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路傍に咲く花(13)

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 関東地方は十日以上も雨が降らず、連日三十度を超える厳しい暑さが続いていた。すでに四十八時間以上も睡眠をとっていない万里子まりこにとって、朝から照りつける太陽が、体力を吸い取っていくような感覚であった。

 重い身体からだふるいたたせ、駅の改札にたどり着いたとき、万里子は突然目眩めまいおそわれ、記憶を失った。そして、気づいたときは、ベッドの上だった。

「先輩、大丈夫ですか?」

 篠原しのはらが、のぞき込んでいた。

「わたし、どうしたのかしら?」

 万里子は身に起こった事態がわからず、混乱の中にいた。

「駅で倒れたんですよ。救急車で運ばれて、今は病院のベッドにいます」

「病院?」

「そう病院です。過労と脱水症状だということで、しばらく休養が必要とのことです」

 そう言われた万里子は、左手に点滴のチューブが伸びていることに気づいた。そして、事態を飲み込んだ。

「わたし、昨日も眠れなくて……。寝不足が原因だと思うわ。駅に着いたところまでは覚えているんだけれど、そこで頭がぐるぐる回りだして……」

 そういう万里子を、篠原は手で制すと、

「先輩、気をつけてくださいね。今年の夏はとくに厳しいですから。いままでお母さんもいたんですが、先輩の身の回りのものをとってくると言って、いったん自宅に戻ったところです」

「わかったわ。ところで、いま何時?」

「夜の八時です。かれこれ十時間以上眠っていたそうですよ」

 駅に着いたのが朝の八時頃だったので、正確には十二時間も記憶を失っていたのだ。若いつもりでいても、三十三才の女には、二晩連続の徹夜はこたえた。

「ところで先輩、今日リトリートのマスターから、俺宛に手紙が届いたんですよ、会社の方に」

「えっ、マスターから?」

「そうなんです。突然店を休んだので、心配しているかも知れないので、と書いてありました」

 篠原は、マスターこと光本孝次郎みつもとこうじろうからの手紙を、読んで聞かせた。

     ☆     ☆     ☆

 突然の手紙に驚かれたかも知れませんね。急な話なのですが、実家の和歌山で休養をとることにし、店をしばらく休むことにしました。あんな事があったので、翌日も店を訪れたのではないかと思いまして、いらぬ心配をかけないためにも、手紙をさしあげました。

 休養をとることと昨夜のできごとは、正直に言えば関係があります。忘れられない過去は、私にとって今でも大きな傷になっています。今はしばらく休養をとって、これからのことを考えようと思います。

 ただ、木内万里子さんにお伝え願いたいのですが、私は昨夜のできごとを感謝しております。辛い過去から目を背けて生きてきた私に、現実を再認識させてくれたのが、木内万里子さんの一言だったわけですから。

 これからの人生をより前向きで進めるよう、過去を振り返り、過去を清算し、未来に向かって歩む道を考えようと思います。

 リトリートはしばらくお休みしますが、また再開した際は、ごひいきにお願いします。またお会いできる日を、楽しみにしています。

 それまで、さようなら。

     ☆     ☆     ☆

 万里子は、マスターの手紙に救われる思いであった。心のわだかまりが、すっと消えて行くような感覚が、全身をつらぬいた。

「ありがとう、篠原。私、ずっとマスターのことが気になって、昨夜も目がえて眠れなかったのよ」

 気丈な万里子の目に涙が溜まり、ほおにひとしずく流れ落ちた。

「ところで先輩、土曜日のことなんですが、大丈夫ですか? それとも、つぎの週に延期しましょうか?」

「大丈夫よ、明後日までには回復するから。それよりも、はやく原田さんに連絡を取って欲しいの。場所はどこでも構わないから、はなしをする時間を取って欲しいと……」

 万里子の頭は、徐々じょじょに回転をはじめた。

「そうだ。それから、同じ日に木島きじまさんとも会いたいわね。できればアポイントを取ってくれない。これも早いほうがいいわ」

「わかりました。でも大丈夫ですか?」

 篠原は心配顔であった。「頭は悪いけど、身体からだだけは丈夫だから」と、事あるごとに冗談をとばす万里子であったが、それだからこそ、突然倒れたことが心配であり、不安であった。

 しかし、いったんいい出したら後には引かない、万里子の性格を熟知している篠原は、

「わかりました。明日にでも原田さんと木島さんに連絡を取ってみます」

 と言うと、ベッドの万里子に笑顔を向けた。

「ありがとう、篠原。あなた本当にたよりになるわね」

 万里子も礼を言ったが、篠原に対する感情が、いつもと違っていることに、本人は気づいていなかった。

     ☆     ☆     ☆

 万里子は、翌日の午後に退院し、吉祥寺きちじょうじの自宅に戻った。その日、父親の祐三ゆうぞうも珍しく午後七時には帰宅し、久しぶりに一家団らんの夕食をとった。

 祐三は、万里子に何か言いたそうであったが、母親の美奈代みなよたくみに話題をそらし、当たりさわりのない会話で、終始なごやかであった。それは、疲れている万里子への、母親の愛情であった。

「万里子も若くないんだから、あまり無理せんようにな」

 そう言うと、祐三は二階の書斎に上がっていった。早く帰った日は、趣味の水彩画を描くことが、楽しみであった。

 その日の夜、万里子のパソコンに篠原からの電子メールが届いた。

(先輩、その後元気になりましたか? 篠原@暑くてお疲れモードです。例のアポイントですが、木島さんとは連絡が取れましたが、原田さんは電話の応答が無く、行方がわかりません。とりあえず木島さんとは、自宅にお伺いすることで了解を得ました。時間は午後三時ですので、最寄り駅の海浜幕張かいひんまくはりで二時三十分に待ち合わせをしたいと思います。何かあれば携帯まで連絡下さい。よろしくお願いします)

 万里子は早速、返事をうった。

(篠原君、ご苦労様です。木島さんとアポとれたこと、了解しました。待ち合わせは改札前にしましょう。原田さんは、久しぶりに時間が取れて、家族旅行でもしているのかも知れないね。私も連絡を取ってみるから、篠原君も引き続きコンタクトをとってください。もうすっかり身体からだは元気ですから、心配ご無用です。お互いに頑張りましょう)

 万里子は返事を打つと、ネットスケープナビゲーターを起動し、インターネットの検索サイトを開いた。そして、キーワード欄に「気象予報士」と入れ、検索ボタンを押した。

 篠原へメールを打っていたとき思いだしたのだが、原田健三はらだけんぞうは確かホームページ作りが趣味だと言っていた。また、多趣味であることを自慢気に語り、最近では気象予報士の資格を獲得したと言っていた。自分のホームページを持っていれば、気象予報士のはなしもせているだろうと思い、検索をしてみたのだ。

 検索結果は百二十三件のページを案内した。そのタイトルを一つ一つ見ていくと、「ハラケンの玉手箱」というページを発見した。ハラケンとは、もしや原田健三のことではないかと思ったのだが、これが見事に当たりであった。実名は記載されていないが、ページ管理者のプロフィール紹介を見ると、原田健三に間違いない。

 万里子は寝不足で倒れたことも忘れ、「ハラケンの玉手箱」のページを、次々とめくっていった。

 本人が自慢するだけあって、原田健三は多趣味な人間であった。モーターレースや海外のサッカーを扱ったパートがあるかと思えば、文学や音楽に関する独自の見解をしめすパートがり、多少支離滅裂しりめつれつな感もあるが、とにかく内容豊富で面白い。

 また、本人が資格マニアであることもよく分かる。中小企業診断士や司法書士など、現在までに二十三の公的資格を取得していると記載されていた。その中で、最近取得した資格として気象予報士が特集され、勉強法から試験を経て資格を取得するまでを、事細かに説明していた。

 万里子は、原田が机に向かい、一生懸命ホームページ作りにはげんでいる姿を想像し、声をだして笑った。大らかな雰囲気の風貌ふうぼうからは、このようなマニアックなホームページをつくるとは想像もできないだけに、人間、外見で判断してはいけないと、再認識して笑った。

 時間も忘れ色々なパートを見て行くと、メインページに「秘密の部屋」と書かれた、小さなアイコンを発見した。さっそくクリックすると、このページだけパスワードを要求する画面に切り替わり、それ以上のぞくことができない。しかたなく別のページを開こうとしたとき、篠原から返信メールが飛び込んできた。

(篠原@そろそろお休みモードです。待ち合わせの件、了解しました。先輩、もうすぐ十一時ですよ。夜更かししないで早く寝ましょう。お休みなさい)

 時計を見ると、午後十一時三十分を少し過ぎていた。万里子は篠原の気遣きづかいに感謝し、ベッドに入った。

・・・つづく

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