見出し画像

各駅停車「長岡行き」の思い出

 ぼくがまだ若かった、昭和五十年ごろのはなし。

 金はないけどスキーに行きたいとき、各駅停車「長岡行き」をよく利用した。いまでこそ、スキーは車で行くのが当たり前だが、当時は電車を利用するものだった。スキーブームが到来する前で、バスツアーもそれほど運行されていなかった。

 目的地は越後中里えちごなかざとスキー場。駅の改札を出れば、そこがゲレンデという絶好のロケーションが、時間を無駄むだにできない日帰りスキーヤーには、とても便利だった。見方を変えれば、駅舎えきしゃがスキー場の中にあるともいえる、当時としてはとてもユニークなスキー場だった。(現在は湯沢中里スキー場)

 上越新幹線が開通したころに、各駅停車「長岡行き」はその役目を終えたようだ。鉄道マニアではないが、年々長距離の普通列車がなくなっていくのいが悲しい。

 余談だが、急行「高千穂号」で、東京から西鹿児島駅まで、旅をしたことがある。下関までは、鹿児島本線回りの「桜島号」と連結し、そこからは先は、日豊にっぽう本線まわりで西鹿児島駅まで。硬いボックスシートに28時間はつらかったが、耐えて到着したときは、本当に嬉しかった。

 閑話休題かんわきゅうだい。はなしを戻そう。

 当時は午前六時ごろ上野を出発し、途中の浦和駅には六時半少し前に停車したと記憶している。朝早く起きて、始発の東武東上線から山手線を利用し、上野駅まで重い荷物を担いだ。ある時は、無謀にも自転車で浦和に出たこともあった。ザックを背負い、スキーの板をハンドルの所に掛けて、寒い朝自転車を走らせていたのだが、今考えると危険な行為だった。

 当時は、各駅停車「長岡行き」でスキーに行く人が大勢いた。ボックス席に腰掛けていると、仲間意識からか直ぐに会話がはずんだ。スキーブームが訪れる前のことで、こんな早い時刻に時間のかかる列車でスキーに行く人は、よほど好きな人だという共通認識があったのだろう。スキー場の情報なども、会話の中から得ていたように思う。

 当時のスキー列車では、スキーの板を網棚の下に引っかけて、吊った状態で車内に持ち込んでいた。そのために、スキーのケースには、かならず二カ所にフックが付いていた。 ところが、この各駅停車「長岡行き」は、ボックス席の他に、ドア付近にも二人掛けのシートがあり、座席の前には通勤列車と同じようにつり革が付いていた。このつり革を吊る鉄パイプがすぐれもので、網棚の下に引っかけられなかったスキー板は、左右二本の鉄パイプの上に置かれた。限りあるスペースを有効活用できる、素晴らしい鉄パイプだった。

 途中の高崎駅では、駅弁を買って腹ごしらえをした。当時はコンビニなんてなかったので、駅弁が唯一ゆいいつの食料だった。おにぎりやサンドイッチがいつでも買える今、本当に便利な世の中だと思う。

 そして国境の長いトンネルを抜けると、暗やみの先に白い世界が広がった。この当時も、清水トンネルがループしていたのは過去のことだったが、それでも本当に長いトンネルだった。闇の中を走っているときに、雪の状況や天気のことなどを考え、わくわくどきどきしたものだ。

 越後中里えちごなかざと駅には、午前十時過ぎに到着したと記憶している。この列車の乗るほとんどの人がスキーヤーなので、駅が近づくとザワザワとスキーの準備が始まった。スキーウェアに着替え、スキーブーツにき替え、スキーの板をケースから出し、列車が駅に到着するのを待つ。少しでも時間を節約するための工夫だ。そして、列車が駅に着いて人々が歩き出すと、改札に出るための歩道橋には、ガシャガシャというスキーブーツの音が響き渡った。

 改札を抜けると、そこはゲレンデ。改札前に建つカザマスキーのレンタルハウスで、コインロッカーに荷物を預け、すぐにスキーの開始となった。この当時、正面のリフトはまだシングルだったが、それでもリフト待ちでイライラした記憶はない。まだスキーがマイナースポーツだったからだろう。

 余談だが、いつだったか正面のリフトがダブルになった頃、このスキー場を一人で訪れたことがあった。たまたまリフトで一緒になった女性と話をしていると、彼女(一児の母だった)がこう言った。

「久しぶりにこのスキー場に来ました。実は主人と知り合ったのがこのスキー場で、やっと子供も大きくなったので、結婚以来初めて訪れたんです。前のリフトに乗っているのが、主人と子供なんです」

 当時独身だったぼくには、こんな出逢いはあこがれだった。

 話をもどそう。越後中里スキー場は、駅から正面に見える急な壁斜面かべしゃめんもあり、また裏に回り込む初心者向き斜面もあり、結構楽しめるスキー場だ。正面の壁はハードなので、あまり滑る人はいなかった。注目度も高く、滑るにはそれなりに覚悟が必要だった。

 最近は、迂回コースを整備したり、こぶを削ったりして、上級者でないと乗れないリフトが少なくなった。それはそれで良いことだと思うが、少し寂しいような気もする。

 越後中里スキー場でたっぷりスキーを楽み、気持ちいい疲労感につつまれたころ、スキーの道具をしまい帰りしたくをはじめた。帰りも各駅停車「上野行き(長岡発)」という列車を利用した。確か午後四時ごろ越後中里駅に到着したと記憶しているが、この時間までリフト一日券で三十回は乗った。まあ若かったからで、いまはもう無理だと思う。

 そして午後四時前に帰りしたくを整えると、スキーウェアのまま列車の到着を待った。スキー場の土産物屋でビールを二缶と、蒲鉾かまぼこやさきイカなどのつまみを買い込み、帰りの列車で飲むのが楽しみだった。時には、乗り合わせたスキーヤーからうまい新潟の地酒をご馳走ちそうになったこともあった。

 アルコールで気持ちよくなると、スキーの疲れもあって、直ぐに睡魔すいまが訪れた。そして上野までぐっすりなんてことも度々。終点上野には、午後八時過ぎに到着したと記憶しているが、その日は満足感でいっぱいだった。

 往復の運賃が四千五百円くらいだったかな? リフト一日券が二千円くらいで、全てあわせても一万円でおつりがくるスキーだった。

おわり

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?