少女と子犬の物語
「ママぁ、おねがいがあるの」
麻実ちゃんは、すこしはにかみながら、ママのエプロンを引っぱりました。
「どうしたの、めずらしいわね。麻実ちゃんがおねだりなんて」
ママは、晩ごはんの手をやすめると、ひとり娘の目線までひざを折りました。
ふだんの麻実ちゃんは、あまりものを欲しがりません。
どちらかといえば、ものしずかな恥ずかしがりやです。
こども用の英語教材であそぶのが大好きで、幼稚園からかえってくると、晩ごはんまでずっと、リビングですごします。
ママは、もう少し子供らしく、お日さまのしたで遊んで欲しいと、思っていました。
でも、麻美ちゃんには、お部屋のなかが、いちばんのようです。
麻美ちゃんは、もういちどエプロンを引っぱると、
「あのね……、あのね……」
なかなかつぎのことばが、でてきません。
「なんなの? 麻実ちゃん、なにか欲しいの?」
ママは、麻美ちゃんのあたまを、やさしくなでました。
「あのね……、麻実ね……、ワンちゃんが欲しいの」
「えっ、ワンちゃん?」
ママは、驚きました。
近所を散歩していても、すれちがう犬をみて、ママの足にからみついてくるほど、臆病な娘だからです。
「麻実ちゃんは、なんで、ワンちゃんが欲しいの?」
ママは、麻実ちゃんの目をみて、いいました。
「あのね、今日ね、翔太くんのお家でね、ワンちゃんと遊んだの」
「あら、麻美ちゃん、翔太くんのお家へいってたの。ママ知らなかったわ」
「うん。さっき翔太くんがきて、ちょっとだけ遊びにいったの」
「そうだったの。それでワンちゃんと遊んだの?」
「うん」
麻美ちゃんは、こくんとうなづきました。
「でも、翔太くんのお家って、ワンちゃんいたっけ?」
「うん、翔太くんのパパが、おとといの夜、つれてきたんだって」
「へぇ、そうなの。ママ、知らなかったわ」
ママは、ちょっとだけ目を大きくして、いいました。
翔太くんは、麻実ちゃんと同じ幼稚園にかよう、ひとつ年上のお友だちです。
お家がおとなりで、ママどうしも仲良しなので、ごく自然に、翔太くんと遊ぶようにっていました。
「ねえ、ママ。いいでしょ、ワンちゃん」
麻実ちゃんが、ママのエプロンを引っぱると、
「わかったわ、麻実ちゃん。それじゃあ、パパが『いい』と言ったらね」
「わーい、約束ね」
麻実ちゃんは、ママの頬にキスすると、
「今日、パパは、早く帰ってくるの?」
「さっき電話があって、八時くらいには帰ってくるそうよ」
「じゃあ麻実、パパが帰ってきたら、いっしょにお風呂に入る」
「はい、はい、パパにおねだりしなさい」
☆ ☆ ☆
麻美ちゃんは、おはなしがすむと、リビングで英語の勉強をはじめました。
ちいさなテレビ画面から、外国人の女性が英語でかたりかけ、それを麻美ちゃんがまねします。
耳からはいってくることばを、そのまま受けとめて声にだすので、麻美ちゃんの発音は、とてもきれいです。
「麻実ちゃん、英語がじょうずになったわね。まるで外国のひとみたいだわ」
キッチンにいるママが、はなしかけました。
「うん。だっておもしろいんだもん」
「なんでおもしろいの?」
「よくわからないけど、おもしろいよ」
まだ幼稚園の麻美ちゃんは、アルファベットを知りません。外国のこどもが、ことばをおぼえるように、ごく自然に英語をまなんでいるのでしょう。
「ママは、うらやましいわ。麻実ちゃんの英語がじょうずで」
大学生のとき、オーストラリアへ短期留学したときを思いだし、ため息をつきました。
「がんばって勉強するのよ」
「はーい」
暑さもやわらいだ、初秋の夕方。
すずしい風が、レースのカーテンをゆらし、どこからともなく、ひぐらしの鳴き声がひびいていました。
ママは、夕飯のしたくがひと段落すると、翔太くんのママに、電話をかけました。
「麻実がね、きゅうに犬が欲しいと言いだしたのよ」
「やっぱりね。おとといもらってきたのよ、知り合いの人から」
「そうなの」
「それが、相談なしだったから、もうタイヘン。いそいでホームセンターへ行って、ケージを用意したり、ドッグフードを用意したり……」
「それはタイヘンだったわね。で、なんで犬なんか……もらってきたの?」
「パパが言うには、知り合いの家でマメシバを飼っていて、ずいぶんまえから、こどもが産まれたら、ゆずってもらう約束をしていたんだって。そうしたら、先々週だったかな、産まれたと連絡があって、おとといの日曜日に、那須までもらいに行ってきたのよ」
翔太くんのママは、ふうっとため息をつきました。
「そうなんだ、それで、どんな犬なの?」
「わたしも詳しくないんだけど、マメシバっていう、柴犬のちいさい版らしいの」
「マメシバ?」
「そう、マメシバ。ふつうの柴犬より、カラダがひとまわり小さくて、飼いやすいんですって」
「ふうん、そうなの」
マメシバは「豆柴」とも書く、小型の柴犬です。
和犬としては大人しく、室内で育てられることから、とても人気のある犬種です。
でも、ほかの和犬とおなじように、春と秋に毛が抜けかわるので、こまめなブラッシングをしないと、たちまち部屋が汚れてしまいます。
やっぱり、愛情をもって手入れすることが、必要な犬種です。
☆ ☆ ☆
壁の時計から、六時のオルゴールが鳴りました。
麻実ちゃんのお家では、パパの帰りがおそいときは、ママとふたりで晩ごはんをたべます。
パパが会社へいく日は、だいたいふたりです。
「きょうも、パパ、おそいの?」
麻美ちゃんは、ママの足に、からみついてきました。
「そうなの。ママのスマホにメッセージがきて、帰りは八時をすぎるそうよ」
「なーんだ、つまらないなぁ」
「でも、まっていれば、帰ってくるわ。それより麻美ちゃん、こんやは大好きなハンバーグですよ」
ママは、エプロンをはずしながら言いました。
「わーい、ハンバーグ大好き!」
麻美ちゃんは、
「ごちそうさまでした」
晩ごはんを食べおわった麻実ちゃんは、
そう言って、リビングへ
リビングにもどりました。また英語の勉強をはじめようとしました。
しかし、日本語もしっかりおぼえて欲しいと思ったママは、
「麻美ちゃん。こんどは絵本をよみましょうね。象さんのおはなし、大好きでしょ!」
「うん、象さん大好き」
「あいうえおも、覚えないとね!」
「はーい」
来年は、幼稚園の年長組です。
ひらかなは、ほとんど読めるようになりました。
数字も、九十九まで数えられるようになりました。
「ねえ、ママ。麻実ね、なまえ書けるようになったんだよ」
「あら、すごいわね。じゃあ、ここに書いてみて」
ママが、紙とフェルトペンをだすと、
「ねえ、ママぁ。パパ遅いね」
ママが時計を見ると、はりは、八時三十分をさしていました。
「遅いね、八時には帰るといってたのにね」
「もう少し、パパが帰るの、待っててもいい?」
「そうね。でも、あと三十分待って帰らなかったら、ママとお風呂に入るのよ」
「はーい」
そのとき、玄関のチャイムが鳴りました。
「あっ、パパだ」
麻実ちゃんは、玄関にむかい、走りだしました。
☆ ☆ ☆
「どうした、麻実。なにかいいことでも、あったのかな」
パパは、麻実ちゃんを抱き上げると、ほおずりをしました。
「パパ、おひげ、いたい」
「あっ、ごめん、ごめん」
パパは、麻実ちゃんをおろすと、ママのいるリビングに向かいました。
「お帰りなさい、あなた。遅かったわね」
ママは、パパの背広を受けとりながら、いいました。
「悪かったね、ちょっと帰りぎわに、トラブルがあったもので」
「麻実が、さっきから、お待ちかねなのよ」
「なにかあったの?」
「実は…」
ママは、麻実ちゃんのお願いを、パパに話しました。
パパは、話を聞くと、
「麻実、一緒にお風呂、入ろうか」
「はーい」
麻実ちゃんは、元気よく返事をすると、パパに抱っこされて、お風呂場に行きました。
洋服を脱いで、お風呂にはいると、パパが言いました。
「麻実は、ワンちゃんを飼いたいんだって」
「うん、翔太くんちに、ワンちゃんが来たんだよ」
「どうして、ワンちゃんがほしいの、麻実は?」
「翔太くんと、遊びたいんだもん」
「ワンちゃんいなくたって、翔太くんと遊べるんじゃないの」
「ううん、翔太くんと同じがいいの」
どうやら麻実ちゃんは、翔太くんと同じようにしたいと、思っているみたいです。
そうすれば、これからもずっと、翔太くんと遊べる、と考えたのでしょう。
「ワンちゃんを飼うと、毎日お散歩させないといけないよ」
「うん、麻実、お散歩大好きだもん」
「雨の日も、雪の日も、お散歩するんだよ」
「うん、翔太くんといっしょに、お散歩させるんだ」
「本当に頑張れるかな、麻実は?」
「うん、がんばる」
パパは、麻実ちゃんの頭にお湯をかけると、
「麻実が頑張るんなら、パパはいいよ」
「ありがとう、パパ」
麻実ちゃんは、パパに抱きつき、いっぱいチューをしました。
「麻実、わかった、わかった」
パパは、うれしそうに笑いました。
☆ ☆ ☆
つぎの日。
ママは翔太くんの家に行き、マメシバのことを相談しました。
「……というわけで、うちでもマメシバを飼うことになったのよ」
「そうなんだ、なんだか申し訳なかったわね。うちが飼いだしたもんだから」
翔太くんのママは、手を合わせて、「ゴメンナサイ」のポーズをしました。
「気にしないで、そんなこと。それより、マメシバ、なんとかならないかしら?」
「うちもね、さいごの一匹を、ゆずってもらったのよ」
「そうなんだ」
「パパが言うには、マメシバって、繁殖力が弱くて、なかなか生まれないらしいの」
「そうなの、がっかりだわ」
「あとは、ペットショップを当たるしかないわね」
「わかったわ」
「ゴメンなさいね、お役に立てなくて」
ママは、麻実ちゃんのがっかりする顔を思い浮かべ、こころが曇りました。
でも、あきらめるのは早いと思い直しました。
そして、こんどの日曜日、パパといっしょに、ペットショップを回ってみよう、と思いました。
☆ ☆ ☆
その日の夜、会社から帰ってきたパパが、ママに言いました。
「今日、マメシバを扱っている、ペットショップを見つけたよ」
「あら、そう、よかったわ」
ママは、翔太くんのママに相談したことを話し、日曜日にペットショップ回りを考えていたと、パパに伝えました。
「そうなんだ、じゃあ、ちょうどよかったね」
「どこなの、そのペットショップって?」
「今日、社用車で移動中に見たんだけれど、近くの国道沿いだよ」
「よかったわ、近くで」
「店の前に、大きく『豆柴』って書いてあったから、大丈夫だと思うよ」
ママは、となりの部屋で寝息を立てている麻実ちゃんの、よろこぶ顔を思い浮かべました。
そして、今度の日曜日、見に行こうと思いました。
「パパ、日曜日は大丈夫?」
「それが、ちょっと接待ゴルフがあって、出なきゃならないんだ」
「またゴルフなの」
「ごめん、重要なお客さんなので、断れないんだよ」
「わかったわ、じゃあいいわね、わたしと麻実で決めちゃって」
「いいよ、悪いけど頼むよ」
☆ ☆ ☆
日曜日の朝がきました。
「麻実ちゃん、起きなさい、もう朝ですよ」
ママは、麻実ちゃんカラダをゆすりました。
どうやら麻実ちゃんは、昨日の夜、なかなか寝付けなかったみたいです。
「んー、眠いよ」
「麻実ちゃん、今日はワンちゃんを見に行く日でしょ」
そうだ、ワンちゃん見にいくんだ。
そう思うと、麻実ちゃんの眠気は、あっという間に消えてしまいました。
「ご飯できているから、顔と手を洗ってらっしゃい」
「はーい」
「ワンちゃんをお世話するんだから、これからはお寝坊できませんよ」
「はーい」
麻実ちゃんは、洗面所で顔と手を洗うと、キッチンに向かいました。
「ねえママ、麻実ね、夢をみたんだよ」
「へえ、どんな夢なの?」
「あのね、『たっくん』がうちに来てね、麻実ちゃんといっしょに寝たの」
「『たっくん』って?」
「ワンちゃんの名前」
「あら、麻実ちゃん、もう名前、決めちゃったの」
「うん」
どうやら、麻実ちゃんの心の中では、ワンちゃんとの生活が始まっているようです。
「でも、どうして『たっくん』なの?」
「あのね、翔太くんちが『やっくん』だから、麻実ちゃんは『たっくん』なの」
子供の感性なのでしょう。
ママには、なぜ「たっくん」なのか、わかりませんでした。
あとで翔太くんのママにきいたところ、「ヤリス」が本当の名前で、「やっくん」は愛称なんだそうです。
「わたし、むかし『やっくん』の大ファンだったので、そう呼んだら、翔太も気に入ってしまって」
翔太くんのママは、照れたように笑いました。
☆ ☆ ☆
ママが運転する車は、おおきな国道にでました。
(もうすぐ、目的地です)
パパが設定してくれたカーナビゲーションが、しゃべりました。
ママが歩道をみると、ちょうど交差点の手前に、小さなお店をみつけました。
車のスピードをゆるめると、ガラスのところに「豆柴」と書いてありました。
「麻実ちゃん、ここみたいね、パパが言ってたお店」
「あっ、ママ、ワンちゃんがいる」
麻実ちゃんは、ガラスの向こうにいる小犬を、すばやく見つけました」
どうやら、お店に駐車場はないみたいです。
ママは交差点を左にまがると、なるべく迷惑にならない場所をさがし、車を止めました。
百メートルほどあるいて、二人はお店の前に立ちました。
近くでみると、ちょっと汚れた感じで、変な匂いがしました。
ママは、少し嫌な感じがしました。
でも、せっかくここまで来たのだからと、お店のとびらをあけました。
その瞬間、むっとする匂いに包まれ、思わず鼻を押さえてしまいました。
「いらっしゃい」
でてきたのは、七十才くらいの老婆でした。
脂気のない白髪を、無造作にたばね、たばこを吸っていました。
「あの、外に『豆柴』と書いてあったので……」
「扱ってますよ、『豆柴』、奥にいるから、見ていって」
老婆は、男のような野太い声で、言いました。
奥にはいると、小さなケージの中に、小犬が六匹いました。
「あの…、これが『豆柴』ですか?」
「そうだよ、柴犬の小さいやつね」
素っ気ない態度で言うと、
「よかったら、気に入ったのを、抱いてみたらいいよ」
「は、はい」
「お嬢ちゃんは、どれがいいの?」
麻実ちゃんは、ケージの格子ごしに、ワンちゃんを見ました。
☆ ☆ ☆
小犬たちは、一匹をのこし、みんな寝ていました。
ママは、小犬たちの元気のなさが、すこし気になりました。
「麻実ちゃん、このワンちゃんがいい」
ただ一匹、目を覚ましていたワンちゃんを、麻実ちゃんは指さしました。
ほかの犬は、みんな茶色の毛並みでした。
ただ一匹、麻実ちゃんが指した小犬だけが、茶色と白と黒のブチで、その模様が気に入ったようです。
「お嬢ちゃんは、この犬が気に入ったの」
「うん、麻実ちゃん、このワンちゃんがいい」
麻実ちゃんは、ママの顔を見ました。
ママは、ちょっと困った顔をしました。
犬は可愛いのですが、お店がちょっと不潔で、信頼できなかったからです。
店の老婆も、それほど犬好きには見えません。
「お嬢ちゃん、よければ、お家に連れてってもいいよ」
「いいの? ママ、お家に連れてってもいいの?」
麻実ちゃんは、嬉しそうに、ママを見上げました。
「でも麻実ちゃん、まだワンちゃんを迎える準備もできてないし……」
「でも、麻実、このワンちゃんと帰りたい」
「麻実!」
ママは、困ってしまいました。
「お金はあとでいいから、とりあえず連れて帰ってみたら」
「でも、本当に準備ができてなくて…」
「大丈夫、まだ小さくて、寝てばかりだから」
「そうですか…」
まだママは、決めることができません。
「いちおう、狂犬病の予防接種は、済ませていますからね」
そう言われて、これ以上こばむこともできず……。
連れて帰ることにしました。
「じゃあ、お言葉にあまえて、連れて帰りましょうか、麻実ちゃん」
「わーい、麻実、いっぱいお世話するからね」
☆ ☆ ☆
パパが接待ゴルフから帰ってきたのは、午後七時をすこし回っていました。
「ただいま」
「パパ、お帰りなさい」
でむかえた麻実ちゃんの腕には、小犬の「たっくん」がいました。
まん丸の黒い目をパパに向けると、「くーん」と小さな声を出しました。
「おっ、ワンちゃん、もう家に来ちゃったの」
「うん、パパ、麻実ちゃんね、一生懸命お世話するからね」
「そうか、よかったね」
パパは、麻実ちゃんと、小犬の「たっくん」の頭をなでました。
その日の夜、麻実ちゃんは、「たっくん」といっしょに、ベッドに入りました。
麻実ちゃんが寝ると、ママは今日のことを、パパに報告しました。
「それがね、お店の雰囲気が、そんなによくなかったもので」
「じゃあ、なかば無理矢理って感じだったの?」
「そうなのよ、麻実が気に入っちゃったものだから…」
「あまり清潔じゃないのが、少し気になるね」
パパの顔も、すこし曇りました。
「なにもなければ、いいんだけれど…」
「狂犬病の予防接種はしてあるというんで、とりあえず心配はないと思うんだけれど」
「それは安心だね」
「でもね、混合ワクチンがまだなんですって」
「その混合ワクチンって?」
「いろいろな病気の予防なので、受けるまでは、外で遊ばせちゃいけないんですって」
パパも少し心配顔でしたが、麻実ちゃんの嬉しそうな顔を思い出すと、
「まあ、麻実が喜んでいるんだから、返すわけにもいかないね」
「そうね」
こうして「たっくん」は、麻実ちゃんちの家族になったのでした。
☆ ☆ ☆
次の日の朝、麻実ちゃんは、ママに起こされないで、目を覚ましました。
いつものように、顔と手を洗い、キッチンに行くと、
「おはよう、よく眠れた?」
ママは、やさしく声をかけました。
麻実ちゃんの足もとには、「たっくん」が座っています。
「あら、『たっくん』も一緒なのね」
「うん、麻実ちゃんと一緒に寝たんだよ」
「そう、よかったわね」
ママは、麻実ちゃんの表情が、明るくなったと思いました。
やはり、「たっくん」が家に来て、自覚がめばえたのかもしれません。
「麻実ちゃん、『たっくん』はまだ、お外に出しちゃいけないのよ」
「なんで、お散歩にいっちゃ、だめなの?」
「まだ『たっくん』は小さくて、お外に慣れてないのね」
「じゃあ、いつごろ、お散歩にいけるの」
「もうちょっとしたらね」
ペットショップの老婆から、混合ワクチンの接種がまだだと説明されました。
犬を初めて飼うママには、よく事情が飲みこめなかったのですが……。
ワクチンの接種を受けるまでは、外で遊ばせないようにと言われたので、麻実ちゃんにも注意をしたのでした。
そろそろ、幼稚園のバスがくる時間です。
麻実ちゃんは、朝ご飯を食べると、
「ママ、『たっくん』をたのみますね」
ちょっと大人ぶった言い方をしました。
麻実ちゃんを、翔太くんの家にあずけるときの、ママの口調をまねしたのでしょう。
「はいはい、ちゃんと面倒みますから、安心してお出かけください」
ママも、翔太くんのママの口調で、こたえました。
そとで、幼稚園のバスが、クラクションを鳴らしました。
「麻実ちゃん、はいお弁当」
「はい、じゃあ、いってきます」
☆ ☆ ☆
麻実ちゃんが幼稚園に行き、パパも会社へ出かけると、ママは、初めて飼う「たっくん」のお世話という仕事がふえ、とても忙しくなりました。
もちろん、「たっくん」は、しつけられていません。
キッチンでおしっこをしたり、リビングでうんちをしたり。
そのつどママは、「犬のしつけ」という本をひろげます。
そして、「たっくん」に、トイレのしかたを教えます。
「もう、またおしっこしちゃったの」
ママは、大切なカーテンに、黄色いシミをみつけ、おもわず声をあげました。
「くうん」
「たっくん」は、小さな鳴き声をあげました。
そして、上目づかいにママをみると、
「そんな目をしないのよ、『たっくん』」
ママは、「たっくん」の目つきが、ちょっと嫌だなと思いました。
でも、「たっくん」は小犬です。
いま、この世に生を受け、一生懸命生きようとしているのです。
麻実ちゃんが生まれたときも、おむつを取り換えたり、ミルクをあげたり、寝不足の日 をおくったのだと思ったら、「たっくん」のお世話も、少しは気持ちが楽になりました。
☆ ☆ ☆
つぎの土曜日、ママは「たっくん」のお金を支払いに、ペットショップに行きました。
麻実ちゃんも行きたいと言うので、「たっくん」と三人でお出かけです。
ワクチン接種がまだなので、少し心配だったのですが、車の中なので、悪いばい菌はいないと考えました。
このまえと同じ場所に車を止めると、ママが「たっくん」を抱き、ペットショップにむかいました。
ドアをあけると、このまえと同じ老婆が、「いらっしゃい」といいました。
そして、麻実ちゃんをみると、
「ワンちゃんと仲よくなったかい」と言って、頭をなでました。
ママは、用意したお金を出すため、「たっくん」を床に下ろしました。
すると老婆が、ペット用のクッキーを床におき、「たっくん」に食べるよう、うながしました。
ママは、食べ物を床に直おきすることに、ちょっと抵抗を感じましたが、止めてくださいとも言えないので、見過ごしました。
「たっくん」は、何も疑わず、クッキーを食べています。
そして、「もっとちょうだい」というように、老婆にすがるしぐさをしました。
いまから考えると、これが悲劇の始まりだったのかも知れません。
ママは、「たっくん」の代金を払うと、逃げるように、ペットショップを後にしました。
「さあ、帰りましょう」
麻実ちゃんをチャイルドシートに座らせると、ため息をひとつつき、車を発進させました。
☆ ☆ ☆
麻実ちゃんと「たっくん」は、いつでもいっしょです。
麻実ちゃんは、小さいながらも、「たっくん」のママになりました。
「いけませんよ、ちゃんとトイレで、おしっこしましょ」
まるで、ママと同じ口調です。
ママは、そんな麻実ちゃんを見て、はやく外で遊ばせたいと思いました。
「ねえ、ママ、いつになったら、『たっくん』とお外で遊べるの?」
「来週になったら、お医者様に、注射をうってもらいましょうね」
「注射うったら、お外で遊んでいいの?」
「いいわよ、お庭でも、公園でも」
「わーい、はやく来週がこないかな」
「もうちょっと、がまんしてね」
ママは、麻実ちゃんが外で遊びたいと言ったとき、「たっくん」を家族にむかえて、本当によかったと思いました。
内向的な性格が、とても気になっていただけに、心配が、すうっと消えた感じでした。
「麻実ちゃん、いっぱい遊んでね」
「うん、麻実ちゃん、『たっくん』といっぱい遊ぶよ」
「それから、お勉強もね」
「はーい、本もいっぱい読むよ」
☆ ☆ ☆
「たっくん」が麻実ちゃんの家に来て、七日が過ぎようとしていました。
麻実ちゃんと「たっくんは」、寝るときもいっしょです。
まるで仲のいい兄弟のようでした。
翔太くんも、ときどき遊びにきてくれます。
でも、翔太くんちの「やっくん」は、きれいな茶色ですが、「たっくん」の模様が茶色と白と黒のブチなので、ちょっと気に入らないみたいです。
「『たっくん』の模様、ヘンだよ!」
「そんなことないよ、可愛いよ!」
麻実ちゃんは、翔太くんの言いかたが、ちょっと不満です。
「だって、色が混ざっているもん」
「その方が可愛いもん」
「可愛くない」
「可愛い」
その日は、翔太くんと言い合いになり、麻実ちゃんのこころは、すこし暗くなってしまいました。
「ママ、翔太くんがね、『たっくん』の模様、ヘンだっていうの」
「あら、そうなの」
「そんなことないよね」
「そうね、翔太くんと麻実ちゃんじゃ、ちょっと感じ方が、ちがうのかな?」
ママは、麻実ちゃんが、ものごとを一方的に考える子に、なって欲しくないと思いました。
「感じ方?」
「そう、感じ方よ。だって、翔太くんはカレー好きだけど、麻実ちゃんは辛いの苦手でしょ」
「うん」
「麻実ちゃんと翔太くんでは、好きなモノが違うように、いいと思うことも違うの」
「でも、『たっくん』かわいいよ」
「翔太くんだって、かわいいと思っているわよ。でもね、やっぱり、いつもいっしょの『やっくん』の方が、翔太くんには、かわいいのよ。わかるでしょ、麻実ちゃんも」
「うん」
麻実ちゃんには、ちょっとむずかしかったかも知れません。
でも、ママの言いたいことは、なんとなくわかりました。
☆ ☆ ☆
その日の夜、麻実ちゃんは、「たっくん」の異常に気がつきました。
「ママ、『たっくん』が元気ないの」
「まだ赤ちゃんだから、眠いんじゃないの、『たっくん』も」
「ううん、おしっこシートに、赤いモノがついていて」
麻実ちゃんは、顔を横にふりました。
「赤いモノって?」
「わからない」
ママは、「たっくん」のいる、麻実ちゃんの部屋に行きました。
たしかに「たっくん」は、元気がありません。
カラダを横にしたまま、なんだか苦しそうな呼吸をしています。
「たっくん」
ママの呼びかけに、目だけが動きました。
「あら本当、血がついているわね」
ママは、おしっこシートのシミが、血だとおもいました。
それは、真っ赤な色をしていました。
「どこから出血しているのかしら?」
ママが「たっくん」のカラダを動かすと、出血の場所がわかりました。
お尻です。
「たっくん」のお尻の穴から、血が出ていたのでした。
「下血だわ」
ママは、なにか不吉な予感をおぼえました。
そして、まだ会社にいるパパに、電話をかけました。
「あなた、お仕事中ゴメンなさい」
ママは、「たっくん」のようすを、パパに話しました。
「下血じゃ大変だ。すぐに病院に連れて行かないと」
パパも驚きました。
「病院と言っても」
「ほら、さくら橋の手前に動物病院があるじゃない」
「ああ、あそこね」
「ボクも、仕事を片づけたら、すぐに帰るから、早く病院に連れて行って」
「わかったわ」
ママは、「たっくん」をバスタオルにくるむと、麻実ちゃんといっしょに、動物病院にむかいました。
☆ ☆ ☆
病院の入り口は、すでに閉まっていました。
診療時間は午後五時までです。
ママは、ドアの横のチャイムを押しました。
「はい、なにかご用でしょうか?」
インターフォンから、声がしました。
「すいません、急患なんですが、看ていただけませんか?」
「あ、はい、ちょっとお待ちください」
たぶん、先生に訊いているのでしょう、すこし待たされたあと、
「はい、看ますので、ちょっとお待ちください」
「ありがとうございます」
ママは、親切な病院の対応に、こころから感謝しました。
この動物病院は、麻実ちゃんの検診で、市民病院へ行くとき、いつも前を通っていました。
三年前に開業した、新しいお医者様です。
ちょっと無口で、とっつきづらい感じですが、診療はていねいで、親身に看てくれると評判でした。
診察室に入ると、ママは「たっくん」を、診察台に寝かせました。
すでに、立つ元気もありません。
先生は、「たっくん」をひと目みると、顔を曇らせました。
「先生、大丈夫でしょうか?」
「調べてみないとわかりませんが、重い病気かも知れません」
先生は、めがねの奥の目をギョロリとさせ、ママに言いました。
「重い病気って、そんな悪いんでしょうか?」
「下血していますね。もしかしたら、パルボかもしれません」
「パルボ?」
「そう、パルボです」
ただならぬ気配を感じたのか、麻実ちゃんはおびえたような表情で、ママの足に抱きついていました。
☆ ☆ ☆
先生は、「たっくん」の下血を採取し、いったん検査室に行きました。
その間も「たっくん」は、苦しそうに口をあけ、息をしています。
「くーん、くーん」
「たっくん」の鳴き声は、「助けて、痛いよ」と言ってるようで、ママには、とても耐えられませんでした。
でも、麻実ちゃんの前で、弱い顔はできません。
「麻実ちゃん、いま「たっくん」は病気で、先生が治してくれるから、早くよくなるように、いっしょにお祈りしましょう」
ママは、自分に言い聞かすように、言いました。
二十分ほど経ったでしょうか。
先生が検査室から出てくると、
「やはりパルボですね」
「先生、パルボって、悪い病気なのでしょうか?」
「生まれたばかりの小犬だと、難しい病気です」
「難しいと言いますと?」
「助かる可能性が、非常に低いと言うことです」
ママは、目の前が、真っ暗になりました。
そして、その場に倒れ込んでしまいました。
「ママ、ママ、大丈夫」
麻実ちゃんが、ママの身体を揺すりました。
「おい、手伝ってくれ」
先生は、看護師の奥さんに声をかけると、ママをソファーに運びました。
「すいません、先生。大丈夫ですから」
「いやいや、恐らく貧血だと思うので、しばらくは横になっていてください」
「はい」
☆ ☆ ☆
それから三十分ほど経って、パパがやってきました。
「ママ、大丈夫か?」
「わたしは大丈夫。それより『たっくん』が…」
「ああ、いま先生から聞いた」
「わたし、どうしていいか」
ママの目は、パパの顔をみた瞬間、涙があふれてきました。
パルボは、人間で言えば「天然痘」にも匹敵する、恐ろしい病気です。
ウイルスで感染する病気で、生後間もない小犬では、その日のうちに急死することもあります。
「最近、おう吐や下痢はしていませんでしたか?」
パパは、ママの顔を見ました。
「はい、ときどき食べたものを吐いたり、していました」
「下痢は?」
「はい下痢もしていました」
「やはりね」
「小犬では、おう吐や下痢は、よくあることだ、聞いていたので…」
ママは、顔を手でおおうと、肩を震わせて涙を流しました。
パパは、ママの肩を抱くと、
「ママが悪いんじゃないよ、ウイルスなんて、防げないよ」
「ママ、ママ、泣かないで」
麻実ちゃんも、ママをなぐさめました。
☆ ☆ ☆
「ところでご主人、これからの治療なんですが」
先生は、改まるように言いました。
「このまま放っておけば、一両日中に『たっくん』は亡くなります」
「そんなに急なんですか」
「はい。ただですね、インターフェロンと抗生物質を投与することで、助かる可能性が、無いわけじゃありません」
「というと、助かる可能性があるんですか?」
パパも必死に、ききました。
「正直に言えば、可能性は限りなくゼロに近いですが」
「そうですか…」
パパは、考え込んでしまいました。
「あなた、助かる可能性があるなら、その治療にかけましょうよ」
ママは、「たっくん」の世話をしていたという、責任を感じているようです。
「ママの言うことも、わかるんだけれど」
「わかるんだけれど?」
「助かる見込みが少ないんだったら、治療を続けるのはどうかな」
「でも、可能性はあるのよ」
ママは、訴えるように言いました。
「ママ、よく聞いてほしいんだ。ボクがベトナムに赴任したとき、東南アジアで、薬さえあれば助かる命が、なにもできずに、消えて行く現実を、たくさん見てきたんだ。そのことを思い出すと、可能性のない治療に、高価な薬を使うことに、抵抗があるんだ」
「……」
「だから、ママの気持ちは痛いほどわかるし、ボクも『たっくん』が助かるなら、何百万円出しても、惜しくないよ。でも、いまは『たっくん』が苦しまないで、その時を迎えさせてあげることが、最良なのかなと思うんだ」
「パパ…、パパの言うこと、わかったわ。でも、それでもわたし、『たっくん』を助けたい。いま最善を尽くさないと、一生後悔するような気がするの」
「ママ…」
「ゴメンなさい、わたしパパみたいに強くなれない」
ママの言葉は、パパの胸にひびきました。
「わかったよ、ママ。じゃあ治療をお願いしよう」
☆ ☆ ☆
「たっくん」の細い前足には、点滴のおき針が射されました。
ママが「たっくん」を抱き、パパが点滴の薬をもつと、
「先生、ありがとうございました」
頭を下げて、病院のドアをあけました。
「せんせい、ありがとう」
麻実ちゃんも、ママのまねをして、頭を下げました。
ことの重大さには、うすうす感づいているようです。
二人が帰ると、先生は診察室を消毒しました。
また明日も、診療があります。
一匹たりとも、ウイルスを残すわけには、いきません。
「いい先生で、よかったね」
パパは、時間外にもかかわらず、ていねいに診察してくれた先生に、こころから感謝しました。
「本当ね、いい先生でよかったわ」
☆ ☆ ☆
その日の夜は、パパもママも、眠れませんでした。
「たっくん」の下血は、ますます激しさをましています。
「こんな小さなカラダで、どうしてこんなに血がでるの」
ママは、「たっくん」のお尻をふきながら、つぶやきました。
「ママは少し休んだら。ボクが『たっくん』をみているから」
「うん、でも大丈夫よ。パパは明日も仕事なんだから、休んで」
「ありがとう、でもママだけに任せられないよ」
「ありがとう、パパ」
ママは、病院で先生のことばが、とても気になっていました。
「こういう目つきをするのは、いじめられた子に多いんですよ」
「いじめられた?」
「そうです。犬は、小さいときにいじめられたりすると、それがトラウマになって、おびえたり、威嚇したりするんですよ」
「じゃあ、『たっくん』の目つきは、いじめられたことが原因だと?」
「その可能性は、否定できませんね」
こんな小さいときから、いじめられていたなんて。
ママの目から、涙が落ちました。
そのとき、「たっくん」が「くーん」と鳴くと、頭を少し持ち上げました。
「どうしたの、『たっくん』」
ママは、「たっくん」が横たわるケージを、のぞき込みました。
「お水が欲しいじゃないか」
パパがいうと、ふたたび「たっくん」が、「くーん」と鳴きました。
「そうなの、お水なの」
ママは、麻実ちゃんが風邪のときに買った吸い飲みを、「たっくん」の口元にもってゆきました。
でも、「たっくん」は、口元にあふれるお水を、うまく飲み込めません。
ママは、「たっくん」のためだと思い、少し強引に、口の中にお水を流し込みました。
「あなた、ごめんなさい」
「おまえのせいじゃないよ。自分を責めちゃいけないよ」
「でも、わたしが守ってあげあれなかったから」
ママは、こらえていた感情が、一気にふき出すように嗚咽しました。
パパは、ママの身体を抱くと、
「麻実が、人や動物を愛おしみ、優しい人間に育つためには、生と死をしっかり受け止め、最大限の努力を見せることだと思うんだ」
「……」
「ママも試練だけれど、それ以上に麻実も試練なんだよ」
「……」
「いまボクたちがしっかりしないで、どうするんだ、なあ、ママ」
「パパ、ありがとう。そうよね、麻実のためにも、しっかりしないと」
まどの外は、しらじら夜が明けてきました。
どうやらこの夜は、「たっくん」の炎が消えることは、ありませんでした。
でも、予断は許しません。
☆ ☆ ☆
翌日、「たっくん」の容態は、すこし回復したように見えました。
薬が効きはじめたのかも知れません。
「あなた、『たっくん』が立ち上がろうとしている」
ママは、ソファーで仮眠をしているパパに、声をかけました。
「本当か」
パパがケージをのぞき見ると、たしかに「たっくん」が立ち上がろうと、点滴の針がさされた、細い前足に、力をいれていました。
「くーん」
「パパ、『たっくん』が声を出した」
「うん、これで元気になってくれると、いいんだけど」
「わたし、奇跡を信じたい」
「そうだね、最後まであきらめずに、見守ってあげよう」
時計の針は、午前五時を指していました。
窓の外では、スズメがうるさいほど、さえずっています。
「ママ、『たっくん』は…」
麻実ちゃんも、起きてきました。
「大丈夫よ、ほら、まだ元気はないけど、ちゃんと目を開けているでしょ」
「うん、『たっくん』、病気に負けないでね」
麻実ちゃんは、「たっくん」を見ると安心したのか、
「今日ね、おゆうぎの練習があるんだよ」
「麻実ちゃんは、ぜんぶおぼえたの?」
「うん、おぼえたよ」
「そう、よかったわね」
☆ ☆ ☆
また一日が始まりました。
麻実ちゃんとパパを送り出すと、ママは動物病院の先生に電話をしました。
「先生、昨日は本当にありがとうございました」
「いえ、そんなことは。それより『たっくん』の様子はいかがですか?」
「はい、昨夜より、すこし元気が出たような感じです」
「そうですか、きっと薬が一時的に効いたのでしょう」
「一時的なんですか?」
「はっきりはわかりませんが、非常に低い可能性に、かけていますのでね」
ママは、いまおかれている現実を、ふたたび認識しました。
「ところで、今日なんですが?」
「この病気は、ウイルスが原因で、感染性がありますので、診察が終わった五時過ぎに、来てください」
「ありがとうございます」
「その時に、新しい点滴をしましょう」
ママが電話を切り、「たっくん」のケージを見ると、信じられない光景がありました。
「たっくん」が、点滴のチューブをつないだ細い足を突っぱり、お座りの姿勢をしていたからです。
そして、いつものように白目をむけて、「くーん」と鳴きました。
「『たっくん』、元気になったの」
ママが駆け寄ると、「たっくん」はふたたび、伏せてしまいました。
いまのお座りで、体力を使い切ってしまったのか、激しい息づかいで、お腹を動かしていました。
その時、電話が鳴りました。
「ママ、『たっくん』は大丈夫?」
「大丈夫、まだ生きているわ」
☆ ☆ ☆
この物語も、終わりを迎えようとしています。
「たっくん」は、翌日の夕方、ママの胸に抱かれ、静かに息を引き取りました。
たった三ヶ月の命でした。
でも「たっくん」のことは、麻実ちゃん、ママ、パパの心の中に、いつまでも、生き続けてゆくことでしょう。
ママは、「あの店に行かなければ」と言い嗚咽しました。
パパは、「でもあの店に行ったから、『たっくん』と巡り会った」と言いました。
麻実ちゃんは、「『たっくん』のこと、忘れないよ」と泣きながら言いました。
ママは「たっくん」の亡きがらを籐のかごに寝かすと、花瓶のお花で飾りました。
そして、外で遊ぶことなく天国に旅立った「たっくん」をかかえ、ベランダにでました。
「『たっくん』、ほら、きれいな夕日でしょ」
そのとき、雲のきれ間から、いくすじもの光が輝きだしました。
それは、「たっくん」の魂が、天国に旅立つ道のように見えました。
「ママ、僕は思うんだ」
「何を?」
「『たっくん』の死を無駄にしないために、麻実には、人を愛し、人を敬う、優しい人間に育てないといけないと」
「そうね、『たっくん』はずっと私たちの心に、生きているんですものね」
「そう、麻実の心にもね」
おわり
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