路傍に咲く花(18)
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午前三時だというのに、万里子が運転する車は、長い渋滞のただ中にいた。夏休みの帰省ラッシュを避けようと、昨夜の午後十一時に調布で篠原をピックアップし、そのまま首都高から東北自動車道に入ったのだが、それが徒になった。ハイウエーラジオの情報によれば、鹿沼インターの手前で大型トレーラーと乗用車の接触事故があり、二車線が規制されているとのことであった。
「もう仕方ないわね、事故じゃ」
万里子はため息と共に、ハンドルをたたいた。
「気長に行くしかないですよね。渋滞の先頭まであと五キロくらいですから、このスピードで進めば、三十分くらいで抜けられるんじゃないですか?」
篠原は道路脇に置かれた、起点からの距離を示す表示を見ながら、渋滞を抜ける時間を計算していた。
「まあ、そんなところかしら」
「焦っても仕方ないので、のんびり行きましょう、先輩」
篠原は缶コーヒーをぐいと飲むと、運転席の万里子に、ミントガムを差し出した。
「ありがとう」
万里子は、ガムを口に入れると、
「無理につき合わせたみたいで、もうしわけないと思っているのよ」
「べつに、これといって予定は無かったので、そんなもうしわけないなんて……。夏休みが取れたら、ふらっとバイクでツーリングしようかな、なんて考えていたくらいですから」
「そうなの、それならいいんだけど……。篠原だって彼女くらい、いるんでしょ?」
万里子は、われながら、スムーズにはなしが流れたと思った。じつは、いちばん聞きたいことなのだ。
篠原は少し考えると、
「去年の秋まで、つき合っていた女はいましたが、今はいません」
きっぱりと言った。
篠原には、学生時代から六年間つき合った女がいた。夏にはよく二人でバイクツーリングに出かけた。篠原が無理矢理バイクの免許を取らせたのだが、いざツーリングを始めると、篠原以上にのめり込み、彼女から誘いがかかることも珍しくなくなった。篠原も共通の趣味をもつ彼女の存在に満足し、充実した日々を実感していた。
ところが、篠原が就職すると、ツーリングへ行く回数が減り、彼女は、単独行動をとることが多くなった。そして、旅先で知り合ったライダーと仲良くなり、篠原のもとを離れていった。
「そうだったの、知らなかったわ」
万里子は、つい最近まで篠原に彼女がいたことが、意外だった。仕事中は、恋人の存在を示す言動はなかったし、アフターファイブの飲み会にも、積極的に参加していたからだ。だから、知りあっていらいずっと、彼女はいないと思っていた。
「立ち入ったこと訊くけど、篠原は彼女とナンで別れたの?」
相変わらず不躾な質問だが、篠原は嫌な顔をせず、
「すれ違いが原因だったと思います」
とだけ言った。
その言い方が妙に素っ気なかったので、万里子はそれ以上突っ込むことができなかった。
「そうなの、ゴメンね。ヘンなこと訊いて」
万里子が言うと、篠原は、
「いいんです、もう半年以上も前のことですから」
語尾がくもった。
☆ ☆ ☆
万里子の愛車「アウディA4」がようやく渋滞を抜けたのは、午前四時を少し過ぎたころだった。すでに東の空が薄明るく光り、また暑い一日が始まることを告げていた。
「帰省渋滞を避けたつもりだったけど、結局はまっちゃったわね」
万里子が言うと、
「仕方ないですね、こればかりは予測できませんから」
と、篠原。
渋滞を抜けた車は、ようやく順調に走りだした。万里子は、遅れを取り戻すように一気に郡山まで走ると、サービスエリアで少し早い朝食をとることにした。予定では、仙台あたりを走っているはずだった。
レストランに入ると、万里子は睡魔に襲われた。一睡もしていないうえに、渋滞で体力も消耗したため、このまま目を閉じれば、深い眠りに入れそうであった。
「先輩、大丈夫ですか? そうとう眠そうにみえますが……」
篠原が心配すると、
「正直疲れたわ。あんな渋滞、予想していなかったものね」
「あとはぼくが代わりますので、先輩は寝ていってくださいよ。まだ先は長いですからね」
篠原も寝ていなかった。ただ、ハンドルを握っていなかったぶん、体力だけでなく、精神的にも余裕があった。
「ところで先輩、マスターの方の所在は、分かったんですか?」
篠原が訊くと、
「それがね、分からないのよね。原田さんの方は連絡が取れたんだけれど……」
「そうなんですか。マスターの故郷は確か和歌山県の|雑賀崎《さいかざき
》ですよね。ぼくもインターネットで調べてみたのですが、そんなに広い地域でもなさそうなので、もし帰っていれば、探し出すことは可能だと思うのですが……」
篠原は心配そうな顔をした。
「そうね……、私もそう思うんだけど……」
「ただ、マスターが光本孝次郎でないとすると、いったい誰を捜したらいいのか? とりあえず猪狩伸二と光本孝次郎という名前が分かっているので、これを手がかりにするしかないと思いますが」
「たぶん、家族か誰かがいると思うんだけれど……」
万里子も、気がかりであった。
せっかく和歌山まで行っても、雑賀崎という故郷そのものが作りばなしだとすれば、なにも得られないまま帰る可能性だってあるのだ。念のため持参したマスターの写真も、役に立つかわからない。
万里子はバッグから写真を取りだした。マスターが満面の笑みで歯をみせ、その横に真っ赤な顔をした篠原と山元が寄りそっていた。無邪気に笑うマスターの写真を見ていると、人を騙したり嘘を言うようには見えない。
「去年のクリスマスパーティは本当に楽しかったですよ」
篠原が、思い出すように言うと、
「もっと早くリトリートを紹介してくれれば、私もいっしょに楽しめたのにね」
万里子は、少し拗ねた言い方をした。
「すいません、先輩。そうですよね、もう少し早く紹介できれば良かったですね。言い訳じゃないですが、先輩、あまりジャズなんか聴かないのかなと思って、勝手に遠慮していました」
「そうね、確かにジャズには興味ないわね。そう考えると、もし紹介されても常連にはなれなかったかもね」
万里子は、妙な納得をした。
「それで、原田さんとは、どのように会うことにしたんですか?」
「とりあえず弘前あたりで連絡を入れることにしたの。八月十二日の夜東京を出発するので、十三日の午後一時ごろには弘前に着けると言ってあるんだけれど、間に合いそうもないわね」
万里子は時計を見た。時間は午前六時三十五分、午後一時までは、六時間二十五分しかなかった。
「そうですね、飛ばせばナンとかなるかも知れませんが、ここは安全運転で行った方がいいと思いますね。まだまだ先は長いですからね」
篠原は、青森を往復し、さらに和歌山まで行くことを考え、慎重に言った。
「そうね、いちおう原田さんには、食事が終わったら連絡を入れておくわ」
☆ ☆ ☆
郡山からは、篠原がハンドルを握った。サービスエリアを出ると、すぐに目を閉じた万里子が、小さな寝息をたてはじめた。
篠原は、相当疲れていたのだろうと思った。大河原部長の存在が、会社での日々に無言のプレッシャーとなっていることは、誰の目からみても明白だった。露骨に責めるわけではないが、万里子が手がけた仕事を、ほかの男子社員に引き継がせたり、当然万里子に振られるであろう仕事が、別の女子社員に回されたり、明らかに何らかの意図が感じられた。
昼休みに、いつものイタリアンレストランで食事をしているとき、見かねた篠原が憤慨すると、「そんなこと気にしていないから」と気丈にふるまう万里子だったが、本当は深く傷ついていたに違いない。いま助手席で寝息を立てている三十三才の女を、篠原は愛おしく思った。
車は順調に北上し、午前十一時には盛岡あたりを通過した。
長い距離を移動していると、天気の変化がめまぐるしい。仙台で雲が多くなったと思ったら、北上あたりで小雨が降りだし、盛岡につくころには、本格的な雨になっていた。フロントガラスをたたく雨が視界を遮り、ワイパーを一番早い速度に切りかえた。
「ゴメン、熟睡しちゃったみたいね」
万里子は目をさますと、
「すごい雨になっちゃったわね。さっきまで晴れていたのに。何処、ここは?」
「盛岡あたりです。少し休んでいきますか?」
「そうね、そうしようかしら」
万里子は、倒したシートバックを元の位置にもどすと、小さく伸びをした。郡山からずっと寝続けていたので、少し腰がいたかった。
盛岡でドライバーチェンジを行うと、今度は篠原が寝る番である。昨夜から一睡もしていなかったので、篠原もあっという間に熟睡体勢に入り、イビキをかきはじめた。無理矢理つき合わせた格好になったが、そのことに何も言わず、黙って心配してくれる篠原に、万里子は深い感謝と共に、愛情に近い気持ちがあることを認識した。
「ありがとう、篠原」
と、呟いてみた。が、助手席の男は口を半開きにして、大きなイビキをかいているだけだった。
☆ ☆ ☆
サービスエリアで昼食や休憩をとったため、大鰐弘前インターチェンジを降りたのは、午後三時を少し過ぎていた。雨はすっかり上がり、雲の切れ間から青空ものぞきだしていた。
万里子は料金所の出口で車を止めると、原田に電話をかけた。郡山のサービスエリアで電話したとき、青森までの到着時間がはっきりせず、東北自走車道路を降りたところで、再度電話すると約束していたのだ。
原田はすぐに電話にでた。二人が大鰐弘前インターにいると伝えると、森田村まではどんなに急いでも二時間くらいかかるので、会うのは明日にして欲しいと原田は言った。親子水入らずの帰省に水を差すわけにはいかない。ちょうど夕飯の時間であり、訪問するにはタイミングが悪いと思った。
「分かりました、では明日と言うことで……」
万里子は、電話を切ると、
「ということで、今夜はどこかこの辺で一泊しましょう」
と、言った。
もともと宿など予約していない旅である。どこか適当な宿を探すつもりだったので、予定通りといえば、その通りである。夏休みシーズンで宿が取れないことも考え、念のためキャンプ道具も持参していた。
「原田さんが言うには、近くの大鰐温泉は、いいお湯だそうよ」
万里子が言うと、
「温泉ですか、いいですね。先輩もだいぶ疲れているようなので、ここは奮発して温泉といきましょうか」
と、篠原も同意した。
万里子は車を大鰐温泉まで走らせると、カーナビゲーションに登録されている旅館組合に電話を掛けた。最近のカーナビは本当に便利だ。観光に関するほとんどの情報がデータベースとして登録されているので、ガイドブックがなくても、楽しい観光旅行が可能である。
旅館組合の担当者は、いくつかの質問をしたあとに、推奨する旅館名をいくつか告げた。どれも、こぢんまりとした旅館とのことで、万里子は、最初に聞いた旅館を予約してもらった。
・・・つづく
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