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通勤日記ーすこしの勇気ー

 勇気と言っても、その評価は人それぞれだ。電車でお年寄りに席を譲る勇気といえば、そんなことは当たり前で、勇気でも何でもないという声が聞こえそうだ。

 だが、シャイで人と交わるのが苦手な人にとっては、大いなる勇気なのかも知れない。勇気とは、その人の内面にあるもので、絶対的なものではない。

 これからはなすことは、ぼくにとっての勇気である。いや、勇気がないという話しである。

     ☆     ☆     ☆

 有楽町線の長い座席は、だいたい七人掛けと決まっている。座席の近くにその旨を明記した表示もあり、これは間違いのない事実である。ところがその長さが実に微妙で、冬の着ぶくれた男が七人座ると、だいたい一人は窮屈きゅうくつな体勢を余儀なくされてしまう。たまに関取のような体格の人が座っていると、七人が横一線に座るのは、物理的に不可能である。

 最近の車両は、七人掛けを主張するように、腰を落とす位置に模様がついていたり、あたかも一人掛けが七個つながっているようにくぼみがついていたりする。また車内放送でも、七人掛けなので譲り合うように注意される。営団地下鉄は、なんとしても座席にきっちり座らせたいようである。

 ところが帰りの有楽町線に乗ると、ときとして七人掛けに六人しか座ってないケースがある。少し詰めればもう一人座れるのだが、座っている人たちは、既得権があるかのように余裕をもって座っている。仕事に疲れて乗り込んだときなど、少し詰めてくれないかなぁと思いながら、吊革につかまることがある。何となく詰めてくださいと言いそびれると、あとは誰かが席を立つのを待つしかない。

 そう言えば、ある時こんなことがあった。六人しか腰掛けていない座席の前でつり革にぶら下がっていたら、永田町ながたちょうから乗り込んできた小柄なオジサンが、ぼくの脇の下をすり抜け、すいませんと右手を前に突きだしながら、隙間に身体からだを埋めてしまった。こうなるとオジサンの両端の人は、結構窮屈な体制を余儀なくされる。仮にどちらかの人が席を立ったとしても、ぼくに与えられるスペースが僅かしかないことは明白である。その時ぼくは、何かを思い出したようなふりをして、次の駅で車両を乗り換えた。

 また朝の有楽町線では、営団成増駅(始発の和光市駅を出ると最初の停駅)から乗ってくるオバサンで、必ず座席の人数を確認する人がいる。そして七人掛けに六人しか座っていないことを発見すると、素早く一番広そうな隙間のところに来て、七人掛けですからといいながら座ってしまう。

 ぼくには変な照れがあり、なかなかすいませんといいながら、隙間に身体からだをすり込ます勇気がない。でも、それは自分自身に問題があるわけで、脇をすり抜けたオジサンや六人の座席に座るオバサンの行動の方が、正当であることは明らかである。

 このような行動をとれない人間には、七人掛けに六人しか座っていない人々に、心が狭いとか、慈愛の心はないのかとか、自分勝手なんじゃないかとか、譲る気持ちがないのかとか、そのような非難の気持ちを持ってはいけない。だからぼくは、自分の考えをきちんと行動に移すオジサンやオバサンに、ぼくは大いなる敬意を払いたいと思う。

 そして、今度このような状況になったら、勇気を持って座らせてもらおうと、心に誓うのであった。

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 結局、勇気は発揮されなかった!(T_T)


・・・つづく

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