見出し画像

これも自分、あれも自分、たぶん自分、きっと自分。

わたしは常々、自分の感覚を大事に、ってことを自分にもやっているし、人にも伝えているんだけど、自分の感覚を大事にするって、いろんな意味で簡単じゃないというか、頭がいるってことがやればやるほどわかってくる。

先週末、わたしはめちゃくちゃ疲れていた。そして、胃もたれもしていた。

疲れていて、胃もたれもしているところに、1ヶ月前から入っていた会食の約束があった。

ぶっちゃけ、行きたくないなぁって思った。

自分の感覚に正直になるなら、「行きたくないなぁ」に従うことになる。

幸せなことに、会食の相手は、そういうのにめちゃくちゃ寛大であることはわかっていた。

だから、「行きたくないから行かない」といっても相手は怒らないし、たぶんがっかりもしない。

でも、わたしは粘った。

自分の感覚とやらをもうちょっと感じてみた。

どこかに「行ったら気分が変わって元気になるかもなぁ」という気持ちもあったからだ。

スパンと決められたらよかったのだけど、その前の会食では疲れを押して出かけてわたしだけが食当たりになるという難儀にあったので、決めかねた。

行っても行かなくても自分が決めたことだとは思えるのだけど、自分が決めたことによってあんな苦しい思いはそう何度もしたくない。

さあ、行くか、行かぬか、どうするか?

わたしは、IHプラクティショナーの秘技(というのは大袈裟か)、筋肉反射テストを使うことにした。

自分の潜在意識に聞いてみることにしたのだ。

すると、「行く」という。

本当か。

で、行ってみたら、当初の心配はどこへやら。

わたしはめちゃくちゃ楽しく食べて喋って、何なら疲れさえ吹き飛んで帰宅したのであった。

「行きたくない」という感覚に従わなくてよかった。


自分の感覚を大事にすることは、すごく大事なんだけど、自分の感覚って何個もあるというか、何層にもあるっていうことを知っておくのはこれまた大事だと思う。一つの文の中に大事が3つ入るほど大事だ。

それについては、自分のサイトの方のブログ(こちら)でも書いたので、読んでもらえたら嬉しいです(ご興味あれば!)。


最近つくづく正解はないって思う。

自分の感覚を信じるっていうのが大事なんだけど、自分の感覚には何層もあるってことを考えると、自分の感覚を疑った方がより深い自分の感覚に気づけるとも言えて、そうなると自分を信じろじゃなくて自分を疑えっていうアプローチをした方がいい場合もあるし、逆もまた然り。

安心安全なところにいれなくてつらい人は、まず安心安全を感じる環境に身を置いて自分を守ることが最優先だけど、安心安全の中にいるのに踏み出せないために停滞しているなら安心安全から思いきって飛び出すことが必要だと思うから、心地よいことを大事にしよう、というのも一理あるし、心地よいところから飛び出そう、というのもまた一理あるのだ。

それでいうと、情報を発信する側はもちろんなのだけど、受け取る側も今の自分に有益な情報と、今はちょっと有益じゃない情報、両方があるということを意識しておけるといいだろうね。

ただ、その時に、その情報が今の自分には役立たないからといって、その情報そのものの価値がないということでもなくて、今の自分の状況には役立たないというだけ、つまり万人に役立たないわけじゃないってことは忘れないようにしたいところだ。

なんて、そんなことを考え出すと、書くことで何かを人に伝えるってわたしには難しいって思い始めて、自分にできるとしたら生き様をさらすことなんだろうなって思いを強くしている今日この頃。

人様に参考にしていただけるような生き様かっていうと小さくなっちゃうけど、参考になる部分もあれば、そうでもない部分もあっていいし、そもそも生き方の質というより数に多く触れることがいいんだろうと思っている。

そういう意味でもnoteは楽しい。いろんな皆さんのいろんな生き方を見せてもらえて。

いつもありがとう、です。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?