路傍に咲く花(21)
翌朝、二人は午前八時に目を覚ました。八時間以上睡眠をとったことで、長旅の疲れはだいぶ抜けた。
万里子と篠原は、手早く着替え、荷物を整えると、足早にチェックアウトした。ゲートから車を出すとき、人目が気になったが、さいわい歩行者の姿は見えなかった。
万里子は振り返ってホテルを見た。リアウインドウから見えた建物は、ライトアップされたときの華々しさとは裏腹に、かなり老朽化したものだった。まるで一夜限りで萎れてしまう、月下美人のようだと思った。
国道七号線沿いのコンビニで、朝食のパンと飲み物を買い込み、駐車場の隅で食べた。篠原は、一緒に買った新聞に目を落とすと、
「先輩、やはり出ていますよ。例の談合のはなしが」
と言って、万里子に新聞を見せた。
記事の内容は、昨夜テレビニュースで流されたものとほぼ同じで、とくに目新しいものはなかった。ただ、一流といわれる新聞が全国版で扱ったことは、すでにこの談合スキャンダルが、一週刊誌の領域を超えたことを意味していた。
万里子は、これからの成り行きに不安を覚えるのと同時に、白黒をっきりさせて欲しいという期待感が芽生えた。
「先輩、今日はぼくが運転しますよ。なんとか今日のうちに、和歌山に近づきたいですから」
篠原はサンドイッチを食べ終わると、缶コーヒーを一口飲んでから言った。
「そうね、今日はお願いするわ」
万里子も、化粧をする手を止めて言った。
昨夜、和歌山までのルートを検討し、東北自動車道路を南下し、郡山から磐越自動車道に入ることにした。悪くても新潟まではたどり着き、翌日には北陸自動車道路で、関西方面を目指すことにした。首都圏を経由し東名高速道路を使うことも検討したが、せっかくの旅だから、日本海を見ながらドライブしようと、万里子が提案した。篠原も北陸自動車道路は走ったことがないので、万里子の提案に二つ返事で同意した。
車は、カーナビの指示に従い、黒石インターチェンジから東北自動車道路に乗った。時間は午前十時四十五分、日が暮れるころには、新潟に到着できそうであった。
「先輩、じつはぼく、昨日の先輩に感動したんですよ」
篠原が笑顔で言った。
「感動って、なによ?」
万里子は、いぶかった。
「昨日原田さんと話したとき、先輩は会社に失望したことや、だから真実を知って自分の生き方を見つけたい、と言いましたよね。じつはぼく、先輩にこうして付いてきましたが、半分は先輩を監視するのが目的だったんですよ。だって事の成り行きによっては、何か過激なことをしそうな感じだったから。でも本当はしっかりした考えがあって、それを行動に移したのだと思ったら、なんだか先輩がすごい人に見えて……。それで感動したんです」
篠原は、昨夜から言いたかったことを一気に吐き出した。本当は昨夜はなしたかったのだが、二人きりでヘンな雰囲気になることを懸念し、言わなかったのだ。いま篠原の中には、そんな自分を、意気地なしと思う心が存在していた。
「馬鹿ね、そんな大したことじゃないわよ。でも言ったことは偽らざる真実よ。それより半分が監視なら、後半分は何なのよ」
万里子は、助手席から篠原の横顔を見た。
「あと半分ですか……。ドライブの補助でしょうか。こんな長旅、男だってきついのに、先輩一人で行かせるわけには、いかないじゃないですか」
前方に車がいないことを確認し、篠原は万里子を見た。
「あら、それじゃ私を心配してくれたの」
「もちろんですよ。今まで本当にお世話になっていますし、これからも、お世話にならないといけませんから」
「私だって、いつまでも会社にいるか判らないわよ。突然コトブキ退職ってことだって、あり得るんだからね」
万里子は見栄を張ってみた。いまさらそんなこと言ったって、相手がいないことは周知の事実である。
「そうですね、人との出逢いなんて、いつ、どこで訪れるか判りませんものね」
「そうよ、一期一会というけど、昨日の朝、露天風呂に入ったときに話した女性とは、もう二度と会うことがないと思うけど、なんだかいい想い出だったわ」
万里子は、その時交わした会話を、篠原に聞かせた。
「そんなことがあったんですか。でも面白いですね。そのとき、なんとなく過ごしていたら、その夫婦は、別の人と結婚していたわけだから」
「そうよね、その時を大事にすることが、大切なのよね」
私にとって、その時っていつなんだろう?
万里子は、フロントガラス越しに映る山並みを見ながら、いまかもしれないと思った。
☆ ☆ ☆
万里子の愛車「アウディA4」は、順調に東北自動車道路を南下し、午後一時過ぎには菅生サービスエリアに到着した。ここで昼食をかねて休憩をし、一時間後に出発した。ここからは、万里子がハンドルを握った。
車は渋滞にもあわず順調に進み、郡山ジャンクションで予定どおり磐越道に入った。
「首都圏経由で東名を選んだら、帰省の帰り渋滞にあったかも知れませんね」
篠原は、サービスエリアに置いてあった、渋滞予想マップを見ながら言った。
「帰省か……。考えてみれば東京生まれの私には、この時期の帰省渋滞なんて、テレビニュースの風物詩でしかなかったわね」
「先輩は、先祖代々東京にお住まいなんですか?」
「母親は群馬の人だけど、父親の家系は代々東京だったみたいね」
「そうなんですか。ぼくも東京生まれに憧れた時期がありましたよ。なにせ静岡の小さな町で育ちましたから」
中学生のころ、テレビで観る原宿や渋谷の街に憧れ、東京に生まれたらどんなに楽しかっただろうと、親を恨んだことがあった。恨んでも仕方のないことと判っているだけに、その思いは自分の内面に蓄積していった。
「篠原は、なんで東京にでてきたの?」
万里子が訊くと、少しの間をおいて、
「憧れですかね。田舎にいても一流にはなれないと思い、中学のころから東京の大学に進学し、東京の企業に勤めるんだと心に決めていました」
と言うと、自分のことを語り出した。
篠原が生まれ育った森町は、静岡県の西部に位置する穏やかな土地であった。建築業を営む篠原家には、裏庭にささやかな茶畑があり、親子三代が暮らす大きな家があった。
何不自由なく育った篠原少年は、小学校に上がると、地元の少年サッカーチームに入った。小さなころから祖母に育てられ、お婆ちゃん子の甘えん坊だったため、将来を心配した父親が、スポーツで鍛えようと通わせたのだった。
最初はあまり乗り気でなかった篠原少年も、四年生のころから急速に身体が大きくなり、頭角を現しはじめた。そして六年生になると、静岡県の代表にも選ばれ、将来の有望選手として、注目を浴びる存在になっていた。
☆ ☆ ☆
「まだJリーグが始まる前でしたから、今ほどサッカーがメジャーではありませんでしたが、地元静岡では結構有望だったんですよ」
篠原は、笑いながら言った。
「じゃあ、そのままサッカーの道を進んだら、いま頃Jリーガーだったかも知れないのね」
万里子も、篠原がサッカー少年だったという話は初めてだった。大学時代はラグビー選手だったと言っていたので、少し意外な気がした。
「そうですね、なにしろサッカーが盛んな土地ですからね。今でも、カズやゴンは知っていても、松井やイチローの背番号知らないって子供がいますからね」
「へえ、私なんかカズも松井も知らないから、そう言う意味ではスポーツ音痴よね」
万里子が言うと、
「じゃあ今度、サッカーの試合でも観に行きましょうか。結構面白いですよ。ゴール裏に行けば、思いっきり声も出せるし」
篠原が誘うと、
「いいわね、じゃあ約束よ」
と万里子が、嬉しそうな笑顔で応えた。
「ところで、篠原は何でサッカーやめてラグビーを始めたの?」
「それは……」
篠原は、ラグビーとの出会いをはなしはじめた。
☆ ☆ ☆
中学にあがった篠原少年は、身長が百七十五センチを超え、全国でも名の知れた選手になっていた。大型選手でありながら足も速く、すべてはサッカーのために生まれたような、理想の選手であった。
ところが、そのころから篠原少年の心に慢心が芽生え、プレイにもそれが現れはじめた。ボールを持つと周りを見ず、ひとりでサッカーをやっているような、自分勝手なプレイが多くなってきたのだ。
「サッカーはチームプレイだ。仲間を信頼しろ!」
監督は叫んだが、篠原少年のこころに、その言葉は届かなかった。
ある日、仲間の一人が、「篠原とはサッカーやってられない」という言葉を残し、チームを去った。これを機に、立て続けに五人のチームメイトが去り、篠原少年は監督に呼ばれた。
「今のままじゃこのチームは解散するしかない。なにが原因だか解るか?」
監督は、篠原少年を責めた。
「監督はぼくのせいだと言うのですか。エースのぼくが頑張っているから、チームは成績を残しているんじゃないですか」
優越感の中で育った少年のこころには、他人を思いやる優しさが、まだ目覚めていなかった。そして挫折を味わった。
サッカーチームは解散し、篠原抜きで新たなチームが編成された。両親も篠原少年の言動を危惧していたので、これでよいのだと監督の決断を支持した。そして、つらい日々がはじまった。
サッカーをやめた篠原少年は、大きな目標を失った。そして、こころの隙間をうめるように、東京の街に憧れを持つようになった。テレビに映し出される若者は、だれにも干渉されない自由があると思った。そして東京の大学に入り、一流の会社に就職するという、あらたな目標を発見した。
高校に進学した篠原は、ひたすら勉強にはげんだ。だが、成績はつねにトップクラスを維持したが、なにか満たされないものを感じ始めていた。スポーツや恋愛で楽しそうな仲間を見ていると、自分の目標が本当に正しい道なのか、不安に思える日々が続いた。
そんなとき、篠原の前あらわれたのが、同級生の大西美佳だった。
ラグビー部のマネージャーをしていた美佳は、
「もし良かったらラグビー部にこない。そんなにいい身体して、勉強ばっかりしているの、もったいないよ」
と言った。
これが篠原とラグビーの出会いだった。
ラグビー部の監督は、篠原が中学時代サッカーで名を馳せた選手であったことを知っていた。そして、プレイに問題があったことも承知していた。
監督は篠原を特別扱いせず、平等な競争に参加させた。用具や部室の掃除といった一年生の仕事も、率先して参加させることで、リーダーシップを学ばせた。一度苦い経験をした篠原には、すでに自我が目覚め、思いやりの気持ちを持つだけの余裕があった。
こころの余裕がプレイにも影響し、篠原は二年の秋にはウイングとしてレギュラーポジションを確保した。全国大会までは出場できなかったが、ラグビーでもその存在は、全国に知れ渡り、進学を控えるころには、複数の大学から誘いを受けた。
☆ ☆ ☆
「そんなことでK大に進学し、今の会社に就職したってわけなんですよ」
篠原は一気にはなすと、ペットボトルのお茶をぐいと飲んだ。
「そのラグビー部のマネージャーとは、その後つき合ったの?」
万里子の質問は、ときどき単刀直入に切れ込んでくる。
「いえ、仲は良かったですが、特別につき合ったってわけでは……。たまに、あんみつとか、かき氷を食べに行きましたが、友だち以上の関係にはなれませんでした」
「篠原も、いろんな経験しているのね」
「そうですね。でも今のぼくがあるのは、ラグビーのおかげだと思います。あのとき、思い上がったままサッカーを続けていたら、どんな人間になっていただろうと思いますし、サッカーを無理矢理止めさせた監督にも、いまでは感謝しているんですよ」
篠原はこころからそう思った。そして未熟な時代に、いかに素晴らしい指導者に出会えるかが、人間形成に大きく影響すると確信した。
「ぼくの場合は、ついていたと思いますよ。素晴らしい指導者に出会えたんだから」
「そうね、歌舞伎町あたりで遊び歩いている若者に、聞かせたいわ」
万里子の脳裏に、徹夜した新宿の夜が思いだされた。
「でも世の中には、相談したくてもできなくて、自堕落な道に進んでいってしまう若者も多いと思うし、いまこの国の何十年か先を憂うなら、いまの若者にもっと目を向けなければ、取り返しのつかないことになると思いますよ」
「本当よね。談合をするような企業体質もそうだけど、この国はいったいどうなってしまうのか、暗澹たる思いだわ」
万里子は思わずアクセルを踏んだ。スピードメータはみるみる上昇し、時速百二十キロを指していた。
「先輩、スピード出し過ぎですよ。覆面パトカーもいますから注意しましょう」
☆ ☆ ☆
車は磐越高速道路を順調に走行し、午後七時ごろ新潟市内に近づいた。夕方から少し雲が厚くなったが、雨が降るほどの天気の崩れはないと、ラジオの天気予報が伝えていた。
「先輩、どうしましょう。いったん高速を降りて、新潟市内で一泊しますか。それとも、このまま北陸自動車道路に入り、行けるところまで行って、サービスエリアで仮眠しましょうか?」
先ほどまで薄明かりを残していた西の空は、すっかり暮れてしまい、遠くに新潟市街の灯りが浮かび上がっていた。
「そうね、できれば今夜中に走れるだけ走って、なるべく和歌山に近づきたいわね」
万里子は、まだ半分にも満たない行程を考え、さきを急ごうとした。
「じゃあ先輩、新潟でいったん高速を降りて、晩飯を食べてから北陸道に乗りますか。じつは、新潟で美味いへぎ蕎麦の店を知っているんですよ」
篠原は、以前出張で食べ、その美味さに感動したへぎ蕎麦を、ぜひ万里子に食べさせたいと思った。
「へび蕎麦?」
「いえいえ、へぎ蕎麦です。越後名物なんですが、これが本当に美味いんですよ」
篠原は、へぎ蕎麦の「ぎ」に力をこめた。
「オーケー、じゃあへぎ蕎麦、食べにいきましょう」
万里子が同意し、車は磐越高速道路を降りた。
新潟中央インターから新潟市内へむかうと、思いのほか道路が渋滞していて、駅前のへぎそば屋まで、三十分ほどを費やしてしまった。しかたなく、手早く蕎麦を食べると、のんびり休む間もなく、新潟西インターから北陸自動車道路に乗り、一路関西方面を目指した。
「なんだか慌ただしかったですね。よけいなこと言ってすいませんでした」
篠原は、寄り道したことを詫びたが、
「いいのよ、へぎ蕎麦美味しかったし」
と、万里子が慰めた。
「そう言ってもらえると気が楽ですが、やはり真っ直ぐ北陸道へ向かったほうが、よかったですよね」
「まあ、仕方ないわ。そこまで予測できなかったんだから」
万里子は、メーターの横に光る時計を見た。時間は午後九時三十分。夜のうちに走れるだけ走ろうと、気合いを入れた。
「そう言えば『週刊謹聴』、今日発売だったけど、その後、山元君から連絡はないわね」
万里子が言うと、
「そうですね、大河原部長の行方も気になりますね」
と、篠原。
「でもヘンね、コンビニで売り切れなんて」
じつは、週刊謹聴を買おうと新潟市内でコンビニに入ったのだが、四軒もまわったのに、すべて売り切れだった。
「誰かが買い占めたんですかね?」
「わからないけど、あまりに偶然がかさなると、なんだか作為みたいなものを感じるわね」
篠原は、カーステレオをNHKラジオにあわせた。
「なにかニュースをやっているかも知れませんよ」
しかし十時のニュースでは、談合のニュースは流れなかった。とくに大きな動きはないのだろうか。
二人とも疲労がたまっていたため、一時間というインターバルで交代しながら、先を急いだ。夏休みシーズンだが、夜の北陸道は走る車も少なく、自然とスピードが上がっていった。
「本当は、昼間走りたかったのよね」
万里子が言うと、
「そうですよね、海を見ながら走れるから、このルートを選んだんですよね」
「でも仕方ないわ、先を急ぎたいから」
時間は午前零時をまわり、車は富山を過ぎ金沢へ向かっていた。そろそろころ合いだと思った万里子は、
「このへんで仮眠をとりましょう」
と言うと、小矢部サービスエリアへハンドルを切った。
万里子は街灯が少ない大型車両の駐車スペースに車を止めると、
「ここで仮眠をとりましょう」
と、言った。
・・・つづく
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?