通勤日記ー読書家のオジサンー
ぼくの通った都立高校は、ある山手線が最寄り駅だった。当時の車両には、冷房なんてものはついていなかった。だから夏場は窓全開で走っていた。
冷房車が登場したのは、高校三年のときだった。その当時、試験的にひと編成だけ、冷房車を走らせた。といっても全車両ではなく、運転士と車掌が乗る二両だけで、キセルのように真ん中は普通の車両だった。だから、ぐるぐる回る山手線で冷房車に当たるのは、ロシアンルーレットで死ぬより難しかった。
その翌年から冷房車が本格的に普及しだした。だがしばらくは、試験運行と同じような編成で、全車両が冷房化されたのは、それからずいぶん経ってからだと記憶している。
いまは冷房車が当たり前で、もし冷房がついていなければ、それは暖房車である。もし暖房車がやってきたら、誰もその車両を利用しようとは思わないだろう。
もうぼくたちは、暖房車の時代には戻れない。なぜなら、冷房車であっても、ドアの開け閉めが多い通勤電車では、地球温暖化による猛暑に耐えられないからだ。そう、冷房があっても辛いのが、ぎゅうぎゅう揉まれる通勤電車なのだ。
このはなしは、そんな真夏の出来事であった。
☆ ☆ ☆
夏が暑いのは当たり前だが……。満員電車で、洗濯機の中の下着のように揉まれている中年サラリーマンには、不快指数九十パーセントを超える試練の季節である。汗かきのぼくにとっては、夏なんかスキップして、春から秋へ季節が変わってくれないものかと思ってしまう。
その日も、日中の暑さを夕方まで引きずっているような、蒸し暑い一日であった。わりと早く仕事が終わり、空が明るい時間に会社を出た。和光市駅で有楽町線から東武東上線の森林公園行きに乗り換えたのが午後六時ころだった。
池袋発の東武東上線は、帰宅途中の学生達も多く乗っていて、朝のラッシュなみの混雑であった。さらに、有楽町線から吐き出された乗客が大挙乗り換えるので、立錐の余地もない混雑であった。ぼくは人の流れに身を任せ、後ろの人の力も借りて、ぎゅうぎゅう詰めの車内に乗り込んだ。
ドアが開いて冷気が流れ出た車内は、じんわり汗をかき始めた身体から、一気に水分を噴き出させた。首筋あたりに汗の玉が流れているのだが、手が動かせない状況で拭うこともできない。頭の中からも汗が流れてくる。
そんな中、一人の中年男性が、文庫本を必死に読んでいる姿が、ぼくの目に飛び込んできた。電車が揺れるたびに左右に大きくぶれながら、本を目の高さまで上げて読んでいる姿を見ると、よほど楽しい本なんだろうなと想像してしまう。それとも、推理小説が佳境に入っているのだろうか。どちらにしても、本を読みたいというオジサンの気持ちは、痛いほどよくわかる。
そして、朝霞駅を発車するころ。ぼくの立ち位置が、ちょうどオジサンの文庫本が見えるところになった。見るとはなしに文庫本の文字を追うと、実に驚くべき内容がそこには書かれていた。
最初にぼくの目に飛び込んだ文字は、「アナルセックスって、結構疲れるわね」という台詞であった。この本の内容につい付いては、これ以上言及しないが、おそらく全編このような内容が続くのだろう。
そう言えば、以前同僚のN尾くんからこのような内容の本を貰ったことがある。出張の列車の中での暇つぶしのために買ったのだが、家にはもって帰れないので貰ってほしいということだったが、ぼくは数ページ読んでイヤになってしまった。何がイヤって、読んでいると頭が大きくなってきて、ストレスがたまるばかりだからだ。決して文学的にどうとか、モラルがどうとか、そんな気持ちからではない。
でも、本を読むことは、それがどんな本であっても、基本的にいいことだと思っている。テレビやインターネット動画に慣れ親しんだ若者には、もっと文字を読むことを勧めたい。文字を読むことで、そのシチュエーションを想像したり、行間にある感情を想像したり、いわゆる右脳が活性化され、創造性豊かな人間をそだてることができると信じているから。
テレビや動画を見る時間があるなら、その半分でもいいから、読書に費やして欲しいと思う。ただ、満員電車では、人に迷惑になることもあるので、気を使いながら読んでほしい。特にエッチな本を読むときは。
・・・つづく