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出てきた涙は、流したほうがいい

この夏、1ヵ月の長期にわたり日本に帰国した。
その際、愛犬二匹は犬友だち一家に
預けていくことになったのだが、
さまざまな事情で出発前夜から
預けていくことになったおかげで
私たちは予期せず犬たちのいない静かな
一夜を過ごすことになった。

犬と暮らし始めて3年以上になるので
犬のいない夜はさぞかし寂しいだろうなぁと
予想はしていたが、実際には
寂しいという言葉では足りないくらいの
とんでもない喪失感に襲われて自分が驚いた。

私が2階に上がってもついてくる足音がない。
「静かにしなさい!」と叱る相手がいない。
「飲み水は足りているかな?」と気にする必要がない。
家中にあった生き物のあたたかい気配が足りない。
この「ない」「ない」「ない」が
いきなりたくさんやってきて
その一つ一つがいちいち寂しくて
感情の処理が追いつかなくなる感覚を
喪失感というのかもしれない。

よく匂いや音楽で記憶が蘇ることがあるけれど
今回の喪失感はまさにそれでもあった。

「いつもいた犬たちがいない」という状況に
身を置くことになって出てきた喪失感によって、
10年前に前夫が亡くなった直後に感じた
あの時の喪失感までが生々しく蘇ったのだ。
ああ、一緒に暮らしていた存在が
目の前からいなくなるってこういう感じだった、と。
そうだ、共に暮らしていた人を亡くすのは
こんなにつらいことであったのだ、と。

それで、涙が出てきてしまったのだが、
それは喪失感を思い出して悲しくなった
という涙ではなかった。
どちらかというと、そんなつらい体験を
よくぞ生き延びてきたと
今の自分が過去の自分をいたわるような涙だった。

死別に限らず喪失による悲嘆の感情(グリーフ)って
独特かつ複雑で、何年経っても泣ける時は泣けるんだと思う。
しかし、その涙の種類は時と共に変わりもするので
泣いたからって「いつまでも悲しんでいる」わけではない。
ここは意外と知られていないような気がする。

これまた死別に限らないんだけど
我々は、人が涙を流すと、励ましたり、
元気づけたり、気を紛らわそうとしたり、
涙を止める方向へと気遣いがちなことが多くないか。
でも、涙は必ずしも悲しみという感情だけに
伴って出てくると限らないし、
そもそも悲しむことは悪いことではない。

涙は何であれ、その他の方法では
処理できなかった排泄物だと私は思っている。
排泄物であるからには出てきたものは
止めることなく流したほうがよほど健康的なのだ、と。

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