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通勤日記ーラーメン悶着ー

 ぼくが新入社員のころ、正月開けの初日に仕事をする人はいなかった。その日は、新年のあいさつや、あたらしい手帳に住所録を転記したりして、まったり過ごすのが当たりまえだった。

 まあ、この「通勤日記」には「むかしは良かった」という言葉がよく登場するが、間違いなくあの時代は、いまより時間の流れがゆったりしていた。

 パソコンなんてものは無かったから、エクセルやワードの使い方や機能でなやまなかったし、携帯電話やポケットベルも存在しなかったので、つねに存在を監視され追いかけ回されることもなかった。

 まあ、インターネット、コンプライアンス、ガバナンス、ICT、ビッグデーターなどなど、最近はやりの言葉などない時代だから、プリミティブに仕事をこなせば、何とかなったんだと思う。

 まあ、それをもって、「良い時代」と言い切るのもどうかと思うが、わからない漢字を辞書でしらべるのは、インターネットで導くよりも、案外たのしいものだった。

 さらにいえば、年末の最終日も、正月明け初日と同じように、まったりとした時間が流れていた。

 ぼくの勤めていた会社では、年末の最終日は半ドンと決まっていた。そして、新年をきれいな職場で迎えるために、この半ドンは職場の全員で大掃除をおこなうのが、毎年の恒例行事であった。

 職場で煙草たばこが吸えた時代、キャビネットに洗剤をスプレーすると、ヤニ色の液体がすうっと垂れ、それを拭き取るのが新人の役目だった。ぼくは煙草を吸わないので、この作業はつらかった。

 そして、十二時ごろまで大掃除をして、一年のシメを行った後にビールで乾杯となる。この慣習、会社からは禁止されているのだが、なかなか無くならなかった。やっぱり、一年の節目として、ご苦労さん的な乾杯が必要だったのだろう。

 この話は、そんな年末の帰り道でのことである。

     ☆     ☆     ☆

 ビールを飲んで少しほろ酔い気分で会社を出たのが、午後二時過ぎだった。空が明るいうちにビールを飲むのは、実に清々しい開放感がある。火照ほてった身体からだには、木枯こがらしが心地よい。

 いつものように浜松町はままつちょうで山手線に乗り、乗り換えのため有楽町ゆうらくちょうで下車したとき、何となくラーメンが食べたくなった。飲んべえの多くが経験していると思うが、イッパイ飲んだ帰りはラーメンを食べたくなるのだ。

 有楽町には、御用達ごようたしのラーメン屋が二軒ある。ひとつが喜多方ラーメンの坂内ばんないで、もうひとつが札幌ラーメンの芳欄ほうらんである。なぜ御用達かを書くと長くなるが、坂内は普通のラーメンがチャーシュー麺のようであり、チャーシュー麺に至ってはチャーシューで麺が見えないほどである。このボリューム感が好きなのだ。また芳欄は、古典的札幌ラーメンと銘打っていて、コクのあるスープが何ともいえず旨い。

 この日は、ガード下の坂内に入った。昼飯時は結構並ぶのだが、少し時間がずれていたので、待たずにカウンター席に座れた。それでも店内は八分方入っていて、少し待たされることを覚悟しながら、ラーメンを注文した。

 このラーメン屋は、品書きには「焼き豚ラーメン」と書いてあるのだが、店の人は「チャーシュー麺」と発するため、常連は「チャーシュー麵ひとつ」と注文する。吉野家の牛丼が、「並」といえば「牛丼の並盛り」であるのと同じである。最近は、「特盛り、つゆだく、ネギ抜き」などと、注文の仕方も複雑化している。

坂内の焼き豚ラーメン

 それはさておき、ラーメンを注文ししばしぼーっとしていたら、店員が「ラーメンご注文の方?」と声をかけた。ぼくは、まさか自分ではないと思いその声を無視していたのだが、なかなか注文した主が現れない。もしかしたら、ぼくの注文したラーメンなのかなと思い、「はい」と手をげると、店員は「お待たせいたしました」といって、ラーメンを置いていった。別にそれほど待ってはいないので、その常套句じょうとうくは当てはまらないのだけれど。

 なんだか釈然しゃくぜんとしない気持ちを引きづりながらも、誰もいないのだからぼくのだと思い食べ始めた。それから一分くらいしたころだった。遠くで「ぼくのラーメンまだですか?」と、一人の男性が店員に声をかけた。明らかにぼくより前に店にいた人だった。

 ということは、いま食べているラーメンは、むこうの男性が食べるはずのものだったのか。店員はいったんカウンター後ろの注文メモを確認すると、「すぐお持ちしますのでしばらくお待ち下さい」といった。おそらく店側も、今の事態をすべて把握したに違いない。ぼくを見て、図々ずうずうしい客だと思っているかもしれない。

 だいたい、店側が注文した人を覚えていないことが悪いのであって、先に注文した男性も注意力に問題があるのだ。だからこのラーメンは、ぼくが食べることになったのだ。ぼくは心の中で言い訳をしつつ、何故かいつもより食べるペースが速くなっていることに気づいた。別になにも悪いことしていないのだから、堂々としていればいいのだけれど、何故か心の中に波立つものがあった。

 結局消化の悪い食べ方をし、いそいそと勘定を済ませ店を出ようとしたところで、先に注文した男性にラーメンが運ばれてきた。ぼくは坂内に入ったことを少し後悔しつつ、営団有楽町駅(現在は地下鉄有楽町駅)に向かい歩き始めた。

 吹き抜ける木枯らしは、心地よさよりも、寒さが身にしみるものとなった。

・・・つづく

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