路傍に咲く花(22)
5
翌朝、午前五時。
篠原は、鳥の鳴き声で目を覚ました。隣の運転席では、万里子が寝息をたて、まだ夢の中にいた。篠原は、万里子を起こさないように、静かにドアを開けると、爽やかな空気の中、トイレに向かい歩きだした。
万里子と行動をした三日間は、久しぶりの充実感を味わった。おなじ繰り返しで新鮮味に欠ける毎日が、いかに生活をつまらないものにしてたか、体験学習のようにこころに落ちていった。
毎日がドキドキするような日々だったら、どんなに楽しいだろう。現実は楽しいことばかりじゃないが、だからといって、生活の糧を得るためだけに生活するのも、本末転倒のように思う。
それにしても、万里子のパワーは凄い。三十三才になっても、新しい自分を探したいと意欲を見せるなんて……。今まで自分の周りには、そんな人間はいなかった。なにかで読んだが、若さとは実際の年齢ではなく、なにかに挑戦しようとする意欲だそうだ。いま万里子を見ていると、実感としてそれが伝わってくる。
篠原は、万里子との旅を通じて、自分の内面が変わっていくのを感じていた。そして、山並みの向こうにかくれている太陽を見つめた。
「なにしてるの篠原、こんなところで」
突然万里子に声をかけられ、驚いた。
「あっ先輩、朝が清々しいかったもので……」
「そうなの、なんだか難しい顔してたわよ」
「そんなことありませんよ」
「それより、出発しましょう。とにかく今日の午後には、和歌山に到着したいから」
万里子に急かされ、小矢部サービスエリアを後にしたのは、午前五時二十五分であった。
☆ ☆ ☆
車は順調に距離をかせぎ、お昼には米原ジャンクションを経由し、名神高速道路にはいった。
しばらく車は順調に走行していたが、大阪市内に近づくころから、次第に車の量が増え、吹田インターの手前あたりで、渋滞の列にはまってしまった。カーナビの表示を見ると、約八キロ連なる渋滞で、予想通過時間は一時間と表示されていた。
「しかたないわね、渋滞じゃ」
ハンドルを握る万里子は、目の下に疲れのサインをだしていた。
昨夜はサービスエリアでの仮眠で、風呂も入っていなければ化粧もしていない。髪は後ろで無造作にたばねただけで、いつも颯爽とスーツ姿で現れる木内万里子とは、まったく別人の様相であった。
「先輩、少し休んでいきましょう」
篠原は万里子を気遣った。
「分かった。次のサービスエリアで休憩して、ドライバーチェンジしましょう」
ところが、こんな時に限ってサービスエリアが現れない。しかたなく万里子は、車を路肩に止め、運転を篠原に代わってもらった。そしてようやく渋滞を抜け、吹田ジャンクションから近畿道に入ったのは、午後三時を少し過ぎていた。
「予定では、和歌山に着いているころですね」
と、篠原。
「しかたないわ、とにかく先を急ぎましょう」
と、万里子。
車は近畿道から阪和道に入り、目的地の和歌山までは、あと少しの地点まできた。遠くに、関西国際空港へ通じる橋が見え始めたころ、それまで快晴だった空が、突然黒い雲におおわれた。
「夕立でもありそうな雲行きですね」
篠原が言うと、
「こう暑いと、夕立でもきて欲しいわね。今日も大阪は三八度を超えたみたいだから、和歌山もきっと暑いんでしょうね」
二人にとって、和歌山は初めての地であった。どちらも関西方面には親戚もなく、旅行で来るにはあまりにも遠いため、和歌山という土地になんの実感もない。
やがて市の象徴でもある紀ノ川をわたると、和歌山インターが見えてきた。新潟から約七百キロの長旅であったが、ようやくこの日の終点をみた二人は、
「やっと着いたわね」
「そうですね、長かったですね」
和歌山に着いた実感よりも、約十二時間という運転を続けた時間に、感慨深いものを感じていた。
時計の針は、午後五時を指していた。
「さて、このあと、どうしますか?」
阪和道を降り、和歌山市内の赤信号で停車したとき、篠原が訊いた。
「とりあえず雑賀崎まで行きましょう。マスターを捜すのは明日としても、とりあえず雑賀崎までは行っておきたいわ」
万里子が応えると、
「今夜の宿も考えないといけませんよね」
「確か雑賀崎に旅館が何軒かあるはずなので、泊まれるか判らないけど行ってみましょう」
☆ ☆ ☆
雑賀崎は、和歌山市内から目と鼻の先、若浦湾をのぞむ小さな港町である。三方を山に囲まれた天然の要塞は、戦国時代に多くの逸話を残す雑賀衆が暮らした、地域の一つである。
猫の額ほどの狭い港を小高い山が囲み、人々は急な斜面にへばりつくような家で生活をしていた。道は細く入りくんでおり、車はおろか自転車の往来もむずかしい場所もある。迷路のような道は、よそ者を排除するかのように、混沌としていた。
「雑賀崎と言えば、司馬遼太郎の小説で読んだ、雑賀孫市とゆかりがあるんですよね」
篠原が、思い出したように言った。
「雑賀孫市って? わたし弱いのよね、歴史小説とかあまり読まないから」
「たぶん、あの雑賀孫市だと思うんですが、信長の石山本願寺焼き討ちのとき、ナントカ上人をかくまったのが雑賀孫市で、その地がこの辺りだったような……」
「そうなの……、でも信長の時代は京都が日本の中心だから、和歌山あたりにも歴史がたくさん残っているのよね」
万里子は、あまり歴史話は得意じゃないようで、雑賀孫市に興味を示さなかった。いまは古のはなしより、マスターをどうやって探すかと、今夜の宿をどうするかの方が、重要であった。
車はカーナビゲーションの指示にしたがい、雑賀崎まで目と鼻のさきまで近づいた。
「先輩、もうすぐ到着ですよ」
篠原が言うと、
「やっと到着ね。長かったわ」
万里子は、ほっとするようにため息をついた。
港へ通じるトンネルを抜けると、雑賀崎港が見えてきた。防波堤に守られるように、なん隻もの漁船が停泊していた。
篠原は港の近くに車を止めると、港でたたずむ老婆に話しかけた。
「おばあちゃん、こんばんは。ちょっと教えて欲しいことがあるんですが」
「はいはい、なんでしょうか?」
老婆は、やわらかい関西なまりで応えた。
「あのう……、このヘンに、猪狩さんか光本さんというお家はありますか?」
篠原は、老婆にも聞き取りやすいよう、ゆっくりと言葉を刻むように言った。
「ああ、猪狩さんなら、あそこの家やね」
老婆は、丘のうえに建つ、白壁の大きな家を指さした。
篠原と万里子が見あげると、
「猪狩さんの知り合いかいの?」
と、屈託のない笑顔で問いかえした。
「ええ。息子さんの伸二さんに、東京でたいへんお世話になりまして……」
万里子はとっさに嘘をついた。ただ、その嘘には、マスターが猪狩伸二じゃないかという、ぼんやりとした想像が脳裏にあった。
万里子の言葉に、老婆は驚いた顔をして、
「息子さんは東京にいるのかい」
目を少しだけ見ひらいた。
「はい。新宿という町にいます」
「そうかい、そうかい。あんなことがあったから、雑賀崎には帰りにくいかも知れんが、たまには顔をみせてやらんとな。あんたら、息子さんに会ったら、たまには帰ってこいと伝えてくだされ」
老婆はそう言うと、拝むように手を合わせた。
「はい、お会いしたら、かならずお伝えします。ところで、光本さんのお宅は、ご存じないでしょうか?」
万里子が言うと、
「ああ、光本さんやね。光本さんは、もう雑賀崎にはおらんのや」
「いらっしゃらないと言うと、どこかへお引っ越しされたということですか?」
「わしも詳しい事情はようわからんで……。猪狩さんなら、なんぞ知っていると思うがね」
老婆は、申し訳なさそうに目を伏せた。
「おばあさん、ありがとうございます。詳しいことは、猪狩さんのお宅で訊いてみます。本当にありがとうございます」
万里子は、「ありがとうございます」を二度言うと、
「篠原、猪狩さんの家に行きましょう」
と、港にとめた車に向かい、歩きだした。
・・・つづく
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