通勤日記ー喧嘩を止めてー
われわれの棲む社会から、喧嘩がなくなることはないだろう。そこに人がいれば、ことの大小にかかわらず、見解の相違やら行動の違いがあらわれる。そして、葛藤という膜が破れると、喧嘩が始まるのだ。
だが、サラリーマンの社会では、上下の関係が厳格であればあるほど、喧嘩は起こりにくい。部下は上司に従うという風習が身についているからだ。
ある会議の席で、こんなことがあった。出席者で一番エライ人が、凡例を「ぼんれい」と言った。たぶん出席者のほとんどは、それを「はんれい」と読むことを知っていたに違いない。だが、だれもそのことを指摘しなかった。指摘しないばかりか、誰もが「ぼんれい」と言い出した。
まあ、上司に恥をかかせてはいけないという配慮なんだろうが、指摘することで災難が降りかからないようにという、自己防衛の意味合いも否定できない。
だから、このような鬱憤は飲み屋で晴らされる。「アホな上司がいてさぁ~」なんて、同僚や友だちと話すことにより、多くの場合、怒りがすっと落ちていく。
だが、飲み屋で晴らしきれなかった鬱憤があると、溜飲は落ちずに腹の底に溜まったままになる。そして翌日に引き継がれる。
あの日の朝、あの中年男は、たぶんそんな状況だったんだと思う。
☆ ☆ ☆
ある朝の東武東上線での出来事。突然若い男性客が、中年男性の胸ぐらを押しながら、「なんだコノヤロー」と怒鳴った。ドスのきいた低い声であった。ぼくのすぐ近くだったが、状況は判らない。
若者の体躯は、第二次成長期に人一倍エネルギーをため込んだ形跡があり、まるでアメフト選手のように逞しかった。殴り合いになったら、中年男性がボコボコになるだろうと思われた。
ところが、中年男性は怯むことなくこういった。
「おまえが先に押したんだろう」
状況から見て、中年男性が謝って一件落着かと思っていたのだが、事態は思わぬ方向に進んでいった。
ぼくにはどちらに非があるのかわからない。が、「君子危うきに近寄らず」の格言にもあるように、万一殴り合いになったときの勝ち目を考え、中年男性は謝ってやり過ごすのか得策であると思われた。(注・格言の誤用による慣用的表現である)
若者も、「先に押したのはおまえだろ」とやり返す。言い合いから状況を推察すると、朝霞駅で若者が電車に乗ろうとしたとき、ドア付近にいた中年男性がブロックし、それを押しのけて乗車した若者に対し、中年男性が押返したというのが真相のようである。
満員電車では、なるべくいい位置を確保しようと、ポジショニングの攻防は日常茶飯事である。だから、このようなバトルはときどき目にするが、激しい言い合いになることは珍しい。二人とも強気で応酬しあい、大きな声で相手を非難しだした。そして若者は議論に終止符を打つようにこういった。
「次の駅で降りろや」
なんで関西弁になるのか不思議であるが、この挑発で事態を把握したのか、中年男性は、「俺は先を急ぐんだ」と降車を拒否した。
しかし、頭に血が上っている若者は、電車が和光市に到着しドアが開くと、無理矢理中年男性を引きずり下ろそうとした。それに対し車内に残ろうとする中年男性は、必死に鉄パイプにしがみつく。
まあ混雑する車内では、暴力も振るえないだろうという計算があるのだと思う。周りの人たちも、別に止めるわけではないのだが、喧嘩の抑止力になっていることだけは事実で、中年男性はボクシングでいえばクリンチ状態に持ち込もうとしているのであった。結局ぼくは和光市で降りたが、二人は東武東上線の車内に残ったまま、和光市駅を離れていった。ぼくには、この喧嘩の結末は解らない。
切れやすい若者という常套句がまかり通っているが、若者に限らず自分の気に入らない事態に腹を立て、暴力や奇声を発する人を見ることは珍しくない。帰宅途中のアルコールが充満した車内では、ちょっとした言い合いは日常茶飯事だし、駅のホームで本当に殴り合っているのを目撃したこともある。
ものが溢れ飽食が当たり前になり、我慢することができなくなったと分析する専門家もいるが、要は自己認識が欠如しているというのがぼくの感想である。社会生活をするのであれば、社会と自分との関係や、人と自分との関係など、自分自身を客観的に見る目が必要だと思うのだが。どうも、自分中心で物事を考える人が多いような気がする。
まあ、なにが正しいのかはわからないが、これだけはいいたい。ちょっと奇異に思えるかも知れないが、「むかつく」という言葉を安易に使うなと。「むかつく」という言葉が、子供社会でいじめや差別意識を助長し、若者に排他的な意識を芽生えさせていることに、みんなが気づくべきだと思う。
だから「むかつく」は、二日酔いの朝だけにして欲しい。
・・・つづく