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通勤日記ーそれってネタ?ー

 サラリーマン人生のスタートは、昭和五十年代のはじめだった。まだ高度経済成長の香りが残り、モーレツ社員なることばも息づいていた。

 いまは当たりまえの週休二日なんて、想像すらしなかった。土曜日は半日仕事の「半ドン」で、フルに休めるのは日曜日だけ。だから、日曜日のありがたさは、いまとは比較にならないほど大きかった。

 もうひとつの「今では当たりまえ」が、仕事の時間を固定しないフレックスタイム制度。だが、ワークライフバランスなんて言葉が存在しない昭和五十年代に、そんな柔軟な制度があろうはずもなく、就業時間は八時から五時という、インフレキシブルタイムが当たりまえだった。

夜遅くまで働いていた

 フレックスタイム制度が導入されたのは、サラリーマン人生がはじまって、十数年が経った昭和六十二年だった。多様な働き方の提供や、通勤時間の混雑緩和こんざつかんわなどを目的に、労働基準法ろうどうきじゅんほうが改正され、おもに大企業を中心に採用された制度だ。

 コアタイムさえ仕事場にいれば、あとは個人の裁量で仕事の時間をシフトできるため、通勤ラッシュを避けたい人や、アフターファイブの余暇よかを充実させたい人には、ありがたい制度であった。令和の現在では、コアタイムさえないケースもあるという。まさに労働時間革命だった。

 そしてときは流れ、週休二日とフレックスタイム制度が定着した一九九〇年代。世間はウインドウズ95ににぎわい、きたる西暦二千年問題に憂慮ゆうりょしていた。いまや生活に欠かせないワールドワイドウェブ(WWW)は黎明期れいめいき。NIFTYやPCVANと呼ばれるパソコン通信が、幅をきかせていた。

 そんな時代、コンピューター業界のただ中で、毎晩遅くまで仕事をしていた。ピークが定常化し、忙しさがステディーとなっていた。だから、遅く帰宅した翌日は、フレックスタイムの存在が、本当にありがたかった。

 そう、これから書くはなしは、そんな時代のできごとである。

     ☆     ☆     ☆

 やわらかな光が降りそそいでいた。少し寝不足の目をこすりながら、家のドアを開けると、早春の風が心地よくほおをなでた。

 八時半をすこし回っていた。自宅から浜松町はままつちょうの会社までは、一時間半ほどの道のり。ふだんは六時半くらいに家をでるのだが、この日はフレックスタイムを利用して、のんびりとした朝をすごしていた。

 たまに遅い時間にでると、ふだんとは違う風景にであえるから面白い。ぼくが利用する駅は東武東上線とうぶとうじょうせん志木しき。この周辺には、立教大学りっきょうだいがく跡見学園女子大学あとみじょしがくえんだいがく淑徳大学しゅくとくだいがく慶応志木高校けいおうしきこうこう細田学園高校ほそだがくえんこうこう県立志木高校けんりつしきこうこうなどがあり、八時過ぎの改札付近は、若い男女の語らいがひびきわたる。

 志木駅始発池袋行の各駅停車に乗りこむと、車内は空いていて、暖かな春の日射ひざしが、やわららかく照らしていた。そして、ドア付近に大学生らしき女性が二人。けらけら笑いながら、楽しそうに会話する姿があった。

 ぼくは、女性たちとは反対側のドア付近に立っていた。座席は半分くらいまっていたが、三つ先の和光市わこうし駅で地下鉄有楽町線に乗り換えるため、普段とはちがう時間の景色を楽しもうと思ったからだ。

 発車の電子音が響くと、電車は定刻に志木駅をすべりだした。

 沿線には、武蔵野むさしのの面影を残す雑木林ぞうきばやしがあり、新緑がきとおるように輝いていた。まことにのどかな景色なのだけれど……。ぼくが志木に住み始めたころと比べると、雑木林の面積は半分以下になったように思う。まあ、いろいろな企業論理があるのだろうが、個人的には、いつまでも武蔵野の面影を残してほしい。

 などと考えながら、過ぎ去る景色をながめていたら、反対側のドア付近に立つ女性二人の声が、いちだんと大きくなった。そして、聞くとはなしに、耳に入ってくる言葉を受け止めていた。

A「ミカったら、いま教習所へ通っているんだって」
B「へえーっ」
A「それでね、話をしているときに、『ハンクラってなに?』って訊かれたから、半分クラクションを鳴らすことだって教えてあげたの」
B「あはははははっ、なにそれ!」(大口で馬鹿笑い)
A「教習では絶対必要なテクなんだよ。軽くクラクションを鳴らすのを、ハンクラっていうんだよって教えてあげたら、ミカすごく喜んでさぁ……」
B「あははははっ、でも馬鹿だよねミカも」
A「本当、本当。ハンクラって、半分クラッチ踏むことなのにね」
B「そうそう」

 このときぼくは、心の中でこうさけんでいた。

「半分クラッチ踏むというのは、半分は当たっているが、半分は間違いだ。ハンクラとは、クラッチを切ったあと、少しずつクラッチペダルを戻し、アクセルワークと連携して、動力の伝達を調整することをいうのだぞ。正確にいえば、クラッチペダルを半分踏むんじゃなくて、半分戻すことだ。君たちはそれを理解して言っているのか。ミカを馬鹿にしているが、本当に馬鹿だと言えるのか!」

 だが、こころの片隅かたすみに小さな疑念ぎねんがめばえた。

 このハンクラの話、過去に何度か聞いたような気がしたからだ。もちろん登場人物やシチュエーションは違うのだが、半分クラクションを鳴らすと誤解させるところは、同じなのだ。

 考えてみれば、よくできた話である。半分クラクションを鳴らすというくだりでは、ミカという娘が教官に指示されて、まじめにぷっとならす姿を想像すると、思わず吹きだしてしまう。

 もしかしたら、この娘たちは、ぼくをはじめ、周りの人びとを意識して、ネタを披露ひろうしていたんじゃないか。ことあるごとにこの話をして、周りの反応を楽しんでいたるんじゃないか。

 この時代、「巨人の星のコンダラばなし」を、さも自分の体験のように話す風潮があった。説明すると、こうだ。

巨人の星 思いこんだら

 小さいころ「巨人の星」を見ていて、グラウンドを整地するローラーを、コンダラという名前だと思っていた。なぜなら、巨人の星の音楽がかかると、『思いこんだぁら』のところでローラーを引くシーンがでてくる。あれを見て、『重いコンダラ』と認識していた、という話である。ちょっとした言葉遊びだが、いかにもありそうで面白い。

 また、「ゲッキョク駐車場ばなし」も同様である。これも補足しておくと、こういうことだ。

月極駐車場

 街を歩いていると、いたるところで「月極駐車場つきぎめちゅうしゃじょう」という看板かんばんを目にする。これを「ゲッキョク駐車場」という名の、巨大駐車場チェーンだと思っていた、というもの。これも、いかにもありそうで面白い。

 こういう面白話が蔓延まんえんした時代だから、ぼくの疑心暗鬼ぎしんあんきもしかたないことだと思う。話としては面白いのだが、「どこまでが現実で、どこからが脚色きゃくしょくなのか」という詮索せんさくが先にたってしまうのだ。

 まあ頭ごなしに疑うのも、いかがなものかとも思うのだが。

 子どものころ、「静かな湖畔こはんの森の陰から」というカッコウの歌を、「静かな御飯ごはんの……」と覚え笑われたことがある。社会人になるまで、示唆しさを違う読みで発音していた。(恥ずかしいから、何と言っていたかは書かない!)だから思いこみや勘違いはあると思うのだが……。

 そうだとしても、このハンクラの話には得心とくしんがいかない。だからぼくは、この話をネタだと断定することにした。

 こんなぼくは、たぶんひねくれ者なのだろう。

【補足1】
 コンダラばなしだが、思い込んだらと歌われるところで、ローラーを引くシーンはでてこない。どうしてこの話が広まったのか、不思議である。

【補足2】
 フレックスタイム制度であるが、平成二十四年の厚生労働省の調査によれば、千人以上の職場では約二十六パーセントの職場が導入しているが、百人以下の中小零細企業では約三パーセントに留まっている。本文では、九十年代に定着したと書いたが、まだ一部の大企業だけで実施されているのが実情のようだ。

つづく

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