きっと見守られている
10年前のちょうど今頃、カリフォルニアの北にある聖山、シャスタのふもとで2ヶ月以上の時間を過ごした。
前夫が亡くなった翌年であった。
死にたいとは思っていなかったけれど、生きることに前向きな希望を見出せなかった私は、夫が亡くなってからの一年、旅ばかりしていた。
シャスタはその一連の旅の、締めであった。
もちろん、それは今振り返ってそう整理しているだけのことで、その時はわかっていないのだが。
私が滞在したのは、今もある日本人女性が経営する宿、Stoney Brook Innだ。
この宿とこの宿の女主人は、日本のスピリチュアル好きの人たちの間では有名で、でもそれゆえに私はちょっと警戒もしていた。
いきなり「龍神様が降りてきました。こうしなさいと言っています」とか言われたらどうしよう。
誤解を避けるためにちゃんと書くと、私は龍神様を信じていなくはないし、チャネリングはかなり積極的に信じている。
ただ、頼んでもいないのに勝手にチャネルして、「メッセージが降りてきた」として人に突然伝えるのは暴力と同じだとも思っている。
なのに、それをする人が当時は多くて、だからスピリチュアルに辟易していたのだ。
しかし、杞憂であった。
ストーニーブルックインの主人はそんな人では全くなかった。
彼女は、いろんなものを抱えてやってくるゲストが、必要なことに気づき、必要な癒しが起きるように見守り、そして、気づいて癒される過程の中でどんなにぐらぐらしても、倒れても、泣いても、叫んでも大丈夫だ、というふうにその場のエネルギーを力強くホールドしてくれる人であった。
それはまさにシャスタの山のように。
物心ついた時から関東平野にいた私は、海とも山ともさほど馴染みがなくて、山がどでんと常にそこにある景色にはとんでもない安心感があると知ったのはシャスタであった。
動かざること山の如し、じゃないけど、ここは動かない、変わらないから、迷ったらこの山を目指せばいい、みたいな気持ちになれる。
見上げればいつだってただどっしりと見守られている実感を得られる。
山が往々にして人間の信仰の対象になることが、感覚として腑に落ちたのもまさにシャスタに滞在していた時だった。
なんてダラダラとシャスタについて書き始めたが、実を言うと、ここ最近ずっとシャスタに行きたい、というか行かねばならない、という感覚が強くって、なのにいろんな理由をつけてしぶっている。
行くなら一人で行きたいのだけど、車の運転がなぁ。
でも、一人で行きたいなら、そこ頑張らなきゃいけないとこ。
次に出てくるのは、お金がなぁ。
でも、一度計算してみると、たいした出費じゃなくて、それで生活が困窮することはないのである。
シャスタが好きな人は、これを「(お山に)呼ばれている」と言う。
そう、私はシャスタに呼ばれている。
たぶん、この10年のお礼を言うために。
そして、この先の指針をもう少しクリアにするために。
思えば、10年前、シャスタに長く滞在したことが、私がアメリカ移住を考える大きな転機になったのだった。
ううむ…それでも今すぐに行くことを決めて予約を取るという行動には移せない私。
でも、お山はそんな私のこともあたたかく(そして我慢強く)見守っているはず(たぶん)。
そうだ。何をしてもしなくても優しく見守ってもらっているという感覚、私はそれを懐かしく思ってストーニーブルックインやシャスタに行きたくなっているのだ。
でも、同時に、ストーニーブルックインでなくても、シャスタにいなくても、今、私の選択一つで、世界は私を(そして誰のことも)見守っているという世界に居続けることができることも知っている。
たぶん次の10年はそこを頑張りたいんだ。
って何となく結論めいたものに辿り着いた気になっているけれど、実際には細胞全部でそれを感じる必要があって、だからシャスタに行きたいのかもしれない。
ああ、あとどのくらい悩んだら行くと決断して動くのか、私よ。
自分でも見ものです。
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