通勤日記ー微妙な心理ー
秘めたるものへの興味は、男女を問わず永遠である。古代エジプト王朝の遺跡や、宇宙のなぞを解明する残滓など、まだ見ぬ真実を求める興味が、人間の人間らしい営みだと思う。それは科学や物理学だけの話しじゃない。あらゆる世の中の事象にたいし、人間らしい営みがあるのだ。
若いころ、那須温泉を訪れたさい、秘宝館なる施設を発見し、さっそく入場した。のちに熱海にも同様の施設があることを知ったが、そこは確かに秘宝館だった。秘めたる夜の営みが、かずかずの絵画になり、性文化を伝えていた。
日本の文化をひもとくと、性に関しては大らかであったらしい。子孫繁栄のためには、なくてなならない行為であり、べつに隠し立てすることでも、なかったのだろう。山梨の神社を訪れたさいには、男女の性器をイメージした樹木が鎮座していたし、男根を模した木材を担ぐ祭りを見たこともある。
だが今は、秘めやかだ。おおやけで行えば、わいせつ罪になる。だから、秘めたるものへの興味は、社会のルールにしたがわなければならない。
☆ ☆ ☆
それは十時過ぎの有楽町線でのできごと。残業で遅くなる時は、なるべく会社の食堂で夕食をとるようにしているのだが、この日は夕方からの会議が長引き、食べそびれた。妻に遅い夕食を用意するよう電話をして、空きっ腹で家路を急いだ。
この時間の有楽町線には、閉門間際まで楽しんだディズニーランド帰りの人々が座っている。だいたいは若いカップルか、子供以上に自分たちが楽しんだであろう母親グループである。一日遊んで疲れたのだろう、若いカップルも母親グループも、大きな袋を膝の前に置いて、寄り添うように眠り込んでいる。
この日もディスニーランド帰りの人たちに座席を占拠され、有楽町駅で座ることができなかった。遊び疲れた人が座り、仕事に疲れた人が立っている不条理に、多少の憤りを感じながらも、これが民主主義なのだと、わけの分からぬ理由を付けて、納得をするぼくであった。
まぁしょうがない。途中駅で降りそうな人に当たりを付け、つり革にぶら下がるモードに入ったときであった。ぼくの左前で座っている男性が不自然に身体を沈める動作を始めた。三十歳くらいのサラリーマンで、風貌は好青年風であった。なんだか落ち着きがなく、腰の位置を少しずつ前に移動し、目の高さを下げている。
ぼくは瞬時に状況を理解した。そしてつり広告を見る振りをし後ろを見ると、やっぱり案の定の光景がそこあった。
酒でも飲んでいたのだろうか。ミニスカートをはいた女性がぐっすり眠り込んでいる。しかもひざ頭が目測で十センチメートルほど開いている。ひざの上には何もなく、スカートの奥へ向ける視線を遮るものは何もないと思われる。女性のひざ頭は、電車の揺れに同期して開き具合が変化する。そして、ときどき気がついたように閉じる、という動作を繰り返している。
男性の身体が不自然に沈んでおり、まぁ気持ちは分からないでもないが、あまりにも露骨で周りに人はみんな気づいている。世の男性のすべてが女性の秘めたる部分に興味があるとは限らないが、眼前で見てくださいと膝を開かれれば、視線がそこに行くのは仕方のないことかも知れない。この場合、罪のない一人の若者を、のぞきという軽微な犯罪に誘っている女性側にも、問題があるのではないだろうか? せめてひざの上にバッグを置くなどして防御すべきである。
そんなことを考えながらつり革にぶら下がっていたら、池袋駅でぼくの前に座っている人が席を立った。ということは、ぼくが座れば嫌でも視線の中にも女性の秘めたる箇所が飛び込んでくるのだ。そのときぼくはどのような視線で対応すればよいだろうか? 隣の男性のような露骨な態度は、周りの人々からヒンシュクをかうこと必定である。
気持ちが定まらぬまま席に着いたぼくは、ここで考えた。視線を背けるのも不自然であり、むしろ前を見るのは自然な行為なんだと。そう、視線をそらすこと自体が、女性を意識している証拠なんだ。そしてぼくは口元の弛みに注意しながら視線を前に移した。
そこには……。
ぼくの予想は見事に外れてしまった。左右の内股の肉が見事にブロックをしていたのだ。
正直な感想を述べれば、裏切られた少しの失望と、見えなかったことへの安堵感が入り交じった、妙な気持ちであった。
・・・つづく