すべてを肯定的に見てみると…
新月の日に、珍しく夫と激しく口論しました。
夫は超がつくほど優しい人。一方の私は私で、苛立った時は自分の中の何かが反応しているだけだと考えて自分に向かうタイプなので、相手に感情的に何かを言うということは滅多にしません。だから、こんなわかりやすい喧嘩になったのはおそらく出会って初めてじゃないかと思います。
で、まあ、喧嘩になった後、いつものように自分の内側に向かった私は、喧嘩の直前にあった夫の言動が、私のことを味方と思ってくれていないように受け取ってしまって寂しくて怒ったんだな、となって落ち着いたのですが、だからといって謝るのも癪というか、謝りたいという気持ちは出てこなかったので、放っておきました(笑)。
夫は週2日間は出勤していますが、それ以外はリモートワーク。今日は家にいる日なので、いつもだったらランチは一緒に取るところを、その時刻に彼がオンラインミーティング中だったのをいいことに、彼には声をかけないで一人でそそくさっと済ませるという、ちょっと意地悪なことさえしました(笑)。
しかしながら、我ながら脳みそがお花畑だなぁと笑えるのは、まあ、なんか、ここいらで喧嘩する必要があったんだろうなと思えていたことです。
すべてを肯定的に受け入れるというのはそういうことで、まあ、自分が自分に正直にあったために喧嘩が起きたのであれば、それが起こることがベストだったのだろう、と考えるわけです。
で、昔の私は、「でも、私がそう考えたいだけじゃ…」って疑念があったんですよ。
本当はそんな感情が噴出しないように自分をケアしておかなきゃいけなかったんじゃないか。
本当はもう自分の中で整理がついた段階で、謝るべきなんじゃないか。
なのに、「まあ、その必要があったんだ」って自分に都合よく考えたいだけなんじゃないか。
でも、今は、心から言えます。
私がそう考えたいだけ、でいいのだ。
だって、正解はないんですから。
私たちはよく「これでよかったのかしら」って考えてしまうのですが、考え方次第でどうとでもなる、いわゆる「唯一無二の正解はない」事案については、自分がよかったと思えば、それでよいのだ、という世界なんですよね。
そんなこんなで、自分の中ではとっくに解決していた喧嘩は、結局、夫が謝ってくれるまで引っ張り(笑)、しかし、夫が謝ってくれた時に、実は私も自分が味方と思われていないように感じて寂しかっただけだと思う、という気持ちを伝えられて一件落着となりました。
が、実を言うと、一件落着する前に、私は防水カメラを衝動買いしてしまったのです。
喧嘩していて冷静でない時に勢いで衝動買いするってどうなのよ、っていう話なのですが、でも、私は思ったんです。
衝動買いって言っても、前からどこかでいつもちょっと「欲しいな」って思っていたものなんだよな、と。
けれど、夫に相談すると(別に相談する必要もないのですが)、「本当に使うならいいけど、あなたの場合、買ったはいいけどそんなに使わないってことが多くない?」って言われて、「まあ、それは確かにそうだな」って思って抑えていたんです。
喧嘩して、ちょっと腹立ったから、「別に自分の稼いだお金で買うわけだし、彼の顔色を気にする必要ないじゃん」って思えて、ポチッとできたんですね。
何が言いたいかというと、なんでも肯定的に受け入れてみる私は、「なんならユニバースが私にこのカメラを買わせるために今日、喧嘩をするように私を動かしたのかもしれない」とまで本気で思ったわけです。
くどいけど、それが本当かどうかは、どうでもいいんですよ。
つくづく、人は自分の信じたい世界を生きているんだなって思います。
ただ、多くの場合、信じたい世界を意識的には選べていないから、まさか今体験していることは自分が信じている(だけの)世界なのだということに気づきにくいだけです。
でも、気づいたら、何を信じるかを自分で選べます。
そして、これは声を大にして言いたいのですが、自分が幸せに感じる価値基準を信じていいのです。
とりわけ、すでに起こったことに対しては、自分がどの価値基準で解釈したところで起きた出来事が変わることはないので、自分が幸せを感じる価値基準で解釈することが誰かを傷つけるということはないはずなんです。
もっと言えば、自分が幸せを感じる解釈をすることであなたが穏やかな状態になれば、それは相手や周囲の人に波及していくはずなのです。
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