路傍に咲く花(17)
万里子の携帯電話に原田からのメールが飛び込んできたのは、昼休みが近づく午前十一時三十分であった。自宅のパソコンに届くメールは、全て携帯電話に転送するよう設定してあった。万里子は差出人が原田健三であることを確認すると、すべての文面をダウンロードした。
(木内さん、お久しぶりです。返事が遅くなり申し訳ございません。いま青森の実家にいます。子どもたちが夏休みなので、気分転換に一家で帰省です。こちらも東京同様暑い日が続いていますが、湿度がそれほど高くないため、過ごしやすい日々です。窓を開ければ岩木山が見え、久しぶりにのんびり過ごしています。その後いかがですか? 皆さん元気ですか? こうしてのんびりと一日を過ごすと、色々なことを考えさせられます。会社の中にいると、案外世間が見えていなかったことに気づかされます。どうしても仕事中は、会社という窓から世間を見る機会が多く、それが自分の感性を狂わせていたことに、驚きを感じます。とくにオリエンタルコンピューターのような大企業にいると、自分自身が頑張らなくても給料は出るし、生活が困窮することもないので、それ以外の世界に飛び出すなんて考えられませんでした。ところがいったん飛び出して見ると、自分の世界がいかに狭かったかに気づかされます。色々な人が、色々な世界で、苦しんだり悲しんだり、それなりに頑張って生活している姿を見ていると、それが本当の人生なのかなという感じがします。いま、本当の人生が始まったと思っています。木内さんも、ただ漠然と働くのではなく、自分自身の人生なのだから、楽しく充実したものになるよう考えてください。そして結論が見えてきたら、挑戦してください。たった一度の人生なのだから。ということで、またどこかでお会いできるといいですね。では、さようなら)
万里子は、読み終わると妙な感じが残った。
あの檄文を書いた人間と同一人物とは思えない前向きな言葉に、一体どちらが本当の原田なのかと首をひねる思いであった。
☆ ☆ ☆
その日の昼休み。
万里子は、篠原と山元を誘い、いつものレストランでパスタを食べていた。相変わらず混みあう店内であったが、常連の三人は優先的に冷房が効く奥のテーブルに案内され、ゆっくりはなすことができた。
「……と言うわけで、なんか釈然としないのよね、原田さんからのメール。それにしても気になるのは、大河原部長なんだけれど」
万里子は、原田からの返事と、大河原部長との一件を、手短に伝えた。
「確かにホームページの檄文は、恨み骨髄という感じで、とても後ろ向きの内容でしたね。ぼくもてっきり、原田さんは大河原部長への復讐を、考えているのだと思いましたよ」
山元が言うと、
「そうだよな、ぼくもそう思ったんだけど……。もしかしたら、最初は復讐に満ちた気持ちでいたのが、故郷に帰ってみると馬鹿らしくなって、気持ちが変わったんじゃないのかな?」
と、篠原も見解をのべた。
「どちらにしても、本人に訊かないと解らないわね。それより大河原部長のことが気になるわ」
万里子は、は虫類のような大河原の目を思いだし、飲み込んだパスタが喉に引っかかるような、違和感を覚えた。
「大河原部長がわれわれの行動を、どこまで押さえているのかは知りませんが、原田さんの送別会を強行したことで、少なくとも先輩とぼくが、要注意人物と認識されていることは事実だと思いますね。でも、今日先輩が会議室に呼び出されたのは、木島さんと会ったこととは関係ないと思うんですが、どうでしょうか?」
篠原が言うと、
「状況から考えると、大河原部長の諜報網がそれほど広いとも思えないので、ぼくも篠原のいうように、送別会を強行したことを言っているのだと思うのですが……」
山元も同意した。
「そうね、とりあえずそう考えておきましょう」
万里子は一抹の不安を感じながらも、二人の意見を受け容れることにした。考えても解らないことで、プレッシャーを感じるのは馬鹿らしいと思った。
「それよりも先輩、じつはぼく、リトリートのマスターがはなした学生運動事件を、少し調べてみたんですが……、ちょっと面白い新聞記事を発見しまして」
山元が話題を変えた。
「新聞記事?」
「そう新聞記事です」
山元はポケットから一枚の紙を取り出した。すこし汗くさく湿った紙は、日本新聞の縮小版のコピーで、昭和四十二年九月十四日と日付が入っていた。どうやら社会面のようで、「東京中野でまた内ゲバ、女性一人死亡」とキャプションがついていた。
記事の内容は、中野区高円寺の路上で、早稲田大学一年の岡田美幸さん(十九)が死亡したと伝えていた。一段のベタ記事なので、詳しいことは解らないが、岡田美幸が対立するグループの襲撃を受けたのだった。ゲバ棒で頭を砕かれ、即死だったと、記事は伝えていた。
「これがマスターの言っていた事件ですね。それにしても、『また内ゲバ』と書いていることや、記事の扱いを見ると、学生運動の抗争は日常茶飯事だったのでしょうか、この時代」
山元が言うと、
「戦国時代のように、覇権を争っていた時代なのかも知れないわね」
と、万里子が返した。
「これはいいんですが、解らないのがこちらの記事なんですよ」
山元はもう一枚の紙切れを取り出した。やはり日本新聞の縮小版で、日付は同じ年の九月十六日となっていた。
万里子は記事を見た。そこには「東工大の学生水死」と見出しがあり、その横に「学生運動の抗争か?」という小さな文字が添えられていた。現場写真付き三段抜きの、大きな扱いであった。
記事によると、
(昨夜午後五時、大田区蒲田の新呑川で、近くに住むクリーニング店主が水死体を発見。所持品から東京工業大学一年の光本孝次郎さん(十九)と判明した。解剖の結果、全身に打撲傷が認められたが、肺に大量の水を吸い込んでいることから、生きたまま川に投げ込まれ、水死したものと断定された。光本さんに学生運動の経歴はないが、蒲田署の担当者によると、犯行の手口から、学生運動の抗争に巻き込まれたものと見ている)
「光本孝次郎って、マスターの事じゃないの」
万里子は驚いた。
「そうなんですよ、ぼくもこの記事を発見したときは、わが目を疑いましたよ」
山元が言うと、
「マスターの話だと、蒲田で亡くなったのは親友の猪狩伸二でしたよね」
と、篠原が言うと、
「でもこの新聞記事だと、亡くなったのがマスターで、猪狩伸二については全然言及していないわ。でもマスターは現に生きているし……。そうなると、いったい猪狩伸二って誰なの、いま生きているのかしら?」
万里子は混乱した。
「ぼくもまったく解らないのですが、いくつかの仮説が考えられます」
山元は冷静に言った。そして、自身の分析を語った。
一、マスターのはなしが正しければ、新聞の死亡者に誤認があった。ただし、その後の新聞記事を検索したが、死亡者の名前は訂正された形跡はない。
二、新聞の記事が真実ならば、マスターが何らかの理由により嘘をついた。マスターは光本孝次郎ではなく、まったくの別人である可能性が高い。
三、可能性は低いが、たまたま殺された学生の名前がマスターと同姓同名だった。ただしこの場合、なぜマスターが猪狩伸二という人物を、被害者として話したかが疑問。
「こんなところでしょうか?」
山元は、昨夜考えた仮説を披露した。
「でも、もしマスターが嘘をついたのだとしたら、理由は何かしら? じゃあマスターっていったい誰なの?」
万里子はマスターのはなしを信じ、心苦しさを感じてきただけに、心中穏やかでなかった。あの夜のマスターを思い浮かべると、とてもその場限りの作りばなしには思えず、信じたいと思うのだが……。
「それに岡田美幸と猪狩伸二の存在も謎ですね。もう少し調べてみますが、当時の資料などが乏しく、どこまで調べられるか……」
山元は言うと、万里子が意を決したように、
「私、来週夏休み取る予定だから、青森の原田さんと、和歌山のマスターに会いに行ってみようと思うの」
「会いに行くって、いったいどうやって行くんですか?」
と、篠原。
「ちょっと長旅だけど、車で行こうと思うの。東北自動車道で青森まで往復して、その足で東名を飛ばせば、四、五日で行ってこれるでしょう」
「そりゃ物理的には大丈夫でしょうけど、そんな強行軍で身体がもちませんよ。ちょっと無謀なんじゃないですか」
篠原が言うと、
「じゃあ篠原、つき合ってくれる?」
「つき合ってもいいですが、じつはぼく、まだ夏休みの日程を決めていないんですよ」
オリエンタルコンピューターでは、夏休みのスケジュールは、個々で調整することになっていた。各々が仕事やクライアントを抱えているため、七月中頃から八月末までの期間で、各自が一週間程度の休みを取る、という仕組みであった。
「じゃあ決めちゃえばいいじゃない」
万里子は、篠原をつき合わせようとした。
「そうは言っても先輩……、少し仕事の調整をしないと、なんとも言えない状況なんですよ」
「じゃあ調整すればいいじゃない」
「まあそうですね」
篠原は、意識的に、万里子のはなしに乗っていった。夏休みの予定は、決めてなかった。だから、万里子と真夏のドライブを楽しむのも、いいのかなと思った。
「分かりました、大河原部長が承認してくれるか不安ですが、仕事を調整して午後にでも休暇申請してみます」
篠原が言うと、
「そうしてくれると助かるわ。ありがとう篠原!」
万里子は、片手拝みのポーズをとった。
☆ ☆ ☆
その日の午後。
仕事に復帰した篠原は、来週のスケジュールを確認した。さいわいクライアントとのアポイントメントは一件のみで、それも延期可能なものであった。篠原は相手先に電話をかけ、訪問の延期を申し出て了承を得た。あとは大河原部長の承認を得るだけだ。
休暇取得はすべてがオンライン化され、机のパソコンから必要事項を入力し、承認者へ送信すれば完了する。あとは承認者の返事を待つだけである。よほど問題がないかぎり、却下されることはない。
オンライン化される以前は、上司に休暇の理由を説明し、休暇カードに承認の印をもらっていたため、どちらかというと、申請し難い雰囲気があった。それが直接顔を合わせなくても休暇申請が可能になり、営業部のようなワンマン部長がいる部署では、概ね好評であった。
篠原は、休暇理由欄に「お盆の帰省」と書いて、送信ボタンを押した。恐らく何も問題なく承認されるだろうと思っていたが、三十分後に思いもかけぬ返信が届いた。
(休暇理由について訊きたいことがあり、報告に来ること。承認は保留)
篠原が大河原部長の席に行くと、
「君の休暇申請だが、原則として申請は二週間前までであることは知っているな」
大河原部長は、上目遣いに篠原をみた。
「はい存じております。仕事の調整が手間取りまして、ようやく目処がついたのが先ほどだったもので、こういう申請をさせていただきました」
篠原はかしこまって言った。
「本来は認められないのだが……。田舎に帰るのか、お盆の帰省と書いてあるが」
「はい、もう何年もこの時期に帰省していないもので、田舎の両親からも帰ってこいと言われておりまして……。申請が遅れたことは、今後注意しますので、ご承認をお願いします」
篠原は深々と頭を下げた。
「まあ今回だけは認めるが、今後は注意してくれたまえ」
大河原は机のパソコンから、篠原の申請画面を開き、承認というボタンを押した。
「ありがとうございます」
篠原がもう一度頭を下げ去ろうとしたとき、
「ところで、木内君も同じ日程で休暇を申請しているが、まさか一緒じゃないだろうね」
大河原部長は、唐突に言った。
「いえ、違いますが……」
篠原は即座に否定したが、その瞬間、まずい言い方だと思った。本当に関係なければ、否定するのではなく、なぜそのようなことを訊くのか、という疑問がわくはずだからだ。大河原部長の誘導尋問に、見事に引っかかった格好であった。
「それならいいのだが。篠原君も将来有望なんだから、あまり軽はずみな行動はとるなよ!」
大河原はそう言うと、「帰って良し」というように片手を挙げた。
・・・つづく
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