通勤日記ーじゃがりこ娘ー
ぼくが新入社員だったころ、複雑な計算には、計算尺という道具が威力を発揮した。四則演算の電卓はあっても、関数電卓など存在しなかった時代。だから技術者は、指数や対数を駆使する計算を行うとき、計算尺を使いこなすことが必須であった。
この計算尺、「アポロ13」という映画でも、NASAの技術者が使っていた。白い定規のようなものをスライドさせ、危機を脱出するための複雑な計算をする映像をみて、懐かしく思った人も多いことだろう。かく言うぼくも、その一人だ。
また、当時の秋葉原では、どこの店員もポケットサイズの計算尺を胸ポケットに入れ、値引き交渉の計算に使っていた。足し算や引き算はできないが、かけ算や割り算は得意だから、五パーセント引きますと言って、正規の値段に九十五パーセントをかけるなんて、お茶の子さいさいだった。
まさに当時の最新鋭器だったのだ。
だが時代は流れ、関数電卓があらわれると、計算尺の価値は急速に失われていった。そして、パソコンが普及し、表計算ソフトが使われはじめると、計算尺は息の根を完全に止められた。アナログで誤差も大きい計算尺は、正確さという尺度でみると、関数電卓や表計算ソフトには、歯が立たなかったのだ。
栄枯盛衰というが、新しいものが古いものを駆逐することは、この世の常なのだろう。残念ではあるが、ぼくの計算尺検定資格も、履歴書に書き込むことはなくなった。
まあ、時代の変化は科学技術だけに限らない。電車の中の光景も、時代とともに変化している。最初は驚くようなできごとも、時間の経過が、普通のできごとに変えていくものだ。
このはなしは、そんなことを思いださせてくれた。
☆ ☆ ☆
昭和のころまでは、電車の中でお菓子を食べるのは子供の専売特許で、飲み物をとるのは乳飲み子と相場が決まっていた。チョコレートやガムくらいは食べても、堂々とスナック菓子やカップ麺を食べてる姿は、とんと見かけなかった。
ところが最近は、カロリーメイトのような代用食や、さまざまな栄養素を得る健康食品を食べてる大人をよく見かける。コンビニで買ったであろうサンドイッチやおにぎりや、満腹感を得るためのチョコレート菓子を食べている人を見たこともある。おにぎりを食べながら、紙パックの牛乳をがぶ飲みしている人もいた。
ある朝の有楽町線で、席に座った夫婦と思われる男女が、自宅で作ったであろうおにぎりと、タッパに入ったおかずをだし、朝食をとり始めたときは驚いた。隣の席だったので、タッパの中身が見よく見えた。ウインナーを炒めたものや、鶏の唐揚げが入っていた。朝に作る余裕があるなら、自宅で食べてくればいいと思うのだが……。それとも前日用意したものなのだろうか。いずれにしても電車で食べる理由が分からない。
それから、近年はペットボトル飲料が花盛りで、カバンに飲み物をしのばせている人も多い。ぼくも汗かきなので、夏場は烏龍茶のボトルを手放せないが、電車の中で飲み物をとる習慣も、平成に入ってからだと思う。一時ペットボトルフォルダーなるものが流行し、若い女性を中心にエビアンやビッテルなどのボトルを首から下げて歩いていた。あの流行は何だったのだろうか?
ところでタイトルの「じゃがりこ娘」であるが、ある帰りの有楽町線でのできごとであった。
その日は市ヶ谷で首尾よく座席に座ることができた。少し腰が痛かったので、前の人が立ったときには本当に嬉しかった。ついていないときは、自分のまわりは席に座って行くのに自分だけが座れない。こんなとき、平静を装いながらも内心イライラが募る。だから、体調の悪いときに席が空くと、本当に嬉しくなる。
しばらく週刊アスキーを読んでいたら、隣の女性がカバンからお菓子を取り出し食べ始めた。そのお菓子とは、「じゃがりこ」。ジャガイモをベースとしたスティック状のもので、塩味やチーズ味などがあり、カップ麺のような入れ物に入っている。
実はわが家でも、ドライブに出かけたときに、よく食べるお菓子である。妻が異様に好きで、ときどきコマーシャルの口まねをして「じゃがりこ、じゃがりこ」といいながら、前歯で小さく裁断して食べている。ぼくもチーズ味が好きだが、コマーシャルのまねをすることはない。
池袋あたりで食べ始めた女性は、実に軽快に「じゃがりこ」を口に運んでいった。そのたびに、「かしゃ、かしゃ」という音が響き、ぷーんとなにやら臭ってくる。ぼくは少し気になりながらも、ポーカーフェースを装い、週刊アスキーを読んでいた。でも気になる。
女性は二五才くらい。少し小太りで胸元の大きく開いた服を着ていた。一心不乱に食べる姿を見ると、よほど好きなのだろう。よく「はまる」という言い方をするが、まさにそのような状態だと思う。
もしや自宅には、大量の買い置きがあって、でかけるときはコートや靴を選ぶように、持ってゆく味を選んでいるのかも知れない。「じゃがりこストッカー」なるものがあって、ワインセラーのようにキレイに並べて、保管してあるのだろうか。ぼくの想像は留まるところを知らず、あらぬ方向に脱線していった。
でも、旨そうな臭いと音をさせている、隣の「じゃがりこ娘」が悪いのだ。まったく困ったものだと思っていたら、どうやら氷川台あたりで中身がつきたのか、入れ物のカップを鞄の中にしまった。
ところが、である。
だから世の中は面白いのだが、この「じゃがりこ娘」のカバンには、もう一つ「じゃがりこ」が入っていたのだ。よくたばこを続けて吸う人をチェーンスモーカーというが、これは「チェーンじゃがりかぁ~」というべきできごとである。
カバンから出てきた新しい「じゃがりこ」は、間髪を入れず封が切られ、再び軽快なリズムで砕かれる音が響き始めた。結局終点の和光市に着くまで、「じゃがりこ」の響きは続き、ぼくの空きっ腹を激しく刺激した。
じゃがりこ娘は、和光市で東武東上線に乗り換えても同じ車両にいて、「じゃがりこ」をむさぼっていた。その姿は、ぼくが志木で降りて、外からのぞき込んでも変わらなかった。
よほど好きなのだろう。ぼくの勝手な想像も、あながち間違いではないかも知れない。
つづく
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