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路傍に咲く花(7)

「結局、伸二しんじは東大に合格し、わたしは東京工業大学に入学が決まりました。そして、二人の東京暮らしが、はじまりました」

 ここでマスターは、ひと息つくと、

「しかし、わたしは大学を四年で卒業し、キチンとした会社に就職するか、公務員になることを条件に、進学が許されたものですから、伸二とは立場が違っていました。わたし自身も、学生運動に共感はありましたが、のめり込むことはなく、せっかく大学に進学したのに、伸二とのギャップは、ますます広がっていったのです」

 マスターは三杯目の水割りをけると、ふうっと息を吐きだし、続きを語りだした。

 時計は午前二時を回っていた。

     ☆     ☆     ☆

 二人が大学に入った昭和四十二年は、学生運動は全国に飛び火し、各拠点で独自の運動が展開されていた。それと同時に、いくつものグループが生まれ、離合集散りごうしゅうさんを繰り返していた。非武装中立ひぶそうちゅうりつで平和を訴えるグループがあれば、徹底的に権力と対峙たいじするグループがあり、また一部には、無政府主義を掲げるグループが生まれる。全学連の名のもと一枚岩のように見える仲間にも、内部抗争が存在し、内ゲバと呼ばれる暴力事件が頻発した。

 伸二は、大学進学と同時に、学生運動にのめり込んだ。各地の大学で起こる闘争支援に駆け回り、その間にも原子力空母の日本寄港反対や、成田空港建設反対デモに参加するなど、精力的に動きまわった。

 一方の孝次郎は、伸二の行動に羨望せんぼうと危機感という、相反そうはんする感情を抱いていた。伸二のいう理想的社会の実現は理解できるのだが、方法が感情的で不合理だと感じていた。

 そんな大学一年の秋、孝次郎は中野にある伸二のアパートを訪ねた。たまたまアルバイトの仕事がキャンセルになり、時間が空いたので、久しぶりに顔をみようと思ったのだった。伸二の部屋には電話がなく、大家に呼び出してもらうのも面倒だったので、連絡なしに立ち寄った。もし不在なら、新宿あたりで映画でも観ようと思っていた。

 中野駅から徒歩五分のところに、アパートはあった。木造二階建てのそれは、「コーポ桜草さくらそう」というプレートが張られた、比較的綺麗な造りだった。孝次郎は、自分が住んでる四畳半一間のぼろアパートを思い浮かべ、うらやましかった。

 伸二の部屋は二階の角部屋だった。どうやら人の気配がするので、ドアをノックすると、伸二が下着姿でドアを開け、顔を出した。

「突然ですまん、近くまできたものだから……」

 孝次郎は、言わなくてもいい嘘をついた。

「おお、光本か。なんだ、こんな時間に」

 伸二は、不機嫌そうに言った。

「悪い、迷惑なら帰るが……」

「いやいいんだ。ちょっと待ってくれるか、部屋をかたづけるから」

 伸二は、すこし間をおいてから言った。

 どうやら、いま起きたばかりらしい。時計は午前十一時を回っていた。

 五分ほど待たされ部屋にはいると、中には伸二と女がいた。目が大きく髪の長い女で、伸二は早稲田大学の岡田美幸おかだみゆきだと紹介した。二人は、夜を共にする間柄のようで、孝次郎が部屋に入っても、動じることなく生活感をかもしだしていた。

「どうも、光本孝次郎といいます。伸二とは小学校からの同級生で……」

「ええ、聞いています、伸二君から」

 美幸は孝次郎の言葉を折り言った。孝次郎は、伸二が自分のことを、どのように伝えたのか気になったが、自分のことが伸二の生活の中で話題となっていたことに嬉しさを感じた。と同時に、伸二に女がいることに驚いた。

 孝次郎は、美幸に遠慮し、三十分ほどで伸二のアパートを後にした。伸二の近況などを聞きたいと思っていたのだが、結局あたり障りのない会話に終始した格好であった。

 それから一週間後、伸二から会いたいとハガキが来て、渋谷の喫茶店で落ち合った。そのとき美幸を、学生運動の同志であり、個人的にも大切な女だと紹介されたが、ひげをたくわえた伸二が、自分の手が届かないところにいってしまったさびしさを覚えた。

 そして、その日が伸二を見た最後になってしまった。

     ☆     ☆     ☆

「結局私はいい企業に就職することを目指し、学生運動にのめり込むことはありませんでした。同じ故郷に生まれ、こんなにも対照的な大学生活を送るとは、夢にも思いませんでした」

 マスターの目から涙があふれ、今にもこぼれ落ちそうであった。

「あの年、昭和四十二年は、ベトナム反戦集会や成田空港反対集会、そして佐藤首相の訪米阻止などで大荒れの年でした。そんな中、伸二の恋人だった岡田美幸が、対立するグループの襲撃で命を落としてしまったのです。新聞でそのことを知った私は、直ぐに伸二のアパートに駆けつけましたが、伸二が出てくることはありませんでした。そして岡田美幸が死んだ翌日、伸二が水死体で発見されたのです」

 マスターの頬から涙がこぼれた。

 伸二が発見されたのは、大田区北糀谷きたこうじやを流れる新呑川しんのみかわという名のどぶ川であった。ヘドロが堆積たいせきしガスが泡となっている汚い川に浮かんだ死体は、全身が真っ黒で、すぐには性別が判定できないほどであった。

 くしくもその二ヶ月後、佐藤首相の訪米をめぐって、学生と機動隊が激突した京急大鳥居駅おおとりいは、そこから目と鼻の先であった。

「警察の発表では内ゲバではないかとのことでしたが、結局犯人が捕まることはなく、どうしてこうなったのかは、不明のままでした。争った形跡があり、肺に多量の水があったことから、死因は水死と断定されましたが、犯人を特定することもできず、結局迷宮めいきゅう入りの事件として解決されたのです」

 マスターの嗚咽おえつがもれた。

 誰もが言葉を失い、静寂の時間が流れた。

 万里子には長い沈黙だった。自分の無神経な発言が、こんな悲しいはなしを思い出させ、語らせてしまった。

 万里子の酔いは醒め、寂しさと空しさを覚えた。

「マスター、ご免なさい……」

 沈黙に耐えられず、マスターに頭を下げた。目が真っ赤に充血していた。

「マスター、俺も無責任な噂を気にしたこと、恥ずかしく思います」

 篠原がいうと、

「俺も……、人それぞれ色々な思いを抱いて生きているということが、よく解りました。本当に申し訳ないと思います」

 山元も続いた。

「いいんです。結局、犯人はわからず終いで、それだけが心残りなんですが……。伸二は、自分の信じることに向かって、がむしゃらに生きたのだと思います。ただ、がむしゃらに……」

 マスターは涙を拭うと、きっぱりと言った。

 時計は午前三時三十五分を指していた。

     ☆     ☆     ☆

 なんとも重い気持ちで店をでた三人は、新宿駅方面へ歩き出した。

 午前四時をまわっても蒸し暑さが残る夜。靖国やすくに通りを大ガード方面に歩くと、こんな夜更けだというのに、歌舞伎町かぶきちょうあたりの道には、たくさんの若者があふれていた。

「なんだか変な話になっちゃいましたね」

 篠原が、目的もなく呟いた。

「悪いことしたね、マスターに」

 山元も頭に浮かんだ言葉を、そのまま口から吐きだした。

「私、もういちど謝るわ。なんだかすっきりしないもの」

 万里子も、誰に向かうとはなしにつぶやいた。

 やがて三人が、歌舞伎町の入り口あたりにさしかかると、

「なあ、いいだろう、なあ」

 と、男が言い、

「えーっ、うーん」

 と女が返し、三人の横をすり抜けていった。

 サラリーマン風の男と、厚化粧の女。だがよくみると、女の顔には、化粧の奥に、あどけなさがあった。

「もしかしたら、今日初めて出会ったカップルかも知れないわね」

 万里子が、ぽつんと呟いた。

 生温かい風が、お菓子の包装紙を巻きあげた。

 三人には学生運動の時代は判らない。が、いまの歌舞伎町あたりにいる若者をみて、時代という意識の風が、大きく変化していると感じた。

大河原おおがわら部長も学生運動を経験し、悩みながら青春時代を過ごしたのかしら?」

 万里子がつぶやくと、

「そうですね、確か昭和四十六年入社だから、本人が言うとおり、あの時代を経験しているのでしょうね。それに早稲田ですよね、大河原部長って」

 篠原が応えた。

「大河原部長にも純粋に生きた時代があったんだろうね、たぶん。いい古された言い方だけど、人間って、生まれたときに背負った白いカンバスに、年齢を重ねるたびに色んな絵を描きながら、生きているんだと思うんですよ。大河原部長だって、ワンマンで自分勝手だけれど、人生の中で苦労を重ね、今の自分があるわけで、ぼくら若い者が、表面だけを見て批判するのは、薄っぺらな気もするし……」

 と、山元。

「なんとも言えないわね、でも、人それぞれの人生があることだけは事実だわ」

 やがて三人は、JRの大ガードをくぐり、高層ビルが建ち並ぶエリアに入った。

「なんだかわたし、頭が火照ほてっちゃって……」

 万里子が言うと、

「もう少し歩きましょうか、そのうち始発も走りだすと思いますので」

 篠原が提案し、三人は無言で歩きだした。そして、高層ビル群に囲まれた、小さな空き地の石段に腰掛けた。もうすぐ始発電車が走りだす時間だというのに、いくつかのオフィスでは、煌々こうこうと照明が灯っていた。

「でも篠原、なんで原田さんは、篠原に事の真相をはなしたんだろう?」

 山元が疑問を口にした。

「たぶんだけど、原田さんは誰かに伝えておきたかったんだと思う。もしかしたら、俺じゃなくても良かったのかも知れない」

「それと、マスターのことも……。はなしを聞く限りは公安警察にマークされるようなことじゃないと思うけど、じゃあ、なんであんな噂が立ったんだろう? 誰かが意図的に流したのかな? よく考えるとちょっと納得いかないんだよなあ」

 山元は、冷静に振り返った。

「まっ、いいじゃない、今日のところは」

 万里子は、今日のできごとを、これ以上複雑にしたくないと思った。いろいろな想いがけめぐり、冷静に物事を評価することなど、できないと思った。

 やがて午前五時が近づくと、東の空が白々と明けてきた。三人にとっては長い夜だったが、不思議と眠気を感じなかった。

 三人は、新宿駅に向かい歩きだした。

「じゃあ、あたし、いったん家に帰ってから会社に行くから」

 万里子は二人と別れ、吉祥寺の自宅へ戻っていった。篠原と山元は、少し早いが、甲州街道こうしゅうかいどう沿いにある、会社へ向かった。

 太陽がビルの谷間からのぞき、またいつもの一日が始まった。

・・・つづく

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