語った人の存在そのものを重視する聞き書き
昨日の午後は、北九州市民カレッジ「新・平和学習のあり方を考えるⅡ」の初回。
コーディネーターは、聞き書きボランティア「平野塾」の渡辺いづみさん。
市民センターの館長でもあり、私も色々とお世話になっている方。
初回の講師は、平和のまちミュージアムの重信幸彦館長と、戦争体験語り部の杉野慧子さん。
「聞き書きで証言をのこす活動とは~民俗学的視点から学ぶトークセッション」というテーマで、杉野のさんの戦争体験談、重信館長の聞き書きについてのお話、3人でのトークセッションという3部構成。
重信館長の聞き書きについてのお話がとても興味深かった。
平野塾の聞き書きは、自分たちの足元の戦争を掘り起こしていく実践で、歴史と記憶を発掘し、語り継いでいくもので、その手法は民俗学など研究者のやり方とは違い、そこに可能性があるとのこと。
研究者の聞き書きは録音が前提で、それは事実の根拠として資料のベースを確保するものであり、語り手の存在は早い段階でなくなってしまう。
重信館長も40年来そうしたやり方をしてきたけれど、これは自分自身が聞いているのか、録音機が聞いているのかという疑問も感じてきたんだとか。
平野塾の聞き書きは、三浦清一郎先生の講座での学びからスタートしていて、その手法は録音を前提にしていない。
1人の語り手に対し、2~3人の聞き手がいて、記録したものを1人が中心になってまとめ、語り手にそれを確認してもらい、話し合いながらつくっていく。
語り手と聞き手が語り合いながら、共に生み出し、お互いを知っていくという、対話のプロセスよる共同作業でつくられていくもので、語り手が長い間介在し続けることになり、深い聞き書きになっている、ということだった。
これは、何を事実として伝えるかという根本の問題でもあるとのこと。
戦争を体験していない人が何をどう伝えるかという時に、体験者が語ったことをそのまま伝える方法と、体験者に向き合って自分がどう捉えたかを含めて伝えていくという方法があり、平野塾の聞き書きは後者になる。
前者は語られたことが重視されるのに対し、後者は語った人の存在そのものを重視している、というお話だった。
研究者の視点から見ると、聞き書きもこんなふうに深掘りされるのかと興味深かった。