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分かちあう力が備わっている

今日は、東京大学大学院教授の牧野篤先生を講師に、市の職員講演会があった。
実は午前中にあった会議でも1時間ほど牧野先生のお話を聞いているので、本日2回目。

ちなみに昨年の夏にも市民センター館長研修の講師をしていて、その前には久留米であった公民館実践交流会でも講話をされていたので、今年度は牧野先生のお話を聞く機会がたくさん。

今日のテーマは、「『よきこと』をつなげる、『よき存在』になる~ちいさなしあわせを重ねあう社会へ~」というもの。

まず、ウェルビーイングについてのお話から。
ウェルビーイングは、1人1人が幸せを感じられるような状態にあることと言われているけれど、個人が幸せになっていくことなのか。
1人1人がウェルビーイングであることは望ましいけれど、それは自ら努力して獲得していくもの。
努力しても幸せになれない人もいるし、幸せになりたいと思わない人もいる。

幸せになっている人も、1人の努力だけで幸せになったわけではない。
そうなれる環境や条件があったからこそ幸せになっている。
幸せになれる社会、環境を整えていくこと、ウェルビーイングであろうと思える社会にしていくことが大切。

次に、コンパッションについて。
Compassionは、共感。
悲しみや苦しみ(Passion)を分かちあう(Com)こと。
悲しみを分かちあい、相手の身になって考えることは、社会性の基盤になる感情で、人間はその力を本来的に持っていることを認識しておくことが大切。

ウェルビーイングは、コンパッションが基本になって、「よき存在」となること。
社会の中に生きていれば、自然と相手を思い、心配する気持ちが湧き、良いことをしようと考えるようになる。
自分が「よきこと」をする存在になっていくことで、ウェルビーイングになっていく。
そうなっていないのであれば、なぜなのかを問わなければいけない。

コロナ禍において、分断や孤立という側面ばかりがクローズアップされがちだけれど、人間が本来持っているコンパッションという面を、しっかりと見ておくことが必要。

というお話だった。

お互いを思いやったり、支え合ったり、助け合ったり。
そういう関係性がより良い社会をつくっていくし、そういう社会であるからこそ、自分もまた幸せになっていく。
そんな循環なんだろうと思う。

日蓮の言葉に、
「汝、すべからく一身の安堵を思わば、まず四表の静謐を禱るべきものか」
という言葉がある。

周囲の平穏、世界の平和があってこそ、自分自身の安堵もある。
自分自身が「よきこと」をして、「よき存在」になっていくことが、平穏な社会、平和な世界をつくっていくことにつながるんだろうと思った。

つづく。

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