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枠組みを変えて見てみたら

学生時代、自分は国語が好きだと思っていた。

でも、今になって振り返ると、
私が好きだったのは
国語という「科目」ではなくて
国語の授業で行う機会が多かった
「あること」だったのだと思う。

そのことに気がついたのは実は最近だ。
アダルトスクールの英語クラスで
英語の文学を読み、
「ここにこのメタファーを使った
作者の意図はなんだろうか?」
というようなことをケンケンガクガクと
ディスカッションをする機会が多く、
その度に私は、「ああ…
自分はこういうことが好きだなぁ」
と感じているのだ。

これについて「科目」という
枠組みで考えると
私は国語も好きだし、英語も好きだ、
となるのだろうけれど、
科目で分けるという枠組みを
取っ払って見てみると
私が好きと感じているのは
共通する「あること」だとわかる。

「あること」というのは、
作者の意図などという
本当にあるんだかないんだか
よくわからないぼんやりとしたものごとに
思考を巡らせること。

そして、おそらく正解はわからないし
そもそも正解はないだろう何かについて
そのことを承知した上で
自分なりに腑に落ちる
何らかの納得解を見出すこと。

ああ、私が好きなのはそこなのだ。

もっと若い頃に気づいていたら、
進路を考える時の選択肢は
「英文科か?国文科か?」というような
二者択一にはならなかったかもしれない。
哲学とか、人類学、社会学、
何なら自然科学などまで
視野に入ってきかたもしれない。

ありがたいことに私は今の自分に
すこぶる満足はしている。
だから、後悔したり憤ったりはしていない。
ただ、「科目」で分けるという以外の
物事の見方、分け方があるという
その発想法については
若いうちに学んでいたかったなぁとは思う。

逆の言い方をすると
「普通」に暮らして「普通」に教育を受けてくると
知らないうちに特定の物事の見方を
それが「普通」だと捉えるようになる
ということが「普通」に起こってしまうってことだ。

私はそれが良いか悪いか
是非を問うことにはあまり興味がなくて、
ただ、社会はそういう仕組みだと気づくこと
その上でよりよくあるためには
どうしていくのがいいかを考えること
そっちにとっても興味がある。

ああ、私が好きなのはそこなのだ。

ここまで書いて、私はまた気づいた。
私が好きなのはそもそも
「私が好きなのはそこだったんだ!」
と気づくことなんじゃないか?

それって、要は自分の価値観を知るということ、
つまりは自分を知るってこと。

ああ、私の興味の対象は自分というだけでした。

ちょっと拍子抜けしちゃったけど、
興味の対象が自分であれば
一生飽きることなく楽しそうだな
という気もしている。

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