと言える。
「どうして長く住んでいるのにオランダ語ができないの?」という悪意のない質問を、よく知らない人に聞かれてその度にいつもの言い訳をして深く傷ついた。「悪意のない」というのがタチが悪くて、聞いた方は別に本当に知りたいわけでもない。外国人という異物を前にしたとき、さしたる話題もなくその場しのぎで聞いてくる。幾度もの経験を経て、2019年くらいから私は「オランダ語ができない」カミングアウトをし始めた。私はこの質問に対処する2つの完璧な回答を準備した。「その質問に答えるのに最低でも30分はかかるけど、私の人生にそこまで興味ある?」と「難聴のハンディキャップを背負っているので言語習得の壁があるの」である。
後者は本当のことだ。小学校5年生のときにおたふく風邪をこじらせて突発性難聴になった。原因も治療も未だに不明なこの難病で、そのときから私の左耳はほぼ100%聞こえない。基本的には右耳だけの聴力に依存して生活している。私がオランダ語ができない理由は難聴と関係しているのではないか、と思いはじめた。なぜかというと私の一番の問題は何を言っているのか聞き取れないことだからだ。英語でもおそらく難聴をカバーするために聞くことに人一倍のエネルギーを使っているはずである。オランダ語は英語にはない数々の母音や発音が存在して、この新しい音が私の耳には聞き取れない。聞き取れないから発音ができない。
グループでの会話になるベルギー人だけの集まりや食事に参加しないことにに決めた。英語で話すのが億劫な人とは付き合わない。長年住んでいても現地語を話さない私を個性として認めてくれて、英語で心から笑える少数の友達がいればそれでいい。オランダ語からの呪縛から解かれた時期と、私が日本語で文章を書くようになった時期とはだいたい一致している。
2018年にパーソナルコーチを半年ほど受けたことがきっかけで、意識的に日本語で文章を書きはじめた。2020年12月、日本に帰ると決めてからは、オランダ語のことは全く考えなくなった。
私にとって日本語で発信することは、オランダ語の習得よりもずっと大事なことだとわかった。しかも私がやりたいことで得意なことなのだ。人生は言語ばかり勉強するほど長くないと割り切って私は自由になった。