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通勤日記ーおばさんパワーー
いつの時代も、始発駅での座席争いは絶えない。誰もが座りたいとおもい、始発電車を待つ列に並んでいるからだ。満員電車で座るのと立つのでは、新幹線のグランクラスと貨物列車ほどの違いがある。座れば揉まれることもなく、居眠るも本を読むのも自由である。しかし、立てば慣性力に揉まれ、本は読めないし、スマホを見ることもできない。
一九九〇年代、ぼくが利用していた有楽町線は、比較的マナーが守られていた。和光市駅で始発を待つ列は、「次の始発」と「次の次の始発」という二つの列ができ、始発電車は入ってくると、「次」がはけ、「次の次」が「次」になる。
だが、ときとして通勤時間帯に乗り慣れない人が入り込むと、いろいろな軋轢を生むことがある。
このはなしは、そんなひとがまぎれ込んだときのことである。
☆ ☆ ☆
ときとして、自分でも気づかない力が全身に漲り、未知の潜在能力を突然発揮することがある。あの日あの時のオバサンは、まさにその様な状況にあったと思う。
その日の朝、ぼくはいつものように家をでて、いつものように和光市駅で始発電車を待つ列に加わった。確か前から四人目だったと思う。誰でもそうだと思うが、列の後ろに付くときは、自分の前に何人いるかをチェックし、確実に座れるかどうかを判断する。
和光市駅での整列乗車は二列。この二列が電車に乗り込むとき、右と左とに、きれいに分かれる。そして座席は七人掛け。隣のドアからも乗車してくるから、結局前から七人目までが座れる計算になる。
しかし、これもほとんどの人がそうだと思うが、ぼくも七番目の位置は、確実に座れる位置ではないと判断している。それは、列の前でもたつかれると、隣りのドアから乗り込んだ人に多くの席を占有され、座れなくなるからだ。
ぼくの場合、前から六番目をボーダーラインと考えている。たまに列の前でのんびり乗り込む人がいると、六番目でも座れないことがある。ブランド系のスーツを着た中年のオジサンにその傾向がある。自分は確実に座れる位置にいるもんだから、格好を付けて「自分は焦って席を採るようなまねはしない」と言いた気に、わざとゆっくり乗り込む。後ろのことなんか全然考えていない。こういうオジサンを見ると、ときどきイライラさせられる。
ところで、ここのタイトルは「オバサンパワー」で、オジサンが主役ではない。そう、いつものように出かけた、朝の和光市駅での話に戻そう。
今考えると、この日は前から四番目だったので、絶対、確実に座れるという油断があった。隣の列に、子供を連れたオバサンがいることを、もっと早く気づくべきだった。
やがて始発電車が入線しドアが開く。ぼくはいつもの歩調で流れに身をまかせ、電車に乗り込む。そして、一番身近な空き席を見つけ座ろうとした。その瞬間、ぼくがまさに座ろうとした瞬間、オバサンのお尻がぼくと座席の間に割り込んで、ぼくを突き飛ばしてしまったのだ。そして「○○ちゃん、こっちこっち、早く座りなさい」と、子供を手招きした。
ぼくは少しむっとして、そのオバサンを見つめてみたが、オバサンは何事もなかったかのように平然とため息をつき、座れたことへの安堵感を全身で現していた。
こんなとき、座れなかったことの不満をオバサンにぶちまけても、ぼくの状況を理解していない周りの人にとっては、寛容性のない男が一人、怒鳴っているとしか映らないだろう。
また、オバサンにクレームをつけても、きっと席は空かないだろう。悔しいけれども、諦めるしかない。でも、本当に悔しかった。それは、座れなかったことではなく、この時間帯の通勤において、はるかに経験豊富なぼくが、おそらくビギナーだと思われるオバサンに、敗れ去ったことにである。そして、経験豊富であるが故の油断が、ぼくの注意力を削いでいたことにである。
「初心忘るべからず」、そして「虚心坦懐」。ぼくは、もう一度自分を見つめ直そうと決意した。でも、また同じ状況におかれたら、オバサンを蹴飛ばしてでも座る勇気が、ぼくにあるだろうか?
またひとつ課題が残った。
・・・つづく