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環境的公正(environmental justice) とは何か

2022年4月25日、杉並での本格的な活動のDAY1は「岸本さとこと共につくる、これからの杉並」という集会で始まった。それは、運命とも思える衝撃的な、25年ぶりの再会で始まったのだ。
 
25年前、大学を卒業した私は、温暖化防止京都会議(1997年)に向かって、大学生や若者の1年間の全国的な運動を行う中で、戸田清先生の著書「環境的公正を求めて―環境破壊の構造とエリート主義」(新曜社1994年)に出会う。今まで考えてきたこと、断片的に学んできたことが、先生の本の中で展開する体系的な理論や思考に助けられてつながっていく。震える気持ちで本を読み進め、勇気と確信が湧いてくる。当時の私たちは、ダメもとで戸田先生に連絡を取って、セミナーで講義をしてほしいとお願いした。名もない私たちのお願いに先生は長崎から快く来てくださった。セミナーの受付に、ひょいひょいと現れた、まったく教授っぽい威厳もえらそうさもないおじさんが「戸田です」と名乗った時は仰天した。「環境的公正を求めて」は私のバイブルとなり、その後から今に至る25年間の人生や運動の思想的な支柱となった。

「環境的公正を求めて―環境破壊の構造とエリート主義」(新曜社1994年)

25年を経て、今日の集会が始まる直前、25年前と同じ様子で、戸田さんはぴらぴらの名刺を差し出して「戸田です」と現れたのだから、私の仰天は尋常ではなかった。今まで考えていたスピーチの構成が一気に吹っ飛んだ。 集会終了後、「先生、私のこと覚えていてくれたんですか?」と聞くと「もちろんですよ。」 うれしすぎる。以下は私が現在執筆している本の一部から拾い上げた。

大学の卒業が近いころ、環境的レイシズムという概念と出会い、衝撃を受けた。当時、私が活動の拠点としていた若者の環境NGOアシードジャパンは、もともと国際的なネットワークから生まれたもので、アメリカの学生環境運動ー全米学生環境行動連合(SEAC)と連携があった。SEACは学生の環境活動家にリーダーシップトレーニングというプログラムを提供しており、私たちアシードジャパンのメンバーもそのトレーニングに参加する機会が巡ってきた。そこで私が最初に学んだのが環境的レイシズムまたは環境的人種差別であった。

どういうことかというと、有毒廃棄物施設や軍事基地公害、化石燃料発掘や精製工場などの近くに貧困層のアフリカ系アメリカ人(黒人)やアメリカ先住民(インディアン)など人種的マイノリティ・社会的弱者が多い傾向が強く、土壌や大気汚染による喘息、アレルギーなどの呼吸器疾患、先天性異常、がんなどの健康被害が社会的弱者に集中しやすいということ。そしてそれは偶然ではないという考え方だ。経済力のある人種的マジョリティ・社会的強者は汚染が起これば郊外に引っ越したり、案を講じることができるが、教育機会も経済力も乏しい世帯は汚染の中で生き続けなくてはならない。SEACのトレーニングは「環境保護・保全」と「社会正義・公正」とを統合しようとする環境正義(environmental justice) をその価値の中心に据えていた。そしてどうしてこのような不正義が起こるのか、権力や差別について考え、議論する。私たちはこのような状況を変えていくために、大学やコミュニティーでどのようにリーダーシップを取れるのというトレーニングだった。
(1997年、温暖化防止京都会議COP3を前の日本で、私たちは)
若者によるCO2削減行動は「地球をかっこよく冷やそう」とCool EARTHキェンペーンと銘打って始めたが、一年間の議論や海外の活動家との交流ののちの到着点は「Climate Justice Nowー今、気候の正義を」であった。Climate Justice は20年以上たった今でも気候危機に取り組む運動体やコミュニティー組織をつなげる価値として生きている。どうして正義なのか。環境問題とはグローバルでありながら、すべての地域、人々、世代が等しく影響を受けるわけではないという考えに基づいている。また先進国の一人当たりの温暖化効果ガスの排出量は、大量消費型のライフスタイルのため多くの途上国と比べて桁違いだ。(人口1人あたりの二酸化炭素排出量アメリカ17.5トン,ベルギー9.9トン、日本9.2トン、パキスタン0.9トン) 車や飛行機に乗って長距離を移動するのもできるのも世界の人口でみれば限られた層である。

ところが洪水や台風などの被害が起これば、住宅環境、社会基盤の弱い国や地域での被害や失われる命は甚大だ。化石燃料や鉱山資源発掘の現場は、極度に汚染されておりその周辺に住むのは貧しい住民や先住民であることも偶然ではない。最終的には現代世代が謳歌した便利さと自由の結実として起こる気候危機のつけをもろに受けるのは次の世代である。つまり、問題を作る人とその被害を受ける人が一致しているわけではない。グレダは「自分たちが自己決定できたわけではないのに、計り知れないリスクを背負わされてこれから何十年も生きていかなくてはいけない」と怒りに震える。そして大人も政治も科学者の警告を無視して放置してきた。COP3から22年も経ってしまった今、私も大人の一人としてその責を負っていると強く思っている。

アメリカの例を待たずとも、日本には米軍基地の70%を押し付けられて、環境破壊、騒音被害、暴力にさらされる沖縄がある。しかし当時の私は、近くの国内の環境的不公正に気が付くことなく、沖縄は平和運動、別の人たちがやっていると思っていた。日本にも有害廃棄物処理場をどこに建設するかという問題もあるし、何といっても原発がたくさんある。都市での電力需要を賄うために、地方の人がリスク無限の原発を引き受けている。原発も基地も不公正のレンズで見ればしっかりとつながっている。不公正のレンズで見始めたら、気候変動問題もわかりやすい。現在の世代が自分たちの便利や欲求を求めて、際限なくエネルギーを使い、廃棄物を出し続ける。私たちは次や次の次の世代の資源も使ってしまっている。これから生まれてくる子どもたちは、生れながらに汚染された大気や海を引き受け、資源をめぐって競争しなくてはならないかもしれない。

(約20年の月日を経て、気候変動が国際政治から意図的に忘れられ、放置された20年であったが)
2018年、フランスのマクロン政権が気候変動対策としてガソリンとディーゼルにかかる燃料税を引き上げようとした。温室効果ガスの排出を減らすために、環境負荷の高いものに課税することは理解できる。が、政権はこの社会的な影響を考えていなかった。燃料費が生活を直撃するトラック運転手や労働者階級は怒り、安全のために車の中に常備しなければいけない黄色いベストを着て大規模な抗議行動を起こした 。一方でマクロン政権は富裕層や大企業の減税を進めてきた。生活が苦しい層を直撃する環境政策は、「公正な低炭素化社会への移行(ジャスト・トランジション)」ではない。

(このような背景の中、energy democracyという考えが運動から生まれて成長していく)
エネルギーの民主化はいくつかの原則から出発する。まず大原則は化石燃料をもうこれ以上掘り出さない。最終的には100%の電力が地域で生産される再生資源エネルギーになることを目指す。生活に必要な電力はすべての人に保障されなくてはならない(ユニバーサルアクセス)。電気料金が払えない電力貧困を解決し、化石燃料の採掘で汚染された土地を回復させる。電力供給は女性、有色人種や先住民、少数派のコミュニティー、低所得世帯、障害者、LGBTQIコミュニティーといった社会の中で不利になりやすい人々を特に意識しなくてはならない。大企業が独占する電力システムから公的セクター(国や自治体)が市民やコミュニティーと協力して民主的に統治するシステムに移行する。民主的な統治のためには、市民と労働者が政策や運営に参画する仕組みが必要である。化石燃料産業の労働者が再生可能エネルギーセクターへ移行できるトレーニングと仕組み、再生可能エネルギーセクターで労働組合の結成を促し、公正な賃金の新しい雇用を創造する、という具合だ。

つまりは エネルギーの民主化の中心的な価値は気候変動や環境、大気汚染を食い止めるために脱炭素化社会に移行することだけを目指すだけでなく、現存する不平等や格差、人種差別といった社会的問題を改善する新しい社会経済システムを構築することにある。気候変動やエネルギー問題を技術革新で克服することができるという論調が産業界を中心に根強いが、エネルギーの民主化はそれに真っ向から対峙する。どうしてこんなに長々とこのことについて書いたかと言うと、(私が働く)TNIの小さなプロジェクトの話をしているのではなく、このような議論が世界各地で起こり始めていたからだ。そして国や地域によって多様性はもちろんあるが、共通の原則的な価値や方向性として energy democracyという言葉が使われ始めたのだ。

気候正義(climate justice)の精神を強化するエネルギーの民主化(energy democracy)は、地域や運動の中で議論され成長し、実践されていった。のちに、2019年あたりからグリーンディール(公的資金の大規模な出動で気候変動を回避する政策)がアメリカ、欧州などで大きくなることになる。気候正義運動発のグリーンディール提案が、社会的な格差、差別、所有関係を問うているのは、その前から積み上げられた草の根の議論を反映しているからだ。私が20代に出会った環境的正義(公正)がようやく自分の仕事の中で形になり始めた。」

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