見出し画像

路傍に咲く花(19)

 旅館「銀嶺荘ぎんれいそう」は純和風の落ち着いたたたずまいだった。入り口で迎えた女将おかみが「奥様、お荷物をお持ち致します」と手を差し出し、二人は自然に夫婦となってしまった。

 理由を説明するのも面倒なので、篠原姓でチェックインした。万里子が氏名欄に「篠原信吾しのはらしんご」「万里子まりこ」と書いたが、心臓の鼓動こどうが激しくなるのを感じ、周りの目が気になった。

 部屋に案内されると、二人は直ぐに温泉に入った。汗を流した万里子が部屋に戻ると、浴衣姿の篠原がスポーツドリンクを飲んでいた。

「あっ先輩、ずいぶんゆっくりでしたね」

 少し上気した顔で言った。

「そう、篠原が早いんじゃないの?」

 と反論しみるが、時計を見ると部屋を出てから一時間以上経過しており、どう見ても万里子が長湯ながゆであった。

「飲みますか」

 篠原は、買ってきたスポーツドリンクを差し出した。

「ありがとう、でもビールまで我慢するわ」

 万里子は夕食にビールを飲むつもりで、篠原の好意を断った。

 その時、万里子の携帯電話に、メールが届いたことを伝えるメロディが響いた。

 誰だろうと思いながら開くと、

山元やまもと君からのメールだわ」

「そう言えば、山元は今週、会社でしたね」

 篠原は万里子との旅行に浮かれ気分だったが、考えてみれば山元は今日も仕事をしているのだ。確か、夏休みは来週取得すると言っていた。

「なんだろう」

 万里子はメールをダウンロードし、篠原にも分かるように声を出して読みはじめた。

(先輩、東北の夏はいかがですか? 山元です。取り急ぎ報告したいことがあり、メールを差し上げました。実はいま、情報システム部は大騒ぎなんです。ニュースソースは分かりませんが、どうやら明後日発売の「週刊謹聴しゅうかんきんちょう」で、「コンピューター業界の談合構造」という記事が掲載されるそうです。その中に例の原田はらださんが関わったW市の実例が入っているらしく、関係する見積もりや承認プロセスのデータを提出するよう、柴崎しばさき専務から指示があったそうです。ぼくは午後から過去の見積もりデータでXコード(談合に関わったジョブをこう言うらしいです)が書き込まれた物件の情報整理をやらされていまして、連絡が遅れてしまいました。とにかく情報システム部全体がピリピリした緊張感で、大変な騒ぎです。また何か分かればご連絡します。それからマスターの件ですが、当時の学生運動を扱ったウエブサイトがあり、調べてみました。時系列にエピソードを記載した年表があるのですが、それによると死亡したのは光本孝次郎みつもとこうじろうという名前で間違いなさそうです。念のためウエブサイトの管理者にメールで問い合わせようと思いますので、また何か分かれば都度連絡を入れます。先輩も頑張ってください。それから、篠原にもよろしくお伝え下さい)

 長文のメールであったが、万里子は一気に読むと、

「大変なことになったわね」

 と、言った。

「週刊誌ですか……。誰が情報をリークしたんですかね。よくある告発記事だとすると、告発者が誰なのか、魔女狩りがはじまるかも知れませんね」

 と、篠原。

 週刊謹聴しゅうかんきんちょうは、何年もまえから談合撲滅キャンペーンという名目で、数々の告発を行ってきた。最近は週刊トッポに出しぬかれることも多くなったが、半年ほどまえには、入札前に落札業者と価格を発表し、入札そのものを中止に追い込んだこともあった。それだけに、週刊謹聴の談合記事は、読者の強い関心をひくものと思われた。

「そうすると、会社を辞めた木島きじまさんと原田はらださんが疑われるわね。とくに原田さんはW市の件が原因で辞めているので、会社をうらんでリークしたと見られるかも知れないわね」

 万里子が心配すると、

「そうですね、わが社が情報の発信源だとすれば、原田さんが一番あやしいということになりますね」

「それに、例の檄文げきぶんのこともあるし……」

 万里子は一抹いちまつの不安を覚えた。会社からなんらかのアクションがあれば、原田が口を閉ざしてしまうかも知れない。篠原を信じて過去を語った原田であるが、万里子も篠原も、彼から見れば会社側の人間である。

「とにかく、今は静観するしかないですね。週刊誌の件だって、まだおおやけになったことではないのですから」

 篠原が言うと、

「そうね、それよりも夕飯たべに行きましょう」

 と万里子が応え、夕食の会場である広間へ向かった。

 夕食は山海の幸がバランスよく盛り合わされ、二人とも大満足であった。ここ大鰐おおわに温泉はどちらかと言えば内陸に位置するが、じつは鰺ヶ沢あじがさわや青森の港とも近く、新鮮な魚も手に入りやすいのだ。

 二人はビールの大瓶を二本ずつあけ、ほろ酔い気分で部屋に戻った。そして、そのまま就寝した。

     ☆     ☆     ☆

 翌朝、万里子は五時三十分に目を覚ました。昨夜はあっという間に熟睡したようで、布団に入ってからの記憶がほとんどなかった。微睡まどろみの中で、篠原が何か言いかけた気もするが、それも定かではなかった。

 万里子は、浴衣の前がはだけ、太股を露わにした篠原に布団をかけると、旅館の女将おかみが勧めた、朝の露天風呂にむかった。薄暗い廊下を抜けると脱衣場が見えてきた。赤と青の暖簾のれんで入り口が分かれているが、そこから先は板塀いたべい一枚挟んだだけで、互いに行き来ができる、準混浴であった。万里子は先客がいないか気になったが、朝早いせいか、だれも入っていなかった。

 朝早く温泉に浸かり、緑の森林を見ながら、鳥のさえずりを聞いていると、ここ一週間の緊張が、すっと消えて行く感じがした。大河原部長には、目に見えない無言の圧力を感じたが、可哀想な人だと、寛容な気持ちになれるから不思議だ。このまましばらく、時間が止まればいいと思った。

 その時、脱衣場で人の話し声が聞こえた。どうやら男女二人のようで、やがて万里子と同年代の女が入ってきた。板塀の向こうでも水音が聞こえ、

「おーい、恵美えみ

 と、声が聞こえてきた。

 恵美と呼ばれた女は、

「はーい、結構熱いね」

 と言葉を返し、板塀の向こうに聞こえるように、大きな声で、

「主人なんです」

 と、万里子に言った。

 万里子は軽く会釈えしゃくをすると、

「ご旅行ですか?」

 と訊いたが、われながら間抜けな質問だと思った。

「ええ、そうなんです。十年ぶりに来たんですが、なにもかも十年前と同じで、もう懐かしくて、懐かしくて……」

 女が言うと、塀の向こうから、

「誰かいるの?」

 と声が聞こえ、

「じゃあ、こっちにおいでよ」

 と、女を呼んだ。

「じつは主人と知り合ったのがこの温泉で、やっと子供も手がかからなくなったので、久しぶりに夫婦水入らずで、想い出の温泉に来たんですよ」

 女はそう言うと、板塀を回り込み、男湯のほうへ消えていった。

 万里子は羨ましいと思った。この温泉で知り合ったと言ってたが、互いにグループで遊びに来て知り合ったのだろうか。グループどうしで意気投合し、楽しく遊んでいるうちに仲良くなったのだろうか。

 万里子は、男湯でむつみあう男女の出逢いを想像しながら、自分も若いころ、そんな経験があったと懐かしんだ。そして、部屋でイビキをかいている、篠原の顔が思い浮かんだ。

「私にも、いい想い出が来るんだろうか?」

 と、ささやいてみた。

 やがて男湯に人が入ってきたのか、女が戻ってきた。湯がにごっていれば人の目も気にならないが、ここの湯は無色透明であった。万里子は、ころ合いをみて女に会釈をすると、露天風呂をでた。身体が火照ほてり、朝の風が気持ちよかった。

 部屋にもどると、篠原は目覚めていた。

「先輩、露天へいったんですか?」

 まだ眠そうな顔で訊いた。

「そう、あまり人がいないから、篠原もはいってきたら。その間に私も着替えちゃうから」

 と、万里子が言うと、

「そうですね」

 と言って、部屋を出ていった。

     ☆     ☆     ☆

 万里子と篠原は、朝風呂に入り朝食をとると、午前九時三十分に大鰐温泉を出発した。二人とも、久しぶりにのんびりした時間を過ごし、仕事のストレスが吹っ飛んでいた。

「やっぱり温泉はいいわよね」

 湯上がりの香りを残した万里子が、ハンドルを握りながら言った。

「ところで先輩、岳温泉だけおんせんって岩木山のふもとにあるんですね」

 篠原は、カーナビゲーションの画面に映し出される地図を見ながら言った。今朝、原田と連絡をとり、岳温泉で正午に待ち合わせることにしたのだ。実家に来てもらってもいいのだが、家族がいると落ち着かないので、岳温泉名物の「またぎ飯」を食べながら話そうということになった。

「またぎ飯って、どんな飯なんですかね?」

 篠原は、その名前から、けものの肉が出てくるのかと期待していた。

「さあ、私も分からないけど、原田さん曰く、炊き込みご飯の一種みたいね」

「炊き込みご飯ですか……」

 篠原はがっかりした。

「ぼくはてっきり、けものの肉かなんかが、出てくるのかと思っていましたよ」

「まあ、それは行ってのお楽しみと言うことで……」

 万里子は、国道七号線を左に折れ、弘前ひろさきの街を取り巻くように走る、通称アップルロードに入った。今朝電話をかけたとき、原田が勧めてくれたルートで、林檎りんごの林を走るので、そのような名前がついたと説明された。小高い丘が連なるアップダウンを通過すると、やがて見わたすかぎり林檎の木が広がる風景があらわれた。東京生まれの万里子には、はじめて見る景色に、圧倒されてしまった。

「すごいわね、私、こんなたくさんの林檎を見るの、初めてだわ」

 万里子は思わず、感嘆の声を上げた。

「いやあ、ぼくもビックリですよ。静岡の実家にはお茶の畑がありますが、ぜんぜんスケールが違いますね」

 篠原も圧倒された。

 やがて景色が開けてくると、はるか前方に岩木山いわきさんが見えてきた。通称「津軽富士」と呼ばれるその山は、地元の人が郷土の誇りというように、威風堂々いふうどうどうとした姿で見るものを圧倒した。

 万里子も見とれてしまい、危うく運転を誤るところであった。

「まだ時間はあるから、岩木山に登ってみようか」

 万里子が言った。

「先輩、岩木山って車で登れるんですか?」

「有料の登山道路があって、山頂付近まで登れるのよ」

 万里子は事前に調べていた。せっかく青森まで行くのだから、一カ所くらい観光したいと思っていたからだ。

     ☆     ☆     ☆

 万里子は、岩木山の登山道路に車をすすめた。ゲートで料金を払い山道に入ると、山肌をへびが進むようにくねりながら、標高をかせいでいった。二十分ほどで登山道路の終点に着くと、万里子は時計を見た。時間は十時十五分、約束の時間には間に合うだろうと思った。

 駐車場に車をおくと、山頂付近まで登るリフトがあった。これに乗り、さらに上を目指すと、津軽海峡つがるかいきょうが見わたせる、素晴らしい眺望ちょうぼうが広がるらしい。だが、残念ながら、強風のため運行中止と、看板がかかげられていた。

「残念だわ」

 万里子は落胆したが、

「正直、あのリフトに乗らずにすんで、ぼくはよかったですよ」

 高いところが苦手な篠原は、急な斜面を這うように登るリフトをみて、怖じ気づいていたのだ。

 二人はしばらく景色眺め、時間をつぶしたのち、登山道路を下り、岳温泉をめざした。そして、約束の十二時前に到着すると、駐車場の入り口で、原田が手を振るのを発見した。

 車を止めると、

「いやあ、本当に青森まできたのですね、お疲れ様でした」

 原田がけより言った。

「本当に久しぶりです。原田さんも元気そうで……」

 万里子があいさつすると、

「その節は、お世話になりました。最後に楽しい想い出を作っていただき、本当に感謝しています」

 原田は、送別会の一件を言うと、続けて、

「ただ、その後のことが心配で、本当は送別会を辞退した方が良かったのかなと、少し後悔もしてるんですよ」

 大河原部長が反対していたことは知っていた。それだけに、万里子や篠原に悪い影響が出やしないかと、心配していたのだ。

「じつを言えば、大河原部長からは結構ひどい仕打ちを受けていますが、それは原田さんのせいじゃなくて、自分の信念でやったことですから、そんなに心配していただかなくても大丈夫です」

 万里子は、正直に言った。

 これから話すことも、原田には正直に語って欲しいと思っていたので、まずは自分をさらけ出そうと、心に決めていたのだ。

「そうですか……。大河原部長は、自分が気に入らないと、徹底的に排除するタイプですからね。これからが大変かも知れませんよ」

「覚悟はできています。最悪は、会社を辞めることも考えていますので」

 万里子は、きっぱり言った。

「そうですか……、分かりました。はなしの続きは、お昼でも食べながらしましょう。またぎ飯を予約してありますので」

 原田はそう言うと、二人を「山のホテル」という温泉旅館に案内した。

・・・つづく

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?