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通勤日記ー自称芸術家ー
一時にくらべると、街の落書きはずいぶん減ったように思われる。だが、電車の窓から見える景色を注意深く観察すると、いたるところに落書きを発見することができる。
個人的には、上手な落書きを見るのが楽しい。しかし、壁の所有者に断りなく描くことは犯罪であり、やはり看過できない。
そんな落書きのはなし。
☆ ☆ ☆
朝、志木から和光市に向かう電車から外を覗くと、絵が描けそうなあらゆる場所に、落書きがあることに気づく。線路沿いには、落書きに適した壁やのり面が多く、落書きを趣味としている人には、絶好の場所なのだろう。場所によっては、民家やアパートの壁にまで書き込まれている。
落書きといえば以前は暴走族の方々の定番で、「毘沙門天」だとか「湘南暴走愚連隊」だとか、やたら難しい漢字を連ねた、無骨で粗野なものが多かった。どれも難しい漢字だ。昔「わたし薔薇っていう漢字書けるんだよ」というコマーシャルがあったが、まあどんなきっかけでも、難しい漢字を覚えることはいいことだ。問題はそれを表現する方法である。
また個人的なメッセージを落書きに託す例も多く、「由美子命」とか「タカシ愛しているよ」などはその典型であろう。以前は観光地に多く存在したが、最近は電柱だとか駐輪場の壁だとか、さらに範囲が拡大しているように思う。落書きするくらいなら、ラブレターの一つでも書けばいいのにと思うのだが、まぁそんな話はどうでもいい。
冒頭に書いた沿線の落書きであるが、最近は実にアートなものが多くなった。きっと絵に自信のある人が描いたのだろう、この沿線では少なくとも三人のウォールアーティストがいると推察される。それぞれに個性があり、実に上手く、競い合っているように思われる。ぼくは、和光市駅の手前にある、とぼけて口をあんぐり開けた絵が好きである。
少し絵の上手い自称芸術家から、一枚描けばウン千万という大家まで、芸術に携わる人の評価は第三者に委ねられる。したがって発表の場がないアーティストは、自己満足だけで終わってしまうことも事実である。だから、沿線や街の壁という壁を自分のカンバスとして使う人の気持ちは分からないでもないが、やはりそこには一定のモラルが必要であろう。
少なくとも線路内の壁は鉄道会社のものだろうし、沿線の民家の壁はそこに住んでいる人に所有権がある。そのような場所に、断りもなく芸術家気取りの人が来て、黙って絵を描いて去っていったら、きっとその場所の所有者は面白くないと思う。いや、むしろ怒りを覚える人も多いことだろう。逆に自分の家の壁に他人が絵を描いたら、それでも許せますかと問いたい。
カラースプレーという、洗っても落としきれない素材を使うことにも、大いなる問題がある。洗って落ちる素材ならいいというわけではないが、落書きの主はなかなか消せない素材であることを認識し、迷惑を意識しながら、このようなことを続けているのだろう。そこには、誰かが迷惑しているという意識が希薄で、自分だけが満足すれば良いという、身勝手な人間像だけが浮かび上がってくる。
ぼくは、刑罰解決論者ではないが、落書きで捕まった人間は、「描いたすべての落書きを消す刑」に処すべきだと思う。自分の行為が、どんなに人に迷惑をかけているかを知らしめるために。
【補足】二〇二五年現在、ほとんどの落書きは消されている。
・・・おわり