路傍に咲く花(3)
三人がグラスを傾けはじめたのをきっかけに、バー「リトリート」には、常連客がつぎつぎとあらわれた。みな残業終わりに立ち寄ったようで、男も女もスーツ姿であった。
やがて十時を過ぎると、カウンター席は、ひとつを残すのみとなった。そして、最後の一席も、すぐにうまった。
ドアが開くと、パワースーツに身を包んだ長身の女が、店内を見わたし、
「篠ちゃん、久しぶりね」
と、声をかけた。
ショートヘアーの耳元から、チェーン型のピアスが、キラキラ光った。
女は、最後の席に腰掛けると、
「いつものお願い」
と、マスターへ注文した。
「どうも、その節はお世話になりました」
篠原は、カウンターの人越しに、あいさつを返した。
すると女は、
「いいのよ、気にしないでね」
と言いながら、携帯電話の電源を切った。
「その後どうでしたか。楽しんでもらえたかしら?」
女は日焼けした顔に、白く健康そうな歯を見せて笑った。
「ええ、おかげさまで。ありがとうございました」
と、篠原は答えたが、万里子には何のことだか判らない。みなが知り合いのように、和気あいあいとした雰囲気が、万里子には、疎外されているように感じた。
マスターは女の前にハイボールを置くと、カウンター裏のスイッチで、入り口の看板照明を落とした。明かりが消えているときは満席というのが、馴染みの客との了解事項となっていた。
「ねえ篠原、さっきのはなし、ナンだったの? お世話になっていますなんて、あたし以外にも、お世話になっている女がいたのね」
万里子は絡んだ。目が拗ねていた。
「いやあ、じつは彼女、イベント関係の会社に勤めていて、ジャズコンサートのチケットを融通してもらったんですよ。なあ山元」
篠原は、万里子ごしに山元を見た。
「そう、そうなんですよ、先輩。オスカー・ピーターソンってご存じですか?」
山元は応えると、
「そうなの、よく知らないけど、お盛んなことね」
「先輩、機嫌直してくださいよ。まあ、あんまり楽しい送別会じゃなかったけれど……。でも、原田さんが愚痴っぽいこと言わなかったのが、せめてもの救いだったような気がするんですが、先輩もそう思いませんでした?」
山元が言った。
「うーん、なんだか釈然としないけれど、グチグチ言ってもしかたないから、パーッと飲みましょう」
「そうこなくちゃ」
と、篠原。
☆ ☆ ☆
時間とともに会話もはずみ、ひとつの家族が談話をしているような雰囲気になった。いちど座ると、なかなか席を立つ人がいない。こんな客の出入りで、商売が成り立つのだろうかと、万里子はいらぬ心配までしてしまった。
どうやらマスターひとりで切り盛りし、人件費を最小に抑え、やり繰りしているようだ。が、それでも利潤の少ないやり方だと思った。
「ところで先輩。じつはぼく、原田さんから辞めることになった経緯を、いろいろお聞きしたんですよ」
篠原は頃合いをみて言った。
万里子がナーバスになっていたので、話すきっかけを探っていたのだ。
「経緯って?」
と、万里子。
「原田さんが、なぜ辞めなければならなかったか、ということなんです」
篠原が言うと、
「なぜ辞めなければって……。自分が気に入らないからって、大河原部長がいちゃもんつけて、辞めさてたんじゃないの?」
万里子が反問すると、
「まあ、アウトラインはそういうことなんですが……。もっと深い理由があったんですよ」
篠原が声をおとすと、
「なんで篠原が、そんなこと知っているの?」
万里子の声が大きくなった。
「じつは、ぼくが新入社員だったころ、ぼくの教育係が原田さんだったんです。それで、たまに原田さんの車でドライブしたり、飲みにでかけたりする仲だったんです。それで一昨日の夜、原田さんに誘われて、銀座まで飲みに行ったんです」
「で?」
万里子は続きを促した。
「そのとき、ぼくだけに伝えておきたいと言って、話してくれたんです。他言無用と言われたんですが、ぼくひとりの胸に納めるには、あまりにも重いはなしなんで……」
篠原は、水割りをぐいっと飲みほした。
マスターが素早くグラスを引き取った。
「まあ、大河原部長に嫌われていたからね、原田さん。可哀想だったよ」
万里子が言うと、
「そうなんです。やっぱり最大の原因は、大河原部長なんですが……」
篠原が言いよどむと、
「そう、大河原部長よ。大河原雄三が原田さんを毛嫌いしなかったら……」
酔った勢いで、万里子が叫んだ。
「先輩、声が大きいですよ」
篠原は周りを気にした。
「でも、原田さんの話を聞くと、馬が合わないというような、単純なはなしじゃないんです。もっと根深い闇の不正が絡んでいたんです」
そう言うと、原田から聞いたことを、語りはじめた。
このとき、マスターの目が光ったことを、三人は気づかなかった。
・・・つづく
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