通勤日記ー三国志談義ー
世界はいつになったら安定するのだろう。歴史の教科書を開くまでもなく、人類の歴史は争いに明け暮れてきた。動物のように、子孫を残すためだったり、生きる糧をもとめるためなら、争いもしかたないと思うのだが、人間の争いはそうではない。極論をすれば、すべてが欲望に起因しているのだ。
だが、争いの中にも人間ドラマがある。だから、悲惨な虐殺や拷問といった負の要素を隠し、群雄割拠する英雄の活躍に胸を躍らせるのだ。とくに中国の三国時代は、英雄の宝庫だ。謀略、裏切り、義理、人情、冷静、信頼などなど、いろいろな側面で語ることができる。
もしかしたら、三国志をもっとも好きなのは、日本国民かも知れない。近代の中国は、共産主義になってから、古代文明や文化をないがしろにして、国の発展に邁進してきたからだ。いっそ吉川英治の三国志を、中国語に翻訳して出版したら、ファンが増えるかも知れない。そんなことまで考えてしまう。
まっ、それはさておき。このはなしは、そんな三国志が発端なのである。
☆ ☆ ☆
世の中、三国志が好きだという人は多い。ぼくも若いころ、吉川英治の三国志を夢中で読んだ。あまりにも多くの人が登場するので、読むのも一苦労だったし、何度ページを後戻りしたか判らない。そして、年齢を重ねるたびに、記憶の中から登場人物の名前が消えてゆくのが悲しい。
そんな折り、最近、友人の奥方と三国志の話で盛り上がり、所蔵の文庫本を借りてふたたび読み始めた。その奥方、理想の男性が諸葛亮(字名は孔明)だというから、何となく解るような気もするし、そうでない気もする。まあ、諸葛亮の様に、聡明で、判断力に長け、冷静で、義理堅い、そんな人間に出会うのは至難の業だと思う。理想を追求していたら、一生独身で過ごすことになったであろう。
我が愛妻も、某グループのボーカルが好きだといっていたが、ぼくの容姿には、彼の面影はない。重大な決断も、時として妥協が必要なのだ。
三国志が何故日本人の心をとらえるのかは判らない。でも三国志の話をすれば、必ず何人かは乗ってくる。そして必ず「俺は○○が好きだ」という話になる。
そう、この話は、帰りの有楽町線で、ぼくの前で腰掛けている、中年サラリーマン二人の会話からはじまる。
「俺は劉備より曹操の方が有能だったと思うよ」
少しだけ年配とおぼしき男が語りだした。
「そうですね、ぼくもそう思いますが……」
もう一人の男が応えた。
どうやら同じ会社に勤める先輩と後輩なのだろう。有能という言い方から察すると、会社の人物や組織を思い浮かべ話しているのかも知れない。「たられば」はよくある話で、「もしうちの社長が、諸葛孔明だったら」とか、「松下幸之助みたいな人がいたら」とか、会社の中ではよく耳にする。話しているだけなら罪もないし、想像の世界で楽しむのは自由である。
そのうち先輩の男性が、
「でも俺は、あれが好きなんだよなぁ、あの……、何とかっていう女に騙されて、殺された……」と言い出した。
すると後輩男性が、
「あっ、董卓ですね」
「そうそう、その董卓を呂布に殺させた女……、なんていったっけ?」
「あっ、いましたね、そういう女……、なんていいましたっけ?」
その後しばらく、二人は「誰だっけ、女の名前?」と記憶をたぐり寄せるように思案をしていたが、結局女の名前は判らず終いだった。
実はこの時、ぼくには女の名前が解っていた。文字にはできないが、「ちょうせん」という名前である。一生懸命考えている二人へ、教えてあげたい衝動に駆られたが、そこはぐっと我慢をした。突然話に乱入されて、嬉しがる人はそう多くない。
結局二人は判らず終いで、次の話題に入っていった。そう、三国志の話で定番の、「俺は○○が好きだ」というやつである。
後輩の男性がまず、
「ぼくは関羽が好きですね」というと、
先輩の男性が
「俺は張飛かな」といった。
どちらも三国志の主人公ともいえる劉備の子分で、この物語に登場する英雄のなかでも、突出した強者である。関羽が義を重んじる情け深い人物なのに対し、張飛は粗暴だがどこか憎めない可愛さのある人物として描かれている。巨人の星に当てはめると、「張飛=伴宙太」「関羽=花形満」のような性格であろうか? ちょっと違うような気もする。
ちなみにぼくは曹操が好きだ。じつは、若いころは趙雲(字名は子龍)に魅力を感じていたのだが、再度三国志を読みかえしてみると、曹操という人物に新たな魅力を感じたのだ。
それは、国を治めるトップとしての資質だったり、部下を統率する操縦術だったりするが、若いころはこのような視点で人物を見ることがなかったのだろう。まあ吉川英治だけでなく、たいがいの三国志では悪人として描かれており、曹操憎しで物語を読み進めていたように思う。いまは、もし自分の会社で社長を迎えるなら、曹操のように能力で評価する、合理的な人間であって欲しいと思う。
前の二人は、営団成増(いまは地下鉄成増)まで熱く語り合い、後輩の男性が降りていった。残った先輩も、なんだか話し足りないような感じで、しばらくは話しの内容を確認するように目を閉じていた。
営団成増で降りた後輩の席に腰掛けたぼくは、「ところで曹操は好きですか?」と訊きたい衝動にかられたが、そこはぐっと我慢した。
・・・つづく