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ワタナベサダオさ~ん!

 ある寒い冬の午後、予約したペインクリニックへ行った。腰椎椎間板ようついついかんばんヘルニアをわずらい、しつこい座骨神経痛ざこつしんけいつうに悩まされていたためだ。

 この日は、五回目の「硬膜外こうまくがい神経ブロック注射」を受けるための通院だった。痛そうな注射だけど、上手な医者にかかれば、なんてことはない。最初に皮下麻酔注射を打つので、そのときだけ「チクッ」とするが、その後はほとんど痛みを感じない。

 インターネットを検索すると、耐えがたい激痛げきつうに苦しんだという話を見るが、ぼくの経験からすると、それはやぶ医者にかかったということだ。女医のN先生にお願いしているが、いまだかつて激痛を経験したことがない。

 しばらく待合室で待っていたら、「ワタナベさん、ワタナベサダオさ~ん」と呼ぶ声が響いた。ワタナベサダオといえば、あの有名なサックス奏者「ナベサダ」さんと同姓同名である。

 中学生のころ、「ナベサダとジャズ」というラジオ番組を食い入るようにいていた。渡辺貞夫さんが出演するジャズ番組で、たしか夜遅い時間にニッポン放送から流れていたと記憶している。

 舟木一夫ふなきかずお橋幸夫はしゆきおなど、歌謡曲が全盛の時代、ラジオから流れるジャズの調べは、異国情緒いこくじょうちょにひたるに充分なひとときだった。軽快なリズムからにじみ出るように響く、ビアノやサックスやトランペットのメロディーに、歌謡曲にはない心地よさを感じたものだ。

 そんなことから、大人になってもジャズファンは続き、いまでもチャーリー・パーカーやオスカー・ピーターソンのCDを聴くことがある。ゆえに、渡辺貞夫さんは、ぼくにとって神のような存在なのである。

 だから、病院の待合室でその声が響いたときは驚いた。そして、どんな人だろうとという興味がわき、看護師かんごしのいる方向に視線を向けた。すると、かのナベサダさんとは一線を画す、ひ弱な容姿の老人が「はい」と返事をし立ち上がった。年のころは八十前後だろうか。つえをつきながら、ゆっくり看護師の方向へ歩きだした。

 まあ、本物の渡辺貞夫さんがいるわけないとは思ったが、どうしても確認したくなるのは、好奇心のなせるわざである。ある先輩が言った「人間、好奇心を失ったらおしまいだ!」という言葉が、いまになって心にしみる。

 そういえば、こういう有名人と同じ名前って、なにかと苦労があるそうだ。「たかはしひでき」という友人がそう言ってた。彼いわく、銀行や病院で名前を呼ばれるたびに、痛いほどの視線を浴びるそうだ。ときどき、視線の後に落胆のため息が聞こえることがあり、傷つくことも多いという。

 ぼくの名前には有名人のかけらもない。だから、有名人と同じ名前であることに、うらやましさを感じていたのだが、それはそれで苦労があることを知った。でも、営業で名刺を渡すと、直ぐに名前を覚えてもらえるし、そこから話題をふくらますことができ、けっしてマイナスばかりではないとも言っていた。

 じつは、ぼくには、名前にまつわるずかしい経験がある。まだ元号が昭和だったころ。ある夏の日、福島県の喜多方にでかけ、有名なラーメン屋に入ったときのことだ。

 駅前の店は雑誌などで紹介され、ものすごくにぎわっていた。入り口で注文をしテーブルに着こうとしたら、「お名前は?」とかれた。理由を聞くと、座った場所を覚えてられないので、できたら名前を呼ぶとのことだった。

 ぼくはここで、ちょっとしたいたずら心をだし、「綾小路あやのこうじです」と言った。その時代、中年のご婦人をとりこにする漫談家も、紅白歌合戦で物議をかもした突っ張り系のミュージシャンも、その存在が知られていなかった。だから、この名前が意味するものは、由緒ゆいしょ正しき家柄の、公家の末裔まつえいということなのである。

 いぶかりもせず名前を受け取った店員は、約十分後にラーメンを持って、「綾小路あやのこうじさま~~」と発した。当然店でラーメンを食べている人の手が止まり、「えっ」という緊張感が広がった。そのときの空気は、「そんな高貴こうきな名前の人がいるのか」という感じだったと思う。

 ぼくは恐る恐る「はい」と手をげたが、ぼくに向けられる視線は本当に痛かった。そのときの服装は、よれよれのTシャツに、すそが切れかかったGパン(死語かな?)といういでたちで、どう見ても高貴な家柄の御曹司おんぞうしには見えなかったからだ。

 それ以来、このようないたずらは、当たりさわりのない範囲にしようと、心に誓った。美味しいはずのラーメンが、味気なくなってしまっては、元も子もない。

 話はあらぬ方向にそれてしまったが‥‥。ワタナベサダオさんが呼ばれたあとに、「コバヤシさん、コンバヤシサチコさ~~ん」という声が響いたことは、取るに足りないことかも知れない。熱い視線を浴びせる人は、誰一人いなかったのだから。

おわり


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