路傍に咲く花(12)
やがて遠くに、「ホテル楊貴妃」の看板が見えてきた。
この通りだけは、歌舞伎町の喧噪から分離された別世界である。ときどき訳ありのカップルが歩いているだけで、若者たちが踏み入れることは、めったにない。
「あれ、おかしいな?」
店の前で篠原が言うと、
「なに? 何がヘンなの?」
と、万里子。
「看板に灯りがついていないんですよ。いつもなら灯りがついているはずなのに……」
そう言うと、篠原は、入り口に続く階段を下りていった。そして、引き返してくると、
「しばらく休業だそうです」
と、肩を落とした。
「えっ、休み。昨日はそんなこと言っていなかったわよね、マスター」
万里子も、思いがけぬ展開に驚いた。昨夜のことを謝りたいと思っていたので、マスターに会えないことに、大きな失望感が広がった。
「本当なの? まだ開店していないだけじゃないの?」
念のため確認しても、
「いえ、張り紙がしてありまして、しばらく休業します、勝手を言って申し訳ございませんが、また会える日を楽しみにしています、と書いてありました」
篠原は、事務的に言った。
「それにしても、なんで休業にしたんだろう」
と、山元。相変わらず冷静な口調で首をひねると、暫し考えてから、
「やはり昨日のことが原因なんでしょうか。久しぶりに昔の親友のはなしをして、センチメンタルになってしまったのかもしれませんね。マスターって、そんな雰囲気ありますもんね」
と、言った。
「そうかも知れないね。昨日店を出るときも、普通なら『ありがとうございました』と言うのに、無言でしたよね。俺、なんだかとても気になっていたんですよ」
篠原も心配顔で言った。
「仕方ないわね、今日のところは会えないんだから、帰るしかないわよね」
三人は万里子の決定に同意し、きた道を引き返した。時間は午後七時前で、そろそろ歌舞伎町のネオンサインが、輝きはじめるころであった。
「ねえ、ちょっと疲れているとは思うけれど、一時間くらいつき合ってくれない。さっきはながした人事データのことなど、少し相談したいこともあるのよ」
万里子が誘えば、断れるわけもなく、三人は、歌舞伎町の居酒屋に入った。
☆ ☆ ☆
テーブルに着くと、万里子は、無条件に生ビールと枝豆を注文した。まだ時間がはやいせいか店内は空いており、すぐにビールがはこばれてきた。
三人はジョッキを合わすと、
「ご免なさいね、今日は。無理に誘ったみたいで」
万里子は、昨夜から一睡もせず、シャワーも浴びていない二人を気遣った。篠原も山元も、白いワイシャツの襟が汚れていた。
「じつはね、今日の午後、庶務の伊東さんと話したんだけれど、大河原部長って、とんでもない人だと言うことが判ったのよ」
「とんでもない人って?」
と、篠原。
万里子は、伊東早紀子から聞いた大河原部長の関係を、順を追って説明した。
「それじゃあ、伊東さんが可哀想ですよ。彼女だって好きでスパイの真似ごとしたわけじゃないと思うし、目の前に餌をぶら下げられれば……、それも魅力的な餌なら尚更……」
篠原が言うと、
「そうでしょ、こんな酷いはなしって、ないわよね」
万里子が、山元に同意を求めた。
「そうですね、伊東さんの弱みにつけ込んだ、卑劣なやり方だと思いますね。伊東さんにも非はあると思いますが、それにしても卑怯な取り引きですよね」
山元も憤慨していた。
「そこで、大河原部長を少し懲らしめてやろうと思うのよ。だってこのままのさばらしていたら、第二の原田さんが出ても、おかしくないもの」
万里子は真剣であった。昨夜から一睡もしていないので、神経が高ぶっていたことも事実だが、心の底から怒りがこみ上げていた。原田が退職に追い込まれたことといい、伊東早紀子にスパイの真似ごとをさせ、傷つけたことといい、すべては自分本位の身勝手が原因であり、人間として許せないと思った。
とは言っても、万里子に別段計画があるわけではなかった。それはこれから考えるとして、ますは原田と経営調査部の木島とコンタクトをとるために、連絡先が知りたいと思い山元に調べさせたのだ。
「ところで山元君、例のものは判った?」
「はい、上司のIDを使いアクセスしました。これです」
山元は、プリントアウトされたA4サイズの紙を、万里子の前に置いた。万里子が手にとると、現住所や電話番号のほかに、最終学歴や取得資格など、個人データも印刷されていた。さすがに査定情報や業務上の自己申告などは含まれていなかったが、個人情報が簡単に漏洩可能な状態に、一抹の不安を覚えた。
管理職なら当然、査定や年一回作成する自己申告などの情報も、閲覧することができるだろうし、それを悪用することだって可能なのだ。もし伊東早紀子が自己申告で、総合職への転向を希望していたら、大河原部長は、そのことを簡単に知ることができたのだ。
「ありがとう、山元君」
万里子は、受け取った紙を鞄に入れると、
「ところで、私、今度の土曜日、原田さんと会って、大河原部長とのことをもう少し詳しく聞こうと思うんだけれど……。まえに篠原君に色々話したことは聞いたけど、まだ全てを話していないんじゃないかと思うのよ、何となく」
万里子が言うと、
「と言うことは、ぼくらにもつき合え、ということですね」
と、篠原。
「まあ、そう言うことね。できればどちらかにつき合って欲しいのよ、予定がなければ」
「ぼくはいいですけど、山元はどうする?」
篠原が山元を見た。
「じつは予定があって……、どうしても外せないって訳じゃないんですけど」
山元は口よどんだ。
その日、恋人とデートの約束が入っていたのだ。
篠原は、山元の口ぶりを察して、
「そうか、じゃあ俺がつき合うから、山元は用事を済ませてくれ」
と、言った。
山元は篠原の気遣いに感謝した。
万里子から「ナンとかならないの」と訊かれれば、断りにくかっただけに、デートを用事と言い換えてくれたことに、心の中で感謝した。
「そう、じゃあ仕方ないわね。篠原君と行くことにしましょう。詳細は携帯のメールで連絡するから、待ち合わせなどはそのときに決めましょう」
万里子が言うと、
「はい」と篠原が応え、
「すみませんが、今回は失礼します」と、山元が返した。
☆ ☆ ☆
その日の夜。
万里子は自宅の部屋で、夜食のカップラーメンを食べながら、一日を振り返っていた。いったんベッドに入ったのだが、眠いのに眠れない状態で、ふたたび灯りをつけ、起きたのだった。
伊東早紀子のことは、思い出すたびに不愉快になる。オリエンタルコンピューターには、万里子のように四年制大学を卒業し、総合職として入社した女性が大勢いた。なかには、プログラマーやシステムエンジニアとして、男性社員と同じ仕事をこなし、グループリーダーとして活躍している女性もいるし、そこからステップアップし、管理職として活躍しているひとも、エンジニアリング部門では三割を超えていた。
一方、一般職として入社した女性社員のなかには、同じ女性が総合職として仕事をこなし、男性と同じ給与を得ていることに、羨望の目が存在することも知っている。そして、自然と目に見えない壁ができていた。
大河原部長は、そのような女性社員の状況を、知っていたのかも知れない。人の弱みにつけ込み、自らの権力を乱用する行為は、社会人として決して許されるものではない。やはりこれは、鉄槌を加えなければならない。
原田健三のことにしても、大河原部長の個人的な感情が発端なのだ。なにが気に入らないのかは知らないが、すでに落札業者が決まっている見積もり作業をやらせ、査定に響く失注という結果に導いたことは、大いなる悪意を感じる。しかも、原田の用意周到な検討を、いとも簡単に否定したことは、部長としての資質にも問題がある。
そもそも戦略にはリスクはつきものであり、それをうまく制御するのが管理者の役目ではないか。自分の保身ばかり考え、部下を陥れたり退職に追い込んだり、まったく許し難い行為だ。
それに談合も問題だ。佐伯卓哉が社長の時代は、活気もあったし、意欲に満ちた雰囲気もあった。それがいまは、談合に加担し、創業の精神を忘れている。こんな会社なら、いっそう倒産した方がすっきりする。
時計は午前二時をさしていたが、万里子の頭はぐるぐる巡り、目はますます冴えていった。テレビの深夜番組は、お笑いタレントが六本木のグルメな店を紹介していたが、それすら頭に留まらず、目から後頭部に抜けていくようであった。
そうだ、「リトリート」のマスターにも早く謝らなくちゃ。昨日は休みなんて言わなかったのに、なぜ店を開かなかったのだろう。私の無神経な言葉で、つらい過去を思い出させたことが原因だとしたら、本当に酷いことをしたと思う。
それにしても、マスターの過去は衝撃的だった。猪狩伸二のピュアーな生きざまは、今を生きる自分にも新鮮な衝撃だったし、なにかを信じて強く生きていくことに、羨望も感じる。
なぜ猪狩伸二は命を落としたのだろう。恋人の岡田美幸も、なぜ内ゲバに巻き込まれたのだろう。そして、そのご犯人は捕まったのだろうか。
あの時代はすでに歴史であり、自分にはリアルに伝わらないが、それでも生きざまには共感を覚える。
☆ ☆ ☆
結局、万里子は朝まで一睡もできず、二晩連続で徹夜をしてしまった。さすがに明け方に睡魔が襲ってきたが、ここで寝るわけにはいかない。もし寝てしまったら、夕方まで目が覚めないだろうと思うと、眠い目を見開き、立ち上がるしかなかった。
キッチンで少し濃い目のコーヒーを入れていると、母親の美奈代が、
「あなた大丈夫なの? 顔色悪いみたいだけれど」
心配顔で万里子を見た。
「うん、ちょうと寝不足なだけ、大丈夫だから心配しないで」
「それならいいんだけれど、お父さんも『万里子、昨日も遅かったのか』と心配していたし、たまには早く帰ってきて、お父さんとはなしでもしてくれないかしら」
「だってお父さん、何かあると『結婚しろ』とか『誰かいい人はいないのか』とかうるさいんだもの。私だって別に結婚を考えていないわけじゃないし。だけど一生のことだから、変な妥協はしたくないし、そこのところ、お父さんはわからないのよ」
父親の祐三は、万里子が結婚適齢期をすぎても、その気にならないことが心配であった。どこの家庭にもある、親と子どもの結婚観の諍いが、木内家にも存在していた。
「でもね、万里子、お母さんだって……」
「わかったわよ、もう。時間がないから、私、会社へ行きます」
疲れた身体に、母親の小言は堪えた。心の中では、「いい加減にして」と思っていた。万里子は濃いコーヒーを喉に流し込むと、いったん自分の部屋に戻り身支度を調え、勢いよく玄関を飛び出した。
そこには、いつもと同じ家の陰から、いつもと同じように赤い太陽が顔を覗かせていた。
そして、暑い一日がまた始まった。
・・・つづく
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