路傍に咲く花(24)
昭和四十二年は、大学紛争の風が吹き荒れた波乱の年だった。ベトナム反戦集会や成田空港反対集会、そして安保反対をとなえた佐藤首相の訪米阻止闘争など、まさに学生と国家の闘いが繰りひろげられていた。伸二と孝次郞が大学に合格し、和歌山から上京したのは、そんな激動のときであった。
だが二人の学生生活は、嵐が吹き荒れるいばら道と、陽光に照らされた緩やかな坂道という対照的な景色の中で、親友という関わりが次第に薄れていった。高校時代から人権派弁護士を目ざしていた伸二は、もちまえの正義感を前面に押しだし、学生運動という荒波のただ中に船を漕ぎだした。一方の孝次郞は、卒業後は一流の会社に就職することと、学費は自分で紡ぎ出すことを条件に、大学進学を許されたので、学生運動などという非生産的な運動に関わる時間はなかったし、運動そのものにも共感も抱いていなかった。
学生運動にのめり込んだ伸二は、ある日、早稲田大学の学生集会に参加し、岡田美幸という女と知りあった。学生の待遇改善をもとめて登壇した美幸が、大きな眼と大きな身振りで声を張りあげたとき、伸二の目には、その女がジャンヌ・ダルクのように輝いてみえた。革命の女神、そんな言葉が全身をつらぬいた。
二人の仲は、伸二が美幸に議論を仕掛けたときに深まった。ピュアな感性からほとばしる言葉に、たがいが引かれあい、磁石が引きつけ合うように距離が縮まった。美幸の舌鋒鋭い言葉が、伸二のプライドを突き破るとき、不思議な快感が全身をつらぬいた。美幸も、自分の言葉が原因で離れていく男たちに失望していたので、伸二の抱きしめるような温かい眼差しに、こころの安らぎを感じていた。
やがて二人は、窓を伝う水滴がひとつになるように、自然ななりゆきで同棲をはじめた。美幸は、鹿児島にすむ両親に、家賃の高いアパートに引っ越したと嘘をつき、所在地が変わったことを連絡し、仕送りの増額に成功した。伸二も、この時代としては過分な仕送りを受けており、生活における金の心配は無かった。
そして、この年の秋に事件はおきた。
天井が抜けたような青空に、ほうきで掃いたような雲がはりつく、気持ちいい秋の午後であった。その日、久しぶりに音信を回復した光本孝二朗が、猪狩伸二を訪ねてきた。春に上京していらい、連絡を取りあうこともなく、ずっと不通の状態が続いていたが、数週間前に伸二のアパートで再会したとき、ときどき会おうと話しあっていた。それゆえ、新宿の運送会社でアルバイトを終えた孝次郞は、思い立って中野まで足をのばし、伸二の部屋を訪ねたのだった。
時計の針は、午後四時三十五分をさしていた。だが、あいにく伸二は不在だった。ドアから顔をのぞかせた、同棲中の美幸が、
「あっ、光本くん。どうしたの、急に!」
驚いた表情で言った。
「伸二は不在ですか? ちょっと近くまで来たので、はなしでもしようかと、寄ってみたんですが……」
「あら、残念だわ。伸二くんはいま、学生連合の幹部会に出席するため、神田まででかけているの。なんでも、対立するグループに仲間が拉致され、その対策を話しあうとか言ってたけど……。六時くらいには帰るって言ってたから、部屋で待ってもらってもいいわよ」
美幸は、半開きのドアを大きく開いた。
孝次郞が躊躇すると、
「入って、入って。なにもお構いできないけど……」
美幸は、なかば強引に孝次郞を引き入れてしまった。
「すいません。ではお言葉にあまえて、伸二が帰るまでお邪魔させていただきます」
孝次郞が恐縮すると、
「気にしないで。光本くんのことは、伸二くんからいろいろ聞いているので、なんだか他人のような気がしないのよ。自分の家だと思って、ゆっくりしていって」
美幸は、大きな瞳を見ひらいて言った。そして、部屋の大きさとは不釣り合いな大きさのソファーに孝次郞を座らせると、小さなキッチンスペースでお湯を沸かしはじめた。
「ありがとうございます」
孝次郞は、感謝の言葉をはきながら、「他人のような気がしない」という言い方に、一抹の寂しさを覚えた。美幸からみれば伸二は家族で、孝次郞は準家族という位置づけなのだろう。伸二との距離は、自分よりも美幸の方が、ずっと近いのだと思った。
美幸は饒舌だった。どちらかというと口べたな孝次郞を、たくみに話題の中心に引きこみ、幼いころの伸二をあぶり出していった。
「へぇ、そんなことがあったの?」
美幸が目を見ひらくと、
「あの時は本当に驚いたよ。なにしろ、見つかったら停学覚悟で映画を観にいって、とつぜん伸二から声をかけられたんだからね。心臓が飛び出るかと思ったよ」
「でも、伸二くんって、ずいぶんませてたのね。高校生のころから京大の学生とつき合っていたなんて、伸二くんらしいわ」
美幸が目を輝かせると、
「あのとき、伸二が『世の中を変えるような人間になろう』と言ってくれたから、俺も大学進学の決意が固まったんだ。まだ目標は定まっていないけど、いま大学で勉強をしながら、少しずつ自分の目標が見えてきたんだ。まだぼんやりだけどね……」
「へえ、そうなんだ。それって、どんな目標なの?」
「まだハッキリ定まったわけじゃないんだけど、人の役に立つような素材の開発とか、なにかの新薬に利用できる物質の開発とか、応用化学の分野で仕事ができればと思っているんだ。伸二は弁護士になって不正と闘うと言ってたけど、俺には難しそうだから、別のアプローチで世の中を変えようと思うんだ」
孝次郞は、照れたように言った。誰にも吐露したことがない想いが、美幸のまえでは息を吐くように出てくることに、不思議な感覚をおぼえた。それは、内懐に進入した手のひらに伝わる温もりのように、孝次郞のこころをしめらせた。
時刻は午後五時半をまわり、窓を照らす光に影が混じるようになった。美幸は、壁にかかった丸い時計を見あげると、おもむろに立ちあがり、
「もうそろそろ、伸二くんも帰ると思うけど、光本くんもいっしょに、夕飯食べていく?」
「えっ、でも悪いですよ」
孝次郞は、事前の連絡なしに訪れたことを気にした。
「いいの、いいの。今夜はカレーだから、二人も三人も同じなの。ねっ、もうすぐ伸二くんも帰ってくるから、いっしょに食べましょう」
美幸がそう言ったとき、ドアをノックする音が聞こえた。
「ほら、帰って来た!」
いつもの伸二なら、自分で鍵を開け入ってくる。美幸は訝りながらも、鍵を落としたのかも知れないと思い、誰何することなくドアを開けた。
安らぎの空間は、一瞬にして修羅場へとかわった。とつぜん三人の男がなだれ込むと、部屋の灯りを消し、懐中電灯の光だけで美幸と孝次郞を縛りあげた。予行演習でもしたように、手馴れた仕業であった。
「声を出したらコレだからな」
リーダーと思われる男が、きらりと光るナイフをかざし、水平に刺す動作をした。そして、残りの男たちに目くばせをすると、二人で美幸を担ぎあげ、部屋の外へ運びだした。
男と孝次郞の二人っきりになると、
「おい猪狩、よくも仲間を半殺しにしてくれたな。おまえがやったことは、捕まえたおまえらの仲間から聞いたぞ」
男が啖呵を切った。
孝次郞はおののいた。と同時に、男が自分を、猪狩伸二だと勘違いしていると、冷静に分析した。
「おい猪狩、聞いてるのか!」
男が声を荒らげると、
「おまえたちに正義があるように、俺たちにも正義はあるんだ」
孝次郞は、伸二をよそおい、あてずっぽうに啖呵を返した。なぜこのような反射をしたのか、自分でもよく判らなかった。ただ、伸二を守りたい、そして拉致された美幸も守りたいという、漠然とした感情があったことは、まぎれのない事実であった。
「そうか、そういう態度ならわかった。おまえには悪いが、消えてもらうしかないな!」
男は、暗闇のなかで冷静に言った。
孝次郞は命の危険を感じた。なにか言おうとしたが、うまく言葉にならなかった。「うっ」という音を発した瞬間、男は素早く猿ぐつわをかました。こうなると声を出すこともできず、ここではじめて戦慄をおぼえた。
そうこうしていると、さきほど美幸を拉致した二人が戻ってきて、今度は孝次郞を担ぎあげた。そして、アパートから三十メートルほど離れた歩道に停めてある、幌のかかるトラックの荷台に放り込んだ。時間にして五分程度、あっという間のできごとだった。
午後七時すぎ、猪狩伸二がアパートに帰ってきた。そして異変に気づいた。
美幸の姿がどこにもない。部屋は荒らされ、土足の後がいくつもついていた。だが、箪笥や物入れを物色した形跡はない。伸二は冷静に状況を分析し、ひとつの結論を導いた。物盗りの犯行ではない。これは明らかに、対立する学生グループの襲撃だと。しかし、なぜ美幸だけを拉致したのだろう。襲撃だとすれば、ターゲットは自分であり、美幸だけを拉致する意図が解らない。
そのとき、伸二の目にキラッと光るものが飛び込んできた。それを拾いあげた伸二は、唖然とした表情で天井を見あげた。それは、孝次郞が愛用していた腕時計であった。高校に入学したときに、母親が買ってくれたと喜んで、笑顔で披露したそれに間違いなかった。
「孝次郞が来ていたのか」
伸二はふたたび考えた。
そして、
「そうか、そうだったのか」
と叫んだ。
犯人は、孝次郞を猪狩伸二だと思い込み拉致したのだ。そうに違いない。伸二はそう確信すると、すぐに次の行動にうつった。
警察が駆けつけたのは、午後八時を回っていた。人が二人誘拐されたという情報をうけた警視庁は、所轄の警察官だけでなく、鑑識課員と専任の刑事も派遣した。赤色灯が街並みに反射すると、野次馬がおおぜい集まり、アパートの周りは騒然となった。そんななか駆けつけた刑事は、伸二への事情聴取をはじめた。
刑事は最初、叮嚀だった。被害者の家族ということで、腫れものに触るような繊細さで質問をはじめた。だが、伸二の話しを聴きはじめると、その態度は徐々に変化していった。そして、伸二が誘拐事件の被害ではなく、学生運動の抗争による拉致事件らしいと言ったとき、緩やかな変化が明確な反感に変わった。この時代、学生運動の活動家は、権力に刃向かう不逞の輩であり、警察組織からすれば、助ける対象ではなく、監視する対象であった。
実況見分を終え、事情聴取を終えた警察関係者は、離岸流のように去っていった。残された伸二は、祈るような気持で、灯りの消えた赤色灯を見つめた。
しかし、伸二の祈りもむなしく、岡田美幸と光本孝次郞は、相次いで死体で発見された。
☆ ☆ ☆
「孝次郞さんは、新呑川という蒲田のあたりを流れる川で発見されました。いまはきれいになったそうですが、当時はヘドロが堆積する汚い川で、発見されたときは全身が真っ黒で、一見して性別も判らなかったそうです」
金宮早苗は、当時を思いだしたのか、目に涙をためていた。
「それで、犯人は捕まったんですか?」
万里子が訊くと、
「いいえ。警察も学生運動の内ゲバということで、まともに取り扱ってはくれなかったようで、けっきょく犯人は判らずじまいでした。兄には犯人の目星がついていたようですが、それを追求する気力は残っていなかったようです。恋人と親友を亡くした失意から、学生生活の目標を失い、大学を辞めてしまいました」
・・・つづく
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?