路傍に咲く花(26)
万里子と篠原が金宮早苗のマンションを後にしたのは、午後九時をすこし回っていた。早苗の生々しいはなしが脳内をぐるぐる回り、夕食をとってないことにも気づかなかったが、外に出て生温かい風にあたった途端、二人のお腹がぐうと鳴った。
二人が車に乗り込むと、篠原が、
「先輩、どうしましょうか?」
「そうね。今日はもう遅いから、和歌山市内に一泊して、明日の午前中に老人ホームを訪ねてみようと思うの。光本孝次郞さんのお母さまにも会って、いろいろ話しを聞いてみたいし」
「了解です。和歌山市内にはいくつかビジネスホテルもありますので、まずは泊まるところを確保して、それから食事をしませんか。もうお腹ぺこぺこです」
「あたしもよ。ぺこぺこ」
篠原は、カーナビで検索したビジネスホテルに電話をかけた。最初にかけたホテルは、ダブルルームしか空きがなかった。万里子はダブルでもいいと言ったが、篠原は別のホテルに電話をかけた。
「先輩、シングルルームを二部屋確保できました」
篠原が言うと、
「別にダブルでもよかったのに……」
万里子は、ちょっと甘えた声で言った。
「いやいや先輩、やっぱり間違いがあってはいけませんから……」
「あらっ。篠原は、間違えそうだから、シングルにしたの?」
「いや、そういうことじゃなくて……。まあ、一般論として……」
篠原がどぎまぎすると、
「まあいいわ。仕事も男女関係も、間違いは禁物だからね」
万里子は、ヘンな言いまわしで会話を収めた。
「とりあえず、美味しいもん食べに行こう」
「了解です」
☆ ☆ ☆
翌朝、おそい朝食をとった万里子と篠原は、午前十時にホテルをチェックアウトした。昨夜は和歌山市内の寿司店で、近海ものの美味しいにぎり寿司を堪能した。その後、ホテル近くの居酒屋で一時間ほど酒を呑み、ホテルに戻ったのは午前零時を回っていた。それでも、朝八時まで寝たので、久しぶりに熟睡した充実感が、万里子にも篠原にもあった。
二人は車に乗り込んだ。運転席の篠原が、老人ホーム「みかんの里」をカーナビにセットし、車を発進させた。距離はおよそ三キロメートル、到着予想時間は十時三十五分と表示されていた。
「案外ちかくだわね」
万里子は、腕に日焼け止めのクリームを塗りながら言った。
「そうですね。会ってくれるといいんですが、光本孝次郞さんのお母さん」
「大丈夫よ。昨日の夜のはなしだと、もう怨みはないみたいだから……」
万里子に確証はなかったが、根拠のないヘンな自信があった。
「たぶん大丈夫よ」
自分に言いきかせるように、もう一度言うと、
「先輩、着きましたよ」
ブレーキを踏みながら、篠原が言った。
車は、駐車場へ続くゲートをくぐった。三階建ての比較的大規模な施設だが、壁に修繕のあとがあるなど、どことなく歴史を感じる外観であった。
入口で来意を告げると、大柄な女性職員が「談話室」と書かれた部屋へ案内した。ふだんは入居者の語らいの場なのだろう、絵本や輪投げなどの遊具が片隅に置かれていた。
十五分ほど待たされた。孝次郞の母親が面会を拒んでいるのかと不安になったが、やがて女性職員に支えられた痩身の老婆があらわれた。女性職員が大柄のため、なおさら老婆が小さく見えた。七十四歳と聞いていたが、万里子は、それよりも老けた印象をもった。
女性職員が、万里子と篠原に手を向けて、
「幸子さん、お客さまですよ」
二人はソファーから立ちあがると、
「はじめまして。わたくしは木内万里子と申します。こちらは同僚の篠原です」
万里子が代表してあいさつをした。
「ああ、どうも……。東京からおいでなすったそうで、暑いなかご苦労さまです」
光本幸子は、小さな身体を折りまげながら言った。
「幸子さん、お二人がお話ししたいそうなので、こっちのソファーにかけてください」
女性職員がソファーを指さすと、
「なにかありましたら、近くの職員に声をかけてください」
万里子と篠原に言い、去っていった。
さっそく万里子は、用件を切りだした。
「幸子さん……。実は……、いくつかお訊きしたいことがあり、こうしてお邪魔いたしました。もし応えたくないことなら、お応えしなくてもいいので、よろしくお願いします」
万里子が頭をさげると、横の篠原もそれにならった。
「お子さまの孝次郞さんと伸二さんのことは、金宮早苗さんから聞きました。いろいろあったそうですが、猪狩伸二さんとは、いまどのようなお付き合いなんでしょうか?」
万里子が訊くと、
「はい、はい。伸二さんには、毎月仕送りをしてもらい、ありがたいことだと思っています」
幸子おばあさんは、そう言って手を合わせた。
「そうですか……。猪狩伸二さんからの仕送りは、毎月なんですね」
「はい、毎月欠かさず……です。ほんに、ありがたいことで……」
幸子おばあさんは、もういちど手を合わせた。
「ところで、猪狩伸二さんからの仕送りですが、幸子さんにとっては、どう受けとめているのでしょうか?」
万里子が問うと、
「受け止めと言いますと?」
幸子おばあさんは、意味がわからないというように、首をかしげた。
「あっ、そうか。つまり、猪狩伸二さんの仕送りの理由は、幸子さんにはお解りなんですよね?」
万里子が言いなおすと、
「はい。伸二さんが雑賀崎に戻ったとき、孝次郞を殺したのはぼくだと言い、わたしらの前で土下座をして謝りました。そして、これからは光本孝次郞として生きると言いました。当時は、息子を亡くし、お父さんは寝たきりになっていましたので、心中も考えるような状況でした。なので、伸二さんの言葉はとてもありがたかったンです」
「それで、猪狩伸二さんが光本家を支援したんですね」
「はい、そうです。最初にあらわれたとき、百五十万円のお金を置いていきました。お父さんの病気のことを考えると、とてもありがたいお金なんで、素直に受けとりました。そうしたら、その後二ヵ月おきに現金書留が届くようになったんです」
「失礼ですが、額はどれくらい……だったのでしょうか?」
万里子が訊くと、
「月によってバラバラでしたが、十万円から二十万円のあいだくらいだと思います。わたしたちの生活からすると、とても大きなお金でした」
「それは、どちらから送られてきたんですか?」
「詳しくは覚えていませんが、仙台市という住所だけは覚えています」
「仙台ですか……」
万里子は、「東北方面をわたり歩き、働いていたようです」という、金宮早苗の言葉を思いだした。
「猪狩伸二さんからの仕送りは、その後も仙台から続いたんですか?」
「いいえ。何年かは仙台からだったですが、その後は、東京の中野というところから、送られてきたと思います」
「中野ですか……。その仕送りは、いまでも続いているんですか?」
「はい、ずっと中野というところから、現金書留が届いています。施設でも有名になってしまい、『天使からの贈り物がとどきましたよ』なんて言われているんです」
猪狩伸二は、バー「リトリート」のマスターになってからも、光本孝次郞として母親に仕送りを続けていたのた。万里子がマスターの顔を思い浮かべると、なぜか優しそうな笑顔がにじみ出てきた。
「最後の仕送りはいつだったんですか?」
篠原が訊くと、
「はい、今月のはじめごろでした。詳しい日が知りたいなら、ここの職員さんに訊けば判ると思います。ほんとうにありがたいことで、わたしがこうして暮らせるのも、伸二さんのおかげです」
幸子おばあさんは、こころから伸二に感謝しているように、手を合わせながら言った。そして、何かを思いだしたように、
「そう言えば、先月の仕送りだけ、送られたのが中野じゃなくて……、どこだったろうか……。近ごろもの覚えが悪くなってしまって……。ひ、ひの……、だったような……」
「もしかして、東京の日野市ですか?」
篠原が確認すると、
「ああ、そうだったかも……。東京で『ひの』というのは、日野市だけですか?」
「はい、たぶんそうです」
「じゃあ、日野市だと思います」
幸子おばあさんは、自信なげに肯いた。
時計の針は、午前十一時三十五分を指していた。そろそろお昼ご飯の時間だと思った万里子は、
「幸子さん、いろいろお話しいただき、ありがとうございました。最後にひとつだけお訊きしたいんですが、その後猪狩伸二さんは、雑賀崎に戻ってこられたんでしょうか?」
「あれ以来、わたしの前には顔を出したことはありません。仕送りのたびに、孝次郞との思い出話などを書き送ってくれるのですが……。ただ、ときどき孝次郞の墓に花が手向けられているそうなので、内緒で雑賀崎に戻っていたのかも知れません」
幸子おばあさんは、ちょっと照れたような笑顔で言った。
☆ ☆ ☆
午前十一時四十五分。
万里子と篠原は、老人ホーム「みかんの里」を後にした。朝、ホテルを出たときは晴れわたっていた空が、いまにも泣き出しそうな空模様になっていて、二人は驚いた。
「先輩、なんだかヘンな雲行きですよ。ザッとくるかも知れませんね」
運転席に座った篠原が、フロントグラスから空をのぞきながら言った。
「ほんとうね。これで少し涼しくなってくれるといいんだけど……」
「そうですね。この蒸し暑さは半端ないですもんね。じゃあ、出発します」
篠原がアクセルを踏むと、
「篠原、いろいろありがとう。こうやって運転を代わってもらえたから、この旅をぶじに終えることができたわ。わたし一人だったら、たぶん和歌山に着くまえにダウンしていたと思うわ」
万里子は、少し疲れた様子で言った。
「先輩、持つべきものは後輩ですよ」
「そうね。よき後輩だわ、篠原は!」
万里子は、動きだしたワイパーを見つめながら言った。
篠原の運転する「アウディーA4」は、横なぐりの雨にもかかわらず、阪和自動車道を順調に北上していた。このさき東名高速に入ると、お盆休みのUターンラッシュに巻き込まれることが予想されるため、走れるときに距離をかせごうと、篠原はアクセルペダルに力を込めた。
「それにしても、最後の仕送りだけ、なんで日野市だったんですかね?」
篠原がポツリと言った。
「わからないわね。たまたま日野に用事があったのかも……」
万里子もポツリと応えた。
「それに、届いた日から考えても、送ったのは『リトリート』を閉めたあとですよね。あの日の夜、むかし話しをさせてしまい、傷に塩をぬられるような状態だったのに、仕送りだけは律儀に続けているんだから、マスターの呵責はそうとう深かったんでしょうね」
「そうね。自分の代わりに親友が死んだとなれば、一生の重荷を背負ったも同然だものね。マスターも苦悩してたんだよね」
万里子はしんみりとした口調で言った。
「ところで先輩。日野市といえば、大河原部長の実家も日野市ですよね。いま会社は談合の話しで大変なのに、いったい大河原部長はどこへ行ってしまったのでしょうね?」
篠原は、話題を変えるように、声のトーンを変えて言った。昨夜届いた山元哲哉からのメールによれば、いまだ大河原部長の行方は知れず、家族は捜索願を出したとのことだった。
「そうよね。あんな部長だけど、責任感じて行方を眩ましたのかしら? まさか自殺なんてしないと思うけど、ちょっと心配よね」
「そうですね、ちょっと心配ですね」
篠原は、小さくため息をつくと、
「ところで先輩。ぼくは、マスターと大河原部長が、どこかでつながっているような気がするんですよ。マスターの仕送りが最後は日野市だったり、同世代に東大と早稲田で学生運動をしていたりと、共通点がいろいろあるような気がして……」
「たしかにそう言われると、そんな気がするわね。それに、二人とも失踪中というのも共通点だし!」
「そうなんですよ」
「でも、二人がつながっているとして、それと失踪とは、どういう関係があるのかしら?」
万里子は、ハンドルをにぎる篠原を見て言った。
「それは解りません。まあつながっているというのも、根拠のない想像なので……。なんとなく、そんな感じがするというだけで……」
「そうよね。でも面白い想像だわ」
万里子は笑うと、カーステレオのラジオボタンを押した。スピーカーから、ワムのケアレズウイスパーが流れ、フロントグラスを雨が叩きつけた。
・・・つづく
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