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通勤日記ー席を譲られてー

 ぼくは腰に持病がある。自宅でデスクに向かっているときに、たまたま書類が落ちた。椅子にかけたままそれを拾おうと腰を曲げた瞬間、激痛が全身を突き抜けた。ひたいには脂汗あぶらあせがうかび、しばらくは動くことさえできなかった。

 医者の診断によれば、いわゆるぎっくり腰というやつで、さらに軽度の椎間板ついかんばんヘルニアでもあることがわかった。それ以来、冬が近づくと腰が痛みだす。一般的な腰痛は左右均等ではなく、どちらかにかたよる傾向があるというが、ぼくの場合は左側が痛む。

 帰りの有楽町ゆうらくちょう線でつり革につかまっていると、ももの裏から足首にかけてジーンと痺れてくることがある。座骨神経痛ざこつしんけいつうというのだそうだが、じつに不快な感じである。こうなると立っているのも辛く、なるべく右足に体重をかけるように立つのだが、自宅に戻ると今度は右足が痛み、踏んだり蹴ったりの一日となってしまう。

 そんな冬のある日。

     ☆     ☆     ☆

 その日は、横浜の関内かんない駅近くにある神奈川かながわ支社へ直行し、その足で青梅おうめへ行く予定であった。ある物件のトラブルで、関係する工場担当者と対策会議を行うため、関内から京浜東北線に乗ったのが午前十時ごろだった。ぼくより年長の営業マンと二人、気の重い会議に向けて足取りも重かった。

 ただ、この日の腰は快調で、歩いていても別段つらいことはなかった。東京駅で青梅特快おうめとっかいに乗り換える予定だったので、関内から京浜東北線に乗った二人は、横浜駅で東海道線に乗り換えた。

 ちょうど入ってきた車両は、新型の車両で座席は窓際に一列のタイプであった。以前の東海道線は、必ず四人掛けのボックス席だったのだが、やはり通勤時間帯の輸送力アップなのだろう、より多くの人が乗れる座席一列タイプに移行しつつあるようである。

 車両に乗り込むと、さいわい一人分の空き席があった。ぼくは、腰の具合もいいし、相手は年上だし、当然同行の営業マンに席を譲った。そして横浜駅を発車ししばし時間が経ったころ、突然営業マンがぼくに向かいこういった。

「ところで志方さん、もう腰の具合はいいの?」

「今日は辛くないですね」

「気をつけないとね、もう若くないんだから」

 ところが、この話が聞こえたのだろう、営業マンの横に腰掛けていた女性が、突然ぼくに席を譲ろうとした。年の頃は二十代前半であろうか。大人しそうなお嬢さんであった。

「よろしければどうぞ」

 女性は腰を浮かし、ぼくに座るようにうながしている。でも、ぼくには席を譲られた経験がない。ましてや席を譲ってもらうほどの歳でもない。だから、どのように対応していいかのか判断に迷ってしまった。譲られるイコール年寄りという観念が、ぼくの根底にあったのかも知れない。

「すいません、でもいいですよ、座っていてください」とぼく。

「いえ、どうぞ」

 このとき、座っていた営業マンが、

「座らせてもらいなさいよ、無理しないで」。

 この一言で、ぼくは座席に腰掛けることになった。座って前をみると、すでに女性はドア付近まで移動してしまい、お礼をいうタイミングをいっしてしまった。

 正直にいえば有り難かった。無用な見栄みえを張らずに、好意を気持ちよく受けた方が良かったと、少し反省をした。

 その後、最近娘を嫁に出した営業マンの話を聞きながら、東京駅に着いた。ドアが開く前に横を見ると、まだ席を譲ってくれた女性が立っていた。ぼくはすかさず立ち上がると、女性に近づきお礼をいった。女性は軽く会釈を返すと、階段へ消えていった。

 なんだか清々すがすがしい気持ちになった。その後の会議は、上手くいかなかったが。

・・・つづく

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