路傍に咲く花(25)
恋人を失い、幼なじみの親友を失い、伸二は途方に暮れた。よりよい日本をめざし、世の中の不条理と闘うことが、自分自身のアイデンティティーだと信じ、これまで一生懸命走ってきたのに。その結果が、こんなことになるなんて。伸二は激しい懊悩に悶絶し、死で償うことも厭わないというところまで、追いつめられていた。
和歌山から上京した孝次郞の両親は、遺体を前にして激しく泣いた。きびしい家計をやりくりして進学を許したのは、自分たちの将来を支えてくれるという期待からだけに、受けた衝撃は計り知れない強さであった。
「おまえが進学させたいと言わなければ、こんなことにはならなかったんや」
父親の康二朗は、母親の幸子を責めた。
「孝次郞、孝次郞」
母親の幸子は、ただ嗚咽するだけだった。
「大丈夫ですか……」
伸二は、傍らで崩れそうな幸子の肩をだいた。いまにも折れそうな細さに、生活の苦労が伝わってきた。
その瞬間、
「おまえのせいだ。孝次郞がおまえの家に行ったから、こんなことになったんや。おまえが孝次郞を殺したも同然だ!」
康二朗は、掴みかからんばかりの勢いで、伸二に罵声をあびせた。だが、仕事もせず酒に明け暮れる康二朗には、伸二に掴みかかる力は残っていなかった。
「申しわけありませんでした」
伸二は膝をつくと、深々と頭を下げた。そして、
「申しわけありませんでした」
同じ言葉を、もう一度吐きだした。
孝次郞の遺体は、東京で荼毘に付され、和歌山に帰っていった。伸二は、東京駅まで見送りに行きたかったが、その言葉を伝える勇気がなかった。たぶん、申し出ても断られたことだろうと思うと、これでよかったんだと自分を納得させた。
一方、遺体と対面した美幸の母親は、孝次郞の両親とだいぶ違っていた。冷たくなった娘に涙をながすと、
「美幸がこんなことになり、親としては本当に悲しく、つらい現実を突きつけられました。ですが、美幸は猪狩さんと知り合えて、とても幸せだったと言ってました。短い人生でしたが、早くに父親を亡くしたことの反動なのか、幼いころから口が達者で、それが仇となり友だちもできず、口には出しませんでしたが、中学高校とつらい毎日だったようでした。大学に入学し、猪狩さんと知り合えて、やっとわたしのことを解ってくれる男ができたと、たいそう喜んでいたんです。だから、こんな悲しみの中ですが、あえてあなたにお礼を申しあげます。ありがとうございました。これからは、娘が果たせなかった素晴らしい人生を、あなたに歩んで欲しいと思います」
美幸の母親は、伸二を責めるどころか、感謝の言葉でこたえた。娘の死が現実となった母親を思えば、面罵されてもしかたがないと思っていたので驚いた。極限の不幸に接しても、他人を思いやる気持を失わない清廉さは、伸二のこころにも、震えるような感動をもたらした。
美幸の遺体も、東京で荼毘に付され、鹿児島の実家へ帰っていった。軽くなった美幸の遺骨を抱き、羽田空港の搭乗ゲートに消えていった母親の姿を、伸二はこころに焼きつけた。
それから一週間が経ったころ、岡田美幸の母親から一通の手紙が届いた。それには、娘の遺体を引き取る際、東京で世話になったお礼とともに、初めて信頼できる人と出会え、本当に幸せだという美幸の手紙が、たびたび実家に届いていたという逸話が記されていた。伸二の脳裏には、涙を流しながら手紙をしたためる母親の姿が、水面に映る雲のようにゆらゆら動きながら、浮かびあがっていた。そして、そのなかに自分の姿を投影し、美幸の母親よりも深く頭を垂れた。だが、脳裏の自分も、漂流する心根を映すように、ゆらゆら揺れていた。
伸二の内面は、懊悩と感動という二つが、まとわりつく螺旋のように、ついたり離れたりしながら鳴動した。あの日、外出せずに美幸といっしょにいれば、彼女だけは救えたかも知れない。数日前、対立するグループに仲間が拉致され、解放されるという事件があった。その対応の話し合いにでかけ、墓穴を掘った格好になった。もっと注意をすべきだったと後悔しても、したりないと自分を責めた。
猪狩伸二は、信念を折った。人権派弁護士として不条理と闘う夢は、学生運動の同志にたくし、東京大学を退学した。心残りがないと言えば嘘になる。だが、いま自分に残された誠意は、巨悪に向けるものではなく、明日の生活も知れない孝次郞の家族と、悲しみに耐える美幸の母親にむけるのだと、言いきかせた。
中野のアパートを引き払うと、孝次郞の両親にもう一度謝ろうと列車の乗った。だが、和歌山駅に降り立った伸二は、見馴れた景色を見るうちに、耐えられない重みを感じ、雑賀崎に足を向けることができなかった。孝次郞の命を奪ったという重圧は、足が鉛になったように重く、数歩踏み出すと目眩で景色が回った。
人権派弁護士になって巨悪と闘うなんて、大それた目標だった。平常時に立派な発言をすることは、誰にでもできることだ。大切なのは、窮地に陥ったときに、どれだけ立派な行動がとれるかが問題なのに、いまの俺は謝ることさえできない。虚心坦懐を座右の銘と公言してきたことが、ほんとうに恥ずかしいと思った。
結局、猪狩伸二が雑賀崎に戻ることはなかった。
☆ ☆ ☆
「あのできごといらい、兄からの連絡は、糸が切れたように途絶えてしまったんです。孝次郞さんの葬儀には戻ってくると思っていたんですが、手紙ひとつよこさず、家族は本当に心配したんです。兄は小さいころから正義感が強く、もしかしたら、責任を感じて自殺したんじゃないかと、悪いことばかり考えてしまい……」
早苗は、息を吐きだすように言った。
「そんな兄が雑賀崎に姿をみせたのは、孝次郞さんの葬儀が行われてから、一年が過ぎたころでした。たしか十一月の終わりだったと思いますが、北風が吹くとても寒い日だったことを覚えています」
「それまで、まったく音信はなかったんですか?」
万里子が訊くと、
「はい、捜索願をだして行方をさがしましたが、まったく所在はわからず、生きてるのか死んでるのか、家族は本当に心配したんです」
「お兄さんは、いったいどこにいたんですか?」
「はい、兄もあまりはなしたがらないんですが、東北方面をわたり歩き、働いていたようです。兄は、かなりまとまったお金を持参し、亡くなった孝次郞さんのご両親に、お詫びしました」
早苗は、思いだすように遠い目をした。
☆ ☆ ☆
猪狩伸二が雑賀崎に姿を見せたのは、寒風が肌をさす十一月の終わりだった。真っ黒に日焼けした顔と、筋肉質で引き締まった身体は、一年前の伸二を大きく変えていた。漁港ですれ違った人たちも、最初は伸二だと気づかなかった。だが、伸二らしき男が歩いていたという噂は、神経の連鎖のように伝わり広がった。狭い地域だけに、死んだ孝次郞と伸二の関係は、誰もが知るはなしとなっていた。
午後二時三十分。北風にえりもとを閉ざした伸二は、実家にはよらず、光本家をめざし歩きはじめた。迷路のような細い坂道をのぼると、トタン屋根の小さな家が見えてきた。見なれた孝次郞の家は、壁の板がやぶれ、われた硝子窓にはボール紙が埋め込まれていた。雨漏りの修繕だろうか、錆びたトタン屋根には、ビニールのシートが被せてあった。
あまりの荒れように、伸二の胸はさざなみ立った。自分のせいで孝次郞が死んだから、両親をこんな境遇に陥れたのだと、さざなみがトゲのような痛みになった。
伸二は、申し訳ない、申し訳ないとつぶやきながら、玄関の引き戸を叩いた。なん度か叩くと、
「だれや?」
家の奥から、力のない低い声がかえっていた。
「あのう……。猪狩伸二です」
伸二は、一瞬の躊躇をふり払い名乗った。だが、奥からの声は、なにも返ってこなかった。
「ご無沙汰しております。お父さんでいらっしゃいますか? 猪狩伸二です。ずいぶん時間が経ってしまいましたが、本日は、おそまきながら、お詫びにうかがいました」
伸二は、玄関の引き戸を少しだけ開けて、奥に向かって声をかけた。
だが、やはり声は返ってこなかった。
「あのう……。失礼します……」
伸二は、恐る恐る引き戸を開け、家の中へふみこんだ。幼いころ、なんどか訪れていたので、家の勝手はわかっていたが、その変わりように驚いた。壁は剥げ、黒ずんだたたみは、あちらこちらで穴が開いていた。
声のぬしを求めて、破れかけた襖を開けると、思わず「あっ」と声をあげた。そこには、紙っぺらのような布団に、やせて骨と眼球だけが飛びだした、孝次郞の父親が仰臥していたからだ。
光本康二朗は、襖のすき間から指す光に、目を背けながら、
「いまさら、なにしに来たんや」
かすれた声を張りあげた。どうやら起きあがる気力も体力もないようで、目だけが力なく伸二をみつめた。
「お父さん、本当に申しわけございませんでした。ぼくのせいで、孝次郞くんを死なせてしまいました。百万回お詫びを言っても、お父さんにとっては足りないと思いますが、いまのぼくは、こうして謝るしかありません。本当に申しわけございませんでした」
伸二は、康二朗の枕もとに膝を折り、たたみに額をこすりつけた。
「葬式にも来んと、なんでいまさら謝りにきたんや。おまえが唆さなければ、孝次郞は東京に行くこともなかったんや。ここにいて漁師にでもなっていたら、いまでも元気に働いていたんや」
康二朗は、頭を上げられない伸二に、悔しさをはき出した。
「はい。本来なら、もっと早くお詫びに来なくてはならなかったのですが……。言い訳になりますが、自分のこころの整理がつかず、どう謝ったらいいかも解らなかったのです。一年以上の経って、いまさら顔をだせる義理でもないのですが……」
「こころの整理というが、わしらのこころは、何年経っても整理なんかつかんのや。大切な一人息子を失った親の悲しみが、おまえに解るっていうのか!」
康二朗は、興奮のあまり咳き込みながら言った。
「そう言われると、かえす言葉もありません」
「言葉など返さんでもええ。誠意の問題や。いまさら一年も経って謝られても、わしらにはなんも響かんわ」
康二朗は、咳き込むことで体力を失うのか、こんどは激しい息づかいになった。
「はい、仰有るとおりです。じつは、いまできる精一杯のこととして、これをお持ちいたしました」
伸二は、すこし厚手の香典袋を、袱紗ごと差しだした。
「なんや、それは?」
少しだけ首を上げた康二朗は、怪訝な目をして言った。
「じつは、この一年間ずっと働いていました。これは、自分自身で稼いだものです。お金で解決できる問題じゃないことは重々承知していますが、それでも誠意を現実のものとして示すためには、これが一番だと思いました。どうぞ、お納めください」
伸二は、もういちど額をたたみにこすりつけた。
そのとき、玄関の引き戸が開いて、母親の幸子が帰ってきた。和歌山市内で生命保険の外交員として働いていたが、康二朗の体調が朝から悪かったため、早退して戻ってきたのだった。
襖を開けた幸子は、伸二の背中を見て、
「あのう……、どちらさまでしょうか?」
伸二はふり向き、
「おかあさん、猪狩伸二です。たいへんご無沙汰しています」
深々と頭をさげた。
「伸二さん……」
幸子は、小さく恐縮した伸二を見おろした。
「お母さん。もっと早く、こうしてお伺いし、お詫びを申しあげなければならなかったのですが、こんなに時間が経ってしまいまして、本当に申し訳なく思います。今日は、お詫びとともに、孝次郞くんの墓前にお参りさせていただきたく、こうしてまかり越しました。いまさら顔を出せる義理ではないのですが、どうぞお許しいただきたく、お願いいたします」
伸二はいちど顔をあげると、もういちど頭をたたみにこすりつけた。
「伸二さん、頭をあげてください。もういいんです、もういいんです」
感情のともなわない幸子の声は、伸二のこころを締めつけた。
「お母さん、ほんとうにごめんなさい……」
「伸二さん、顔をあげてくださいな。もういいんです。こんな生活になってしまいましたが、それも運命なんですから。たしかに孝次郞は、あなたの身代わりのように死にましたが、それをもってあなたを責めるつもりはありません。孝次郞も東京の大学で勉強したがっていましたし、そこに幼なじみの伸二さんがいたことは、たいそう心強かったとおもいます。あの日、あなたのアパートに行ったのは、孝次郞が自発的にしたことです。そこに暴漢が現れたとしても、それは孝次郞の運命だったのです。だから、もういいんです……」
伸二の脳裏には、すべての悲しみを「運命」という言葉に詰め込み、遙かかなたへ続く川に流そうとしている、母親の姿が浮かんだ。その思いが、「もういいんです」という言葉になって、はき出されたのだと思った。
「こんなもん、持ってきたんや」
康二朗は、かけ布団の上に置いてある袱紗を、あごで示した。
「これは、ぼくからのお詫びのしるしです。さっきもお父さんに言いましたが、お金で解決できる問題じゃないことは、重々承知しています。けれど、誠意をしめそうと思うと、どうしてもこういうカタチにならざるを得なかったんです。これは、ぼく自身が働いて稼いだお金です。少しでも足しにしていただければと思いますので、どうぞお納めください」
伸二が頭をさげると、
「おまえは金持ちのボンボンだから、なんでも金で解決できると思っているんやろ。孝次郞も、小さいころからおまえン家に入り浸っていたし、それが楽しかったみたいやったからな。でもな、それが親にとっては、どんなに悲しかったか、悔しかったか、おまえには判らんやろ!」
康二朗は、自分の体力を全部使いきるほどの、激しい口調で言った。
「申しわけございません」
伸二には、かえす言葉が見つからなかった。たしかに恵まれた環境だった。困窮などという言葉とは、縁遠い生活であった。だが、それがゆえに孝次郞を憐れんだつもりはなかった。気の合う幼なじみとして、勉強の時間を費やすのに、自分の家が一番だと思っていたから、そのようにしただけなのだ。
「金ですまない問題もあるんや」
康二朗にたたみかけられると、
「ご両親を傷つけたこと、こころよりお詫びいたします」
いま思いかえせば、孝次郞にたいする伸二は、いつも有利なポジションにいたと思う。それがときに、上から見下すような言い方をしたこともあった。意に介してないように見えた孝次郞も、こころの中では傷ついていたのかも知れない。悪意はなくても、人を傷つけてしまうこともあるのだ。そのことに、もっと思いを馳せればよかったと後悔した。
「おとうさん、もうそれくらいで……。伸二さんだって、つらい思いをしているんですから……」
そう言うと、幸子は袱紗を手にとった。そして厚みに驚いた。手触りから、百万円以上はいっていると思った。
「伸二さん、ご苦労なさったのね。これはありがたくいただきますわ」
幸子は、袱紗をひたいの前に頂くと、小さな仏壇のまえに置いた。そして、御倫を二度鳴らすと、手を合わせ、
「孝次郞、伸二さんが来てくれたよ」
と、位牌に語りかけた。
伸二も幸子の後ろに立つと、静かに手を合わせた。小さな位牌が、この家の窮状を物語っているようで、自然に涙があふれた。
☆ ☆ ☆
時計の針は、午後八時三十分を指していた。窓の外には街灯りがきらめき、すでに夜がはじまっていることを知らせていた。
「……ということでした。兄さんは、孝次郞さんのご両親に百五十万円のお金をわたし、孝次郞さんの墓前で手を合わせると、どこにもよらずに姿を消してしまいました」
早苗は、ふうっとため息をついた。
「そうだったんですか。でも、なぜお兄さまは新宿で、バーのマスターをやっていたのでしょうか?」
万里子は疑問を口にした。
猪狩伸二が大学を辞めてから雑賀崎に現れるまでと、雑賀崎を去ってから新宿で「リトリート」のマスターになるまでの間が、万里子にとって空白の時間だったからだ。
「さあ、それはよくわかりません。兄がバーのマスターをしていたことも、驚きです。接客業なんて、あの兄からは想像もつきませんから」
早苗は、ちらっと窓の外をみた。
「それから、お兄さんはなんで光本孝次郞と名乗ったのでしょうか?」
「それもわかりませんが……。兄は孝次郞さんのご両親に頭をさげたさい、『これからは、ぼくが孝次郞くんの分まで親孝行をします』と言ったそうです。だから兄は、猪狩伸二を捨て、光本孝次郞になったのかも知れません」
早苗は、もういちど窓の外をみた。
「それでお兄さまは、光本孝次郞と名乗っていたんですね。やっと納得しましたわ」
万里子が言うと、
「しかし、孝次郞さんのお父さんも、兄が訪ねた一ヶ月後に亡くなり、お母さんひとりが残されました。お母さんは、もともと雑賀崎のひとだったんですが、すでに実家の家系は果ててしまい、本当に独りぼっちになってしまいました」
「そのお母さまは、まだご存命なんですか?」
「はい、市内の老人ホームで元気に暮らしています。その後も、兄からは定期的に仕送りがあるそうで、『おかげさまでお金の苦労をしなくて済む』というようなことを言ってました」
「そうですか……、わかりました」
万里子は、冷たくなったコーヒーを飲みほすと、
「夜遅くまで、ありがとうございました。これ以上は、ご迷惑になりますので……」
横にいる篠原に目くばせし、腰を浮かそうとすると、
「あのう……。もし兄に会うことがあれば、いちど雑賀崎にもどってこいと、言ってくれませんか? 兄は頑固なところもありますが、決して意固地ではありません。もうそろそろ故郷に帰り、みんなを安心させてくれてもいいと思うんです」
早苗の目に、光るものがあった。
「はい、きっとお伝えします」
万里子は、キッパリと言った。
・・・つづく
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?